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灯りを取って来ると言った定家は、しかし突き当りを右に曲がった先の縁側に腰を降ろしていた。足音で人が来たことには気づいただろうに、ぴくりともしない。そっと横に胡坐をかいて、定家が見つめる先を追う。塀の向こう、灯りがぼんやりと点りだした屋敷があった。
「……あの屋敷は、誰の?」
返事はあまり期待していなかったが、意外にも彼は答えてくれた。
「主らの言うところの、後白河院の居たまう場所だ。我は十九の時に出入りが許され、父上に連れられ挨拶に参った。ひどく緊張していた我に、お声をかけてくださった。『そういうことなら、俊成殿に和歌を教わっている私は、あなたと兄妹弟子でもあるわけね』と」
その言葉で、主語が分かった。目を見張った俺の前で、定家が口元を緩める。
「院の御息女であらせられる上に歳も一回り以上上でいらっしゃる方を、どうして妹呼ばわりできるものか。せめて姉にしてくれと、親子ともども必死で懇願した。今思えばそれすら見当違いかつ恐れ多いことであったのにな。あの方はお笑いになり『ならばそれで良いわ』とお答えになった。それから数多の歌をやりとりした。恐れ多くも評し申し上げたこともある。身分や前例を気になさらない、己の価値観をこれと定め、それに基づいて行動するお方であった」
「……お強い方、だったんだな」
「左様。あの方は常に自由であろうとなされた。皇家という不自由さから、せめて歌の中にあっては解き放たれた者でありたいと」
似たような言葉を自分は聞いたことがある。同じ人から二度。忘れるわけがない。昨日本の中で出会った青年。儚い運命を背負った源氏の三代目将軍。彼が嬉しそうに言っていた。彼曰く、あれは定家がよく口にしていた言葉ではなかったか。
「実朝殿のあの言葉は、受け売りだったのか」
指摘された歌人は見事に膨れ面となった。
「人聞きの悪い言い方をするでない。遠慮なく歌を詠めと迫ってこられても、流石に身分を気にして及び腰になるのは致し方ないこと。にも関わらず幾度も仰るのだぞ。『心を尽くして歌われたものに身分も境遇も性別もないわ、定家。だから好きに詠みなさい。そして、私の歌に容赦ない評をちょうだい』とな。染み付かぬわけがなかろう」
おかげで無遠慮な物言いが板についてしまったと彼は笑うが、それは若干違うと思う。しかし、心境は理解できた。それはそれは、
「……好きになっても、仕方ない」
ましてやお題が恋の歌だったらどうしてくれよう。思わず転がり出たそれに、定家は淡く笑みを浮かべる。そしてただ一言を、風に乗せた。
「遥か昔の、初恋だ」
その時、後ろから足音が聞えてきた。てっきり孝己がしびれを切らして様子を見に来たのかと思って、弁解すべく振り向く。だが。
「……誰?」
「……誰だ」
灯りに照らされてそこに立っていたのは、自分と似たような格好をした、自分と同じくらいの年の男だった。
「誰だ。院の御所内で、何をしている」
険しい顔のままずい、と灯りをつきつけられる。しまった。先ほど定家や孝己は何と言ってごまかしていたっけ。誰の、誰の使いって言っていたっけか。
「我らは俊成殿に和歌の手習いを授かっておる者。祈祷の願いを受けてこちらに参った」
その時、隣から応えがあった。定家だ。警戒しているのか、その声は固く険しい。
「何?」
その名を聞いた瞬間、相手の雰囲気が変わった。大きく息をのむ気配がするなり、灯りが遠ざけられる。
「そ、それは失礼いたした。だがもう刻限も遅い。平家の者どもが殺気立っておる故、早々に立ち去るが良い」
妙にぎくしゃくした声で早口で述べるなり、そそくさと踵を返した青年を、しかし今度は定家が呼び止めた。その声は低く、重い。続く言葉で俺は、彼がらしくなかった訳を知る。
「主こそ、このような時刻にいったい何をしておる。― 藤原定家」




