二章 兄と歌人と忍ぶ恋
俺に連れられて図書室に入ってきた孝己を見るなり、先生は黒縁の眼鏡に手をやって深くため息をついた。
「来るのが遅いと思っていたら、今日は出張していたのか」
その物言いからは、孝己の事情を全て承知していることがうかがえる。今年からこの学校に赴任してきた、女の先生。両親と同じくらいの年齢に見えるこの人も、もしかして〝つむろぎ〟なのか。
「……事故で、仕方なく」
「人目につかなかったのなら良いけれど?」
そう言いながらこちらに視線を向けてくるので、結果までバレていることがわかる。ここは自己申告したほうが良いのだろうか。曖昧に笑いながらちらり、と斜め下の顔に目をやると、いかにも渋々、といった具合で孝己が白状した。
「知られた上に、巻き込んだ」
「ほう?」
片眉が跳ねたのが見えて、慌てて付け足す。
「いや、もとは俺が勝手に本を持ち出したからで、それを孝己が取り返そうとしたところで色々あって、だから偶然というか不可抗力というか」
不可抗力、と口の中でそれを転がして、眼鏡の奥から鋭い一重の瞳で更に尋ねてくる。
「どこまで見た?」
「ほぼ一部始終」
と、これは孝己が答えた。途端に先程よりも重々しいため息が返ってくる。
「君は、慧一君だろう」
「そ、そうですけど」
図書館には申し訳ないが馴染みがない。それなのに、なぜ俺のことを知っているのだろう。先日のゆうちゃんや男子生徒と同じように、こいつが話しているからか。それとも特殊な事情を持つこいつの関係者は関わる教員に共通理解されているのだろうか。自分は知らないのに向こうは知っているということは、何だか妙に落ち着かない。
「私が赴任してからここに来るのは初めてだろう。清原という」
手を差し出されたので「どうも」と咄嗟に握る。と、その手に力がこめられた。逃がさんとばかりの強さに、何も後ろめたいことはないはずなのに、しまった、と思った。
「私は孝己の、まぁ師匠のようなものでね。母親のことも知っているから、これ以上余計なごたごたと弟子の負担を増やすのは極力避けたいと心底思っている。そこで、だ。こいつの仕事を知った君が、何を感じどう考えているかを聞きたい」
わずかな感情すら逃すまいとばかりに、真剣な瞳を向けられる。斜め下からも気を向けられているのがわかった。そんなに神経集めなくても良いのに、と思う。どう思ったか、どうするつもりかって、俺さっき言っただろう。
「正直驚いたし、わからないことだらけです。でも、二年前のことが絡んでいるんなら俺だって無関係じゃない。兄貴分としてはぜひ手伝ってやりたいと思っています」
「君が思っている以上に危険だとしても?」
「俺は全くの一般人で、できないことの方が多いってわかっています。足でまといになると判断したら、すぐ引きます。こいつの目的の邪魔は、しません」
落ちた沈黙は、随分と長かった。口元に手を当てて唸っていた先生は、やがて三度目のため息と共に、仕方ない、と吐き出した。
「君がついていたことで今回、彼はぶっ倒れずに済んでいる。それに免じるとしよう」
こちらへ、と司書室の奥に案内されながら、しみじみと思う。あぁ、やっぱり、いつも強引に無茶して倒れていたんだな。