1-10
ゆらゆらと去っていく姿をしばらく見送る。途中何人かの生徒とすれ違ったが、挨拶こそされれど怪しまれる様子は全くなかった。……そうだ、今日の放課後までは確かに、俺だって、欠片も怪しまなかった。
角を曲がって見えなくなったところで視線を下げる。孝己はまだ寝転がったままだった。その頭の上に、あの本が開いて転がっていた。今回の騒動の中心。指でつついてみても、何の反応もない。ただの古ぼけた本だ。しかし、記憶に間違いがなければ、変わった部分が一箇所。
「……あのミミズ文字だ」
あの世界で実朝殿の上を漂っていた光の文字。あれとまったく同じ形のものが、黒々と紙面を流れていた。
「……歌を、取り戻したから」
疑問を見透かしたように簡潔に答える孝己の声は、ひどく疲れていた。
「大丈夫か? 立てる?」
「……肩、貸して」
よろめきながら身体を起こす彼を手伝いながら、なるほど、としみじみと納得する。おそらく彼が著しく消耗するのは、あの、綱引きみたいな儀式が原因なのだろう。精神面でも体力面でも、あれはきつそうだ。
「なぁ孝己」
「……何」
「実朝殿を捕らえた時、俺の訴えがなかったらどうするつもりだったんだ」
「……無理にでも、つむろいだ」
「今までもそうやって強引にやってきたのか」
それでもって、その結果が、俺に背負われ佳乃を心配させるほどの疲労に繋がるわけだ。
何が言いたい、とばかりに力の全くこもっていない目で睨まれる。それを見返して、できるだけ重々しく、ゆっくりと、尋ねた。
「俺、今回もしかしてかなり、役に立ったんじゃないか?」
途端に彼の表情が渋くなった。苦虫を百匹くらいじっくり噛み潰して味わったような顔で黙り込む。十分な答えだ。だから、決めた。
「今日のできごと、洗いざらい説明しろ。これからどうするつもりなのかも、な」
「は、ことわ」
「考えてみろ。俺がいた方が楽できるってことだぞ。その俺が手伝ってやるって言っているんだぞ。お前に拒否権あると思っているのか」
「っ、今回は、たまたま」
「じゃぁ次俺が何もできないただの足手まといだって証明できたら降りてやる」
何度でも言おう。〟兄〝、舐めんな。
無言のまま、くたり、と首が落ちた。少なくとも疲れているときの舌戦は不利だということは思い知ったらしい。
「部活終わるまでまだあるけど、保健室、連れて行くか?」
「……いや」
億劫そうにゆるく首を振った孝己は、思いがけない場所を口にした。
「図書室、連れてって」
なぜ、と聞こうとしたがとりあえず保留しておいた。歩きやすいように抱えなおして顔を上げると、斜め横から夕日が差して顔を照らした。……もう一仕事残ってはいるが、今日も、もう終わりだ。明日からまた、こいつの〝つむろぎ〟としての戦いが始まる。俺も、そこに加担する。……明日、か。
明るい日、と書いて明日、と読む。いったい誰がそんな言葉を作ったのだろうか。明日が明るいかなんて、明日になってみないとわからないじゃないか。暗かったらいったいどう責任をとるつもりだったのだろう。
そんなことをつらつらと考えていたが、どうやら口に出していたらしい。それに気づいたのは、少ししてから返答があったからだ。
「……きっと、明日って言葉を作った人は苦しかったんだろ。今日という日が」
今日は苦しい。でも、もしかしたら次の日は。
「……そっか、明日は、祈りか」
次の日は、明るい日となりますように。
「気休め程度、だけど」
たとえ訪れた次の日が、暗い日であったとしても。
「それでも今日まで明日って言葉が残っているってことは、絶望に押しつぶされなかった人が、明るい日を求め続けて諦めなかった人がいたってことだよな」
「……ま、そういうことじゃないの」
その声には、わずかに笑みが宿っていた気がした。素であろうそれに、また一つ安堵する。
さて、俺たちの明日は明るい日となるのか。