終章
終章
ラディクロワ伯の屋敷で暗き魔法使いとのいざこざがあり、ルークが角を取り戻してから、数日後のことである。
ハンネスはイリーナから剣を受け取ってじぃ……っとそれを検分し、ぱちんと刀身を鞘に戻してふうっと息をついた。
「礼を言う。やはりこの剣を持っていないと落ち着かないからな」
ルークの角でできていた剣である。
その「中身」はルークが取り戻したためになくなってしまったが、鞘としてそれを覆っていた刀身の方は残っていたため、ルークが別の力を注いでまた剣として作り直したのである。
――別の力。
イリーナがそれについて尋ねてみると、ルークは「暗き魔法使いどもから奪ってやった魔力だ」と、さらっと答えた。
ルークはラディクロワの屋敷でドラゴンの姿で実体化したときに、王都にいた暗き魔法使いたちのすべての魔力を奪ったのだと言う。
あのとき言っていた「終わった」とはこのことだ。「魔力を取り上げてしまえば、暗き魔法使いなど、ただちょいと身体の強いだけの者だからな。気を付けていればお主の力だけで対抗できるであろう、リナ?」と。
厄介な。冗談じゃない。とイリーナは思うが、暗き魔法使いたちもあれはあれでイリーナたちと同じく探求者の端くれであるのだから、ルークの口から「皆殺しにしてやっておいたぞ」などと恐ろしいことを聞かなくて済んだのは、まあ幸いだと思うことにする。
……それにしても暗き魔法使いたちの魔力を使って作った剣など気味が悪くて使えない気がするが、ルークいわく、魔法に使い手の意思が残ってしまうのは魔力の純度が足りないためであって、純粋に濾過した魔力というのは等しく「――的な」性質――ルークの発音はイリーナには理解できなかった――を持つらしいので、純粋な魔力を取り出して作ったこの剣はまあそこそこの出来なのだと自慢された。
もちろんハンネスにはそのことは内緒だが。
しかし、ルークが剣を作り直すためにイリーナも王都に足止めを食らったため、あの日の件について噂を聞くことができた。
――ルークがラディクロワ伯の屋敷でドラゴンの姿で実体化したことについては、伯の潔白さがうんたらかんたら……であり、「ハンネスが暗き魔法使いと通じていた」という噂はデマだった、とかなんとかという流れになっているらしい。
事実は微妙に違うにしても、おおむねその通りであるからイリーナは特に文句は言わない。
そして、王都にいた暗き魔法使いたちは、半数は王都の兵に捕らえられたようだ。
というのも魔力を奪われた暗き魔法使いは、移植していた魔物の身体に対して拒絶反応を起こす者が多く、街中で暴れだす者が結構いたためだ。
イリーナをしつこく狙ってきた獣顔の男はラディクロワ伯の屋敷から逃げたきり行方知れずになっているようだが、精霊たちによれば、この国よりももっと別の地へ逃げていったそうだから、ひとまずはあの男の顔を見ることはないだろうと思う。
「それにしてもお前、本当にドラゴンだったんだな」
ハンネスがルークをまじまじと見つめて言う。
ルークは「最初からそう言っていたではないか」と憮然。
「まあ、まだたまごの身ではあるが」
「たまご?」
イリーナはルークと出会った経緯を述べ、ルークの本体である石を見せる。
「……ドラゴンというのは随分と奇妙な生き物だな。生まれるのはいつなんだ? ドラゴンの孵化なんてそう見られるものではないから、立ち会ってみたいのだが――」
ふむ、とルークが頷く。
「本当ならばわれはすでにわれの自由意思で生まれ出ることができる時期に達しているはずなのだが……なぜかそれができないようである」
「え」
ハンネスとイリーナは驚いたようにルークを見つめた。
「ルーク、あなた――」
「おい、それは大丈夫なのか?」
ぎょっとした表情の二人をよそに、ルークは「まあ大丈夫だろう」と気楽に答えてひらひらと手を振る。
「なぜだか前回よりも少し魔力が満ちるのに時間がかかっているだけだからな。待てばそのうちきちんと生まれられるはずだ。別に死ぬようなものではなかろう」
イリーナはルークの言葉にため息をつく。
「あなた、それ」
……学舎で習った気がするのだ。
「もしかして『名』に呪縛されてるんじゃないでしょうね」
魔術において、「名」というのは物の本質を表すものであり、それはそのまま呪文足り得ているのである。
名は体を表すと言うが、これは、魔術風に言えば、「名は体を体足らしめている」のである。
魔法使いのたまごであるイリーナがイリーナ・ティウンと名乗っているのは、「ティウン」と名乗れば人々はイリーナを魔法使いだと認識し、魔法使い然として力を得ることができるからだ。
