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示された扉を開けて一歩踏み入れるなり、自分の口がパカッと開くのがわかった。
「……なんだ、こりゃ」
こぢんまりとした部屋だった。中央に三人がけのソファ二脚とテーブルが据えられ、奥と左側の壁一面に並ぶ本棚には隙間なく本が敷き詰められている。そこまでは、良い。問題は右側だ。衣装ラックと、そこに掛けられた着物たち。本の中で着たような簡素なものから定家が着ていた前掛けのようなもの(のちに狩衣と呼ぶのだと知った)、更に豪奢なものまで掛かっている。袴も長さの異なるものが揃えられており、その手前には軽めの鎧一式が鎮座していた。刀に槍、弓といった武器が立てかけられ、隅には烏帽子がこれまた種類豊富に並んでいる。まるで本格的な平安コスプレ衣装屋だ。誰も司書室の奥にこのような光景が広がっていることなど想像すらしないだろう。
言われるままに孝己をソファに寝かせ、その向かいに腰を下ろす。ややあって入ってきた先生が隣に座った。テーブルの上に紙とペンを置きながら、「どの程度知っている」と問う。俺が本の中で見たこと、孝己から聞いたことを苦戦しながらもまとめて話すと彼女は一つ頷き、ペンを取った。それから思い出したように寝転がったままの男を見る。
「これは、私が説明して良いことなのか? 君から説明する?」
「せいサンからで。俺は、少し寝ます」
片腕を目の上に乗せたまま彼が答え、それきり沈黙する。やれやれ、とばかりに首を竦めると、先生はそれじゃ、と紙にペンを走らせた。現れたのは、一本の線。
「これが、本の世界の流れとしよう。ここが始点で、ここが終点」
そういって、下側に始、上側に終、と書き込む。
「ところが、物語として完成していない作品や、古くなって字が翳んだり消えてしまったり、頁が破れたり汚れたりした本は、その流れが本来の流れから外れてしまうことがよくある」
こんな風に、と線の途中から一本別に線をのばした。
「これが、歪みだ」
「歪んだ物語は、どうなるんですか」
「当然、誰にも読まれず忘れられていく。そこで、我々〝つむろぎ〟が必要となってくるんだ。〝つむろぎ〟は、この岐点に干渉し、歪みを消し去ることで物語を元の形に正す」
別にのばした線の根元を別の色でぐりぐり、と円で囲んだ。
「一本の木を想像してくれればわかりやすいだろう。我々のしていることは、主幹以外の全ての分枝を切り取ることだ。その枝が太く長ければ、それを切り取る力もいる。だが、分枝が太く長くなりすぎれば主幹は乗っ取られ、結果物語は倒壊する」
そいつのように、と指差す先には、件の本。
「その本、中がほぼ真っ白だろう。世界が崩壊寸前である証拠だ。我々〝つむろぎ〟の協会ですら諦めるくらい手の打ちようがない。完全に正すには相当の力がいる。この馬鹿が独りで相対しているのは、君が関わろうとしているのは、そういう本だ」
それはあまりに他人事を語るような言い方で、思わずかちん、ときた。
「先生は、手伝ってくれないんですか」
それほどの歪みを持つ本の中に孝己独りを放り込んで、この人は平気なのか。非難が十分にこもった問いかけに、彼女は首を振った。
「手伝〝わ〟ないのではなく、手伝〝え〟ないんだ」
見ていてごらん。そう言って先生が本を取り、適当な頁を開いて手をのせた。胸元から淡い光が漏れ、全身を包み込んでいく。
「― 開け」
その時だった。
パリン、と何かが砕ける音が部屋に響いた。光があっという間に消え去り、先生が前のめりに崩れる。
「先生!」
胸元で拳を作り、顔に汗を浮かばせ苦しそうな表情で荒く息をつきながら、しかし先生は手だけで俺を制した。少し待って呼吸を落ち着かせると、ゆっくり身体を起こす。渡したタオルで汗を拭きつつ首から外して見せてくれたペンダントは、粉々に砕けていた。
「私も、他の協会の人間も試してみた。しかし、結果は皆同じだった。入ろうとするだけで〝護り葉〟が破壊され、力を根こそぎ持っていかれる。この本に入れる〝つむろぎ〟は、孝己しかいないんだ」
礼と共に返されたタオルを受け取りながら、唖然と呟いていた。
「なぜ、こいつだけが……」
「おそらく、彼の両親がこの中にいるからだろう」
ぱらぱらと紙を繰って、ある一頁で止める。何も書かれていない、少し色あせた真っ白な頁。そこを指でなぞって、彼女は告げた。
「ここだ。ここに、いる」
まじまじとその頁を見た。どんなに目を凝らしても、何も見えない。見事なまでの空白がそこにある。おそるおそる触れてみた。何のぬくもりも感じられない。撫でてみた。古い紙特有の少しだけざらついた感触。でも、それだけだ。
二年前のことを思い出す。冬の寒い日だった。お袋の泣き声が聞こえる。双子の母親の名を呼ぶ悲痛な声。大親友が行方不明になったと、取り乱して親父にすがりついていた姿が蘇る。お袋に連れられていった病院で見た、ベッドの上でにっこりと笑う佳乃と椅子に座って俯く孝己の姿も。佳乃の精神が退化していると知ったお袋が、二人を抱きしめて涙を流した姿も。それから、そうだ、孝己が父親に対して拒絶反応を示すようになったのもその時からだった。あの時俺がおじさんだと認識した人は、既におじさんではなかったのだ。
「……本当に、ここに」
「そうだ。孝己の母親は〝つむろぎ〟の中でも強い力を持っている。彼女が中でどうにか物語の崩壊を押し留めているのだろう。だから、その血を継ぐ彼だけが入れるんだと、思う」
「じゃぁ、さっさとここに入って歪みを正せば」
「やった」
急に声が割り込んできた。向かいのソファでゆっくりと身体を起こした孝己が、こちらを見て首を振る。
「でも、駄目だった。歪みが強すぎて、太刀打ちできなかった。だから、外堀から埋めていく形に方向転換したんだ」
億劫そうに腕を伸ばすとペンを取り、先生が引いた一本の線の周りに沢山の線を平行に引いていく。それから最初に先生が書き込んだ枝を長くのばし、それに周りからのばした枝を絡めていった。結果的に太くなった最初の枝をペン先でつつく。
「今この頁の世界は、こんな感じ。強い歪みが他の歌の世界にも影響して、片っ端から歪みを生んで取り込んで大きくなっている。それを、一本一本剥がして消して、こっちの力が通用するまで小さくする。今俺がしているのは、そういう作業」
『百人一首』の世界の数はその名のとおり百。つまり、九十九の世界を渡って歪みを取り除かない限り、一の世界から双子の両親は助け出せない。そういうことか。
途方もないな、と言いかけて慌てて飲み込んだ。それは孝己が一番よくわかっている。わかっていてあえて挑んでいるところにその言葉を、俺が投げ込むべきでない。
「この頁には、誰の歌があるんだ」
ラスボスは知っておきたい主義だ。孝己の目が鋭い光を放った。
「歌番号九十九番。……後鳥羽院だ」