2-5
彼の表情がはっきり変わったのは、孝己から一つの名前が告げられた時だった。
「式子内親王。彼女の世界に行く」
定家と同じ形の藍色の着物を着た孝己がそう口にした瞬間、俺の着替えを手伝ってくれていた彼の手がぴたり、と止まった。
「定家? どうした?」
振り向けば、定家が涼しい顔の孝己を睨みつけている。……珍しい、というほど長い付き合いではないが、それでも昨日の様子からは想像つかない。てっきり孝己を手玉に取りながら悠々と余裕を絶やさない者だと思っていた。険しい顔のまま手早くこちらの着付けを終わらせて扉へと向かっていくので、慌てて呼び止めた。
「どこへ行くんだよ」
「我は行かぬ」
返す声は固かった。
「我は行かぬ。主らのみで行け」
「はぁ?」
わけがわからない。困惑して振り向けば、爆弾を投下したらしい本人は弱みを得たり、とばかりに口元に笑みを浮かべた。日頃の憂さを晴らす意味もあるのかもしれないが、完全に悪人面になっていることに気づいているのだろうか。そのまま「やっぱりそうなんだ」と口笛でも吹きそうな声音で告げる。毎度の事ながらこちらは何がなにやらさっぱりだ。
「そうって、何が」
「有名な話。定家と式子内親王は恋人関係にあった。逸話説が大半だけれど、やっぱりそうだったんだ」
思わず扉の前に立つ背中にぶしつけなほどの視線を投げた。へぇ、この飄々とした男に、恋人。だが、意地の悪い笑みを口元にたたえたまま教えてくれたその内容をよくよく咀嚼して、あれ、と思う。
「内親王ってことは、天皇家?」
「そう。父は後白河院、兄は高倉天皇、弟は以仁王。皆名前なら知っているだろ。源平合戦の真ん中を生き抜いてきた皇女だ」
「ということは、身分違い……!」
天皇家に連なる娘と一歌人の、俗に言う禁忌の恋。理解した瞬間確かに思ってしまった。そうか、この男が。なるほど、それは確かに……おいしい。
視線が好奇を多分に含んだものに変わったことがわかったらしい。ものすごい形相でこちらを一睨みした話題の主は我慢ならんとばかりに取っ手を握った。そこに、孝己の声が飛ぶ。
「逃げるな、定家」
先程とは一転、楽しげな雰囲気を欠片も残さず払拭した声音だった。そのまま早足で部屋を横切り、定家の背後に立つ。自分が作り出した状況のくせに、厳しさを感じさせるほどの真顔だった。
「最初に俺、言ったはずだよね。あんたを助ける。必ず元の世界に帰す。けれどその代わり、どの世界にもついてこいと。たとえそこが過去でも未来でも、あんたにとって良くない思い出がある世界でも、絶対に同行しろ、と。契約を、反故にする気」
男の小さく肩が震えた。返事はない。去ろうとも振り向こうともしない。表情もうかがえず、ただ、立ちつくしている。しばらく反応を待っていた孝己は、仕方ない、と呟くなり息をつめて見ていた俺を手招きした。そろそろと近寄ったこの手を取って、自分の肩に乗せる。まさか、と嫌な予感がした、次の瞬間。
「ま、強引にでも連れて行くけど」
定家の肩に手を置いた状態で、反対の手を開いた本の上に乗せる。その胸元で光が生まれた。
「― 開け」
有無を言わせず、といった具合で、光の中妙な浮遊感と何かに押し込められるような感覚にのしかかられる。二度目のそれに耐えて、解放された瞬間目をあけた。
まず視界に飛び込んできたのは、どこまでも続く塀と、その向こうに見える長い長い建物だった。中から経を読む声が聞えてくるから、どうやら寺らしい。斜面に建てられたその寺の周辺には、恐らく当時でいう豪邸に当たる屋敷が立ち並んでいる。そして右側、坂を下っていったその先には、大きな川が斜陽の光を反射しながら流れていた。
驚いたことに、とにかく人気が少ない。道行く人達がどことなく忙しない。寺の前で両手を合わせると、ここにはいたくない、とばかりにそそくさと立ち去ってしまう。屋敷には武士と思しき格好の人達が出入りし、それを道端の平民らしき人達が不安げに見送っている。露店も少なく活気もない。ただ殺伐とした空気が漂っているのを感じる。まるで、これから大きな戦いでも始まるかのように。……大きな戦い?
「孝己、まさかこの時代」
未だ肩に置いていた手に力がこもってしまったが、幸い文句を言われることはなかった。首肯して、彼は答えた。
「平清盛が死んだ一年後。地方ではもう源平の戦いが始まっている。あと半年ほどで、挙兵した源氏がこの京都に来る」
その孝己に肩を掴まれたまま連れてこられた、この時代を経験した男は、その言葉を聞くなり苦しげに顔を歪めた。さりげなく肩から手を離しながら、孝己は踵を返した。
「行こう。ここ一帯は平家の屋敷だから警備の目が厳しい。突っ立っていたら怪しまれる」
動こうとしない定家を気にしつつ、一人坂を下っていこうとするその後姿に問いかける。
「行くって、どこに」
ひょい、と指差したその先には、横幅がえらく長い寺。首を傾げた俺に、孝己は驚くべき事実を教えてくれた。
「ここ、慧一も修学旅行で来たことあるよ。正確には寺じゃない。……三十三間堂だ」