また、名はその者の本質を表すから、高等な魔法使いとなると相手の名を魔法に練り込んで相手の魔法を打ち破ったり、相手を服従させる魔法を組み上げたりすることもできるという。
「つまり、ルークがたまごである今名を名乗ってしまったから、たまごである状態が強化されているわけで、それを打ち破るには通常よりも多くの魔力が必要となるわけで……」
「ああ、そうか」
なるほど、とルークはぽんと手の平を叩いた。
「まあ……しかし、予定が少し狂っただけだ。気長に待つこととしよう」
「気長にって、どのくらい?」
「そうだな、多分五十年くらいかかると思う」
「五十年っ?」
人の身なればうっかり一生を終えていてもおかしくはない年月だ。
「……私、すぐにたまごじゃなくなるわよ?」
イリーナは呆れたような表情でそう言った。
なにしろイリーナは優秀だ。学舎では学長がイリーナを気遣ってあまり魔法のほうは教えてもらえなかったが、今ならば、精霊も見えるようになって学舎を放り出される理由もなくなったことだし、学長も喜んで教えてくれるだろう。
「ううむ……。先越されるのは悔しいな。……いや、われも本気を出せば、一年でなんとかなるぞ? うん、そうだ。なれば、必ずやお主よりも先にたまごを破って見せようぞ」
決めた、決心した! とルークは叫んだ。
……これから毎日、大変なことになりそうだ。――そんな予感がする。
「そうか、では俺はそう都合良くお前たちがたまごじゃなくなるのに立ち会えるかは怪しいな。……まあ、勝敗だけでも教えてくれ。俺は、ラディクロワ家がこれ以上没落しない限りはずっとここにいるだろうからな」
ハンネスがルークから受け取った剣にちらりと目を落としてふっと笑みを浮かべて言った。
それから顔を上げて尋ねる。
「お前たちのほうは、どうなんだ? 行くあてはあるのか?」
「あてもなにも、われはリナの行くところへついて行くだけである」
「私は、とりあえずは帰るわよ。私の――魔法使いの街へ。……学長が心配してるだろうし、たまごを卒業するためにはとにかく魔法使いの街で学んだほうが手っ取り早いし」
「もし……もしも、王都で魔法を学べる機会があるとしたら? かの魔法使いたちの街よりも、王都のほうが、高度な魔法を学ぶことが出来るだろう? 王都からは多くの偉大な魔法使いが生まれている」
ハンネスの言葉にイリーナは首を傾げる。
確かに、イリーナの魔法使いの街には偉大な魔法使いと呼ばれる者はいない。
王都のほうが多くの魔法を学ぶことが出来るというのも本当だ。
しかし。
「そんな機会、あるわけがないじゃない。王都の魔法学校はとびきりの才能とかお金とか身分とかがないと入れないんだし」
なにしろ、王都。
一流の魔法使いを育てる王都の魔法学校は、一流の魔法使いの血筋の者か、あるいは生まれながらの魔法の天才かでないと入れない。
たとえ精霊の声が聞こえるにしても――イリーナのような、初歩の魔法しか使えない者では。
……あるいは貴族の身分の者が大金を積んで「駄息子をお願いします」と頭を下げる手がないでもないが、そんな手はイリーナとは無縁なわけで。
「た、例えば、とある貴族に見初められて、お前が貴族の仲間入りしたりなんかして、ついでに魔法学校に入れる――なんてことになったとしたら」
「なにそれ?」
イリーナは笑う。
例えばだ、とハンネスは真剣な表情で念を押す。
「だって、どこの貴族様が見初めてくれるのよ。礼儀作法は一通り習ったけど、私は素晴らしく見目麗しいってわけではないんだし、私は魔法使いの街の魔法使いで、貴族の屋敷で働いている小間使いみたいにうっかり貴族様と恋仲になるような立場にいるわけでもないし」
「でも例えば……例えば……ラディクロワ伯の息子とか。……もしかしたらずっとお前のことを見ていたかもしれない」
「気付かなかったけど。どうして?」
「え。それは……」
ごにょごにょごにょ。
「そ、そうだ! だって、お前は今回の件でラディクロワ伯の命を救ったわけだし……気にかけて? いる、とか?」
どうもハンネスの様子がおかしいなとイリーナは怪しむ。
「……もしかしてラディクロワ伯に頼まれたの?」
もしかしたらラディクロワ伯の部屋で暗き魔法使いと対峙したとき、伯は目を覚ましていてルークのドラゴンの姿を見て――しかもイリーナがそれを従えるのを見たのかもしれない。
なにしろ、魔物の王族とも言われる、ドラゴンだ。
しかも個体数も少なく、人の世との関わり合いを避けているその生き物に、ほいほいと話かけている教養のなさそうな女がいるとなれば。
これ幸いと手元に置きたくなるやもしれない。
……いや、イリーナとしては一応、一通りの教養は身につけているつもりだが。
イリーナがそう言うと、ハンネスは「それは違う!」と叫んだ。
「父上は関係ない!」
