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「僕は実朝。源実朝だ。君は?」
「慧一です……は!?」
あまりにさらりとしすぎていたから、反応が遅れた。昨夜の話を思い出しながら、無礼を承知でまじまじとその顔を見る。どう見ても大学生か社会人入りたてくらいの年齢だ。空耳では、ないのか。
「……実朝、様」
「様なんて堅苦しい。実朝、で良いよ」
「無体なこと言わないでください! 現将軍を呼び捨てにできるわけないでしょう!」
反射で詰ってしまってから、しまった、と思った。これは不敬罪に当たるのか。というか今までの数々全て、あまりに不敬が過ぎる。将軍自らの手で衣服を直してもらうなんて、最早何罪にあたるのかすらわからない。とりあえずすぐさまその場に正座して畏まってみたが、背中は冷や汗がだらだらと流れていた。やがて、といっても実際はすぐのことだったのだろうが、頭上でため息が漏れた。衣擦れの音がして、肩に手がかかる。
「慧一、顔をあげて」
優しいながらも有無を言わせない口調に従うと、同じ目の高さに少しだけ寂しげな表情があった。正面に胡坐をかいた彼は、知っている? と告げてくる。
「テイカがね、よく口にするんだ。『この世の中に於いて最も自由なのは歌だ』って。思いを尽くし言葉を尽くして歌われたものに、身分も境遇も性別も何もないんだって」
だからテイカは誰に対しても容赦ないよ? そう言って若き将軍は笑った。その容赦のなさが心地良いのだと、笑った。
「だから僕は、せめて歌を通じてできた縁には、身分を持ち込みたくないんだ。……慧一、わかってくれる?」
あまりに切実な願いを拒否する理由は、ない。
「わかりました。……実朝、殿」
まぁ良いか。そう言って嬉しそうにする彼は、あまりに優しい将軍だった。
「慧一は、僕と同じくらいの歳だよね? いくつ?」
「十六です。実朝殿は?」
「今年二十二になる」
「二十二!?」
昨夜定家は、将軍職に就いて十年と言っていた。ということは、この人が将軍になったのは、十二歳。小学校六年生でまだ縛られるものは何もない、自由多感な時期。記憶の中の十二歳の俺は、毎日双子や友人たちと公園で走り回って無邪気に笑っている。大人の目に浮かぶのは裏表のない慈愛の情で、政略なんてものとは無縁な世界でのびのびと生きている。
「……しんどくなかったんですか。この十年」
零れるように問いかけた途端彼の表情が陰り、失敗した、と思った。謝ろうとして口を開くと、それを手で制される。
「兄上がいなくなって、母上や祖父や北条の親戚に言われるままに将軍となったけれど、謀反も繰り返し起きて、父のように統率する力もないし政への興味もないのに、何のために将軍の座にいるのかわからなくなっていたのが、正直なところ。定家に歌の才能を認めてもらって、弟子にしてもらわなかったらどうなっていたかわからない」
一言一言かみしめるように、少しだけ遠い目をして、彼は語った。
「慧一、僕はね、京の都が好きなんだ。歌を憚らずに歌える文化が好きなんだ。その文化に浸りたいと望むくらい。だから、京を悪く言う北条の皆にどうしても同調できなかった。そして、決めた」
「……何を?」
問う口は乾いていた。こちらを見据えた目に灯る強い輝き。恐れをなすほどに、それは柔和な彼には不釣り合いに鋭かった。そして厳かにそれは告げられる。
「僕に将軍職は不相応だ。だから、降りる。降りて、甥に譲るよ。……本当は、兄上の嫡流である彼が継ぐべきだったんだ。彼は十三歳だけれど、僧侶のわりに野心家だし、母上も可愛がっておられるから、きっと大丈夫」