2-8
「……は?」
凍りついた青年を思わず仰ぎ見る。定家が差し出した灯りに照らされたその顔は、よく見れば、隣の男を数十年若くしたもののように見えなくも、ない。何度も目を往復させて、ようやく理解した。俺を挟んで、過去と未来の定家が相対している。これ、良いのか。良いのかこれ。
「ちょ、まじかよさダッ!」
思わず腕を掴んだ途端肘鉄をくらった。そのまま強く押し出され、俺が座っていた場所に定家が片膝立てて座る。そしてなおも手で俺を押しながら、若い己に向かってにやり、と笑った。
「丁度良いところに参った。実はな、かねてから主の和歌について少々物申したかったのだ」
「……何?」
正体を知られて固まっていた男の声音が、変わる。それを聞いた定家の笑みが一層深まった。
「さていかがかな、一つ歌論を交わすというのは。それとも歌の評を父の弟子から聞くことは、怖いか」
「そのようなわけがあるか!」
途端に声を荒げ、若き定家がどっかりと未来の自分の前に腰を降ろす。あまりに急な展開についていけない。こんなところでいきなり歌について議論を交わすというから、わけがわからない。先程から俺の腕を定家がひたすら押してくるのだが、地味に痛い。一体どういうつもりで。困惑して定家の顔を見ると、ふと目が合った。あった瞬間、凄まじい眼光に射抜かれた。押す力がより強くなったことでやっと気づく。
「まずは、先日の歌会での一首だが―」
この時代の定家は今、目の前で自分の歌にけちをつけようとしている男しか視界に入っていない。定家がそのように仕向けた。それなら、視界から外れた俺がすべきことはただ一つ。
気づかれないようにその場を離れると、俺は長い廊下を走り出した。孝己にこのことを、知らせなければ。
本像の前を過ぎ、ちょうど反対側の角を曲がろうとした時、わずかに周囲が光った。その不自然さにまさか、と慌てて覗き込むと、案の定そこに孝己はいた。立てた指から光の糸が伸び、誰かを縛っている。
「何をするの! 離しなさい!」
鈴が鳴るような透明な声が耳を打つ。鮮やかな衣が何枚も床を流れるその上を、闇と同化するほどの黒髪が広がる。女性だった。
俺が来たことに気づいて、孝己は声だけをこちらに寄越した。
「今回は慧一の出番なし。……ご本人がわざわざ出向いてくれた」
「え? じゃぁ」
糸の光が照らすその人を見る。この時代には珍しく、顔を隠していない。光を受けたその顔は蒼白で、ふっくらと整った顔立ちの中で一重の瞳がこちらを睨みつけている。この人が。
「式子内親王。この時代の歪みを生んだ人だ。― その歪み、正させてもらうから」
最後の言葉は縛られた彼女に向けられたもので、ひくりと肩を震わせた彼女はしかし、毅然とした表情で孝己を見返した。
「確かに私はこの世の歪みとなっているかもしれない。でも、今の時勢は歪みだらけよ。私以上の歪みを抱える者はたくさんいるわ。歪みを正すと言うなら、そちらを優先させたらどう?」
突然現れて歪み呼ばわりされたのに、取り乱すどころかこの切り替えし。さすが定家の姉弟子だ、肝が据わっている、と妙なところで感心してしまったが、同時に首をひねった。そういえば、彼のときに感じた息苦しさや重たい空気が、彼女からはあまり感じられない。もしかして、今回の歪みは小さいのか。でも、何やら違和感を覚える。
「孝己」
力を発動させようと息を吸った彼を止める。ものすごく迷惑そうな目で見返してくるのを謝って、尋ねた。
「俺見えないからわからないんだけど、歪みの大きさってどのくらい? えぇっと、例えば、実朝殿の時と比べて大きいか小さいかでもいいんだけれど」
何故そんなことを、という面倒くささを全面から漂わせながら、それでも孝己は答えてくれた。曰く。
「でかいよ。同じくらいでかい。それがどうかした?」
「ならおかしい。この人からは、実朝殿の時のような重苦しい、どろどろと纏わりつくような空気の流れが感じられない。あれが歪みの大きさに比例するなら、彼女の歪みはずっとずっと小さいはずなんだ」
〝つむろぎ〟の力はわからない。彼の目に何が見えているのかもわからない。けれど、一回だけだけれど、俺は実朝殿の『でかい歪み』に直に触れている。その感覚と比べてみたとき、この人の生んだ歪みが同じくらい大きいとは、到底信じられなかった。
「孝己、何か変だ。このままつむろいじゃ駄目な気がする」
「……一度やってみる」
小さく口上を述べた孝己が立てた指を横に振り切った。縛られた内親王が小さく苦悶の声をあげる。前回とは比べ物にならないくらい、その手はあっさりと動いた。しかし。
『!?』
左手が切った光る糸は、そのままぼろぼろと崩れていってしまった。解放されて床に崩れた彼女の上に降り注いで、消える。肩で息をする彼女を見ながら、孝己が呆然と呟く。
「歪みが、消えない。……なんで」
何かが、足りない。何かが、おかしい。それは何だ。
実朝殿の時は、彼の願いが歪みだった。将軍を降りること。その決断と、そこに続く未来を消した。今回は、では、彼女の何が歪みとなったのか。
息を整えながらなおもこちらに鋭い視線を送ってくる彼女を見ながら、あれ、と思う。ちょっと待て、この人皇家なんだよな。傍から見ればこの状況、俺たちが彼女に狼藉を働いたと勘違いされても何らおかしくはない。
にも関わらず、なぜ彼女を守る者が誰も存在しない。なぜ彼女は誰の助けも呼ばない。御所内、つまり自分の家の中だから、というのは理由にならないはずだ。それは現代社会の理屈であって、当時は絶対、誰かが、女房とかいう人だっただろうか、お供でいたはずだ。その人がいない。内親王はただ祈祷のためにここに来たのではないのではないか。もっと個人的な、誰にも知られたくない何か―
「……定家」
転がり落ちたその名前に、鋭かった彼女の瞳が大きく見開かれた。ひゅっと息を吸う音がして、あげかけた声を封じようと両手が口に当てられる。空気が少しだけ重みを増した。そうか、これか。ここにきてようやく、本来の目的を俺は孝己に告げた。
「孝己、この時代の定家がここに来ている。今、定家が対応している」
得心したとばかりに頷きが返ってきた。
「二人とも呼んできて」