「父上?」
叫んでからはたとハンネスは口をつぐむ。
親同士の仲のアレで息子に説得させるよう説き伏せてかかっているのか、なんだかややこしいなあ、とイリーナはハンネスを見つめつつそう思い、イリーナに見つめられているハンネスがなぜだか少し顔を赤くしているようで、しかもそんなイリーナとハンネスの二人を生ぬる暖かいような苦酸っぱ辛いような焦燥感と冷静沈着が一緒くたになったような苦悶の表情で見つめているルークにイリーナはまったく気付かずにいて――。
期待の眼差しで見上げるハンネスに。
「でもともかくどんな偉大な魔法使いよりも私の学長のほうがきっと偉大よね」
あっさりばっさりと首を振って見せた。
ドラゴンのたまごを前にしてもイリーナの身を案じてくれる学長だ。
精霊の声が聞こえるという嘘をついていたイリーナのために、身一つで放り出されても生活できるようなすべを授けてくれるような学長だ。
「とりあえずしばらくは私の学長の下で魔法を学ぶわ」
そうか。とハンネスが頷いた。
消沈。
なぜだか必要以上に落ち込んでいるような気がするが、イリーナにはその理由が分からない。
「そうか」
ルークも。
なぜだかこちらはやや嬉しげに。……我慢ならないほど王都の人混みが嫌だったのだろうか? とイリーナは首を傾げる。
「ならばリナ、イリーナ・ティウン。そなたはわれがみっちり鍛えてやろうぞ。王都の魔法使いに学ぶ必要などないくらいに」
なにしろわれはドラゴンにして偉大な魔法使いであるからな。と、えへんとルークがそう言った。
「あら、ルークあなた、私よりも先にたまごを破ってみせるんじゃなかったの?」
「その通りである。……ふむん、困ったな。――いや、基礎のほうを教えるのはあの学長とやらに任せておいて、われは別のことを教えればいいか。手始めに転送の魔法を一人で発動させるすべを身に付けさせて……」
ぶつぶつぶつ。
随分とスパルタだ。
イリーナはルークに遠見の魔法を教えられたときに、意識が――魂が彼方へすっ飛ばされそうになったことを思い出した。
……先が思いやられる。
「お手柔らかにね」
イリーナは肩を竦めた。
――しかし、イリーナは自分の心の中が少し浮き足立っていることを感じる。
たまごのルーク。
それと魔女のたまごの、イリーナ・ティウン。
イリーナは思う。
まもなく自分のこの物語が終わるだろうと予感がしている。
なぜならば、ほどなくイリーナもルークも、半人前ではなくなるだろうから。
イリーナがルークをじっと見つめていると、ルークがイリーナの視線を訝しがって首を傾げた。
「なんだ?」
「別に」
首を傾げるルークにイリーナはにこにこと笑いかけた。
帰ろう。
イリーナはルークに言い、その手をとる。
確かに感じられるルークのこの身体はまだ魔力を使って実体化させているだけの――本物の身体ではないが、次にここ王都へ来るときは、きっと、そうではなくなっているはずだ。
ルークが琥珀色の瞳を揺らせ、イリーナの笑みに釣られたのか、ふっと口元を上げ、頷いた。
突然、イリーナの手からルークの手の重みが消える。
「そうだな。帰ろうぞ」
イリーナのすぐそば……鞄の中――ルークのたまごの石からそう声がした。
ルークがこんなふうに急に消えることに慣れていないハンネスはやや驚いた表情をしている。
数日前に、実体を現さないルークの――たまごの中からの声を聞くことができるということを話してみたら、「お前、実は本当にすごい魔法使いだったんだな」と言われた。
「そうだ、リナ。お主は実はすごい魔法使い魔法使いなのだぞ? 前々から言っているではないか」
「実は、は余計よ」
ルークにも言われているが実感は湧かない。
おそらく探せばどこかにはルークのこの声を聞くことができる者はイリーナ以外にもいるだろうし、イリーナは一人前になったらとりあえずは世界の各地を回って見聞を広めるのもいいかなと考えているので、きっとそういった者に出会う機会もあるだろうし。
まあしかし――。
いずれはそうなるつもりだ。
偉大な魔法使い、と呼ばれるように。
魔法を学ぶことは好きだし、それになにしろドラゴンであるルークが魔法を教えてくれるというのだから。
イリーナは言う。
「帰ったら魔法、本当に、教えてくれる?」
「もちろんだ。われがそう決めた」
「……もしかしたら本当に私のほうがあなたより先にたまごじゃなくなるんじゃない?」
「それは悔しいので困る!」
ルークがたまごの中から叫んだ。
こうなったら、飛びっきり高度な魔法を教えて手間取らせてやるほかあるまい……ふむん、転送の魔法と、結界の魔法と、それから……ぶつぶつぶつ。
なにやらルークが企むように独り言。
「……一人前になる前にすごい魔法使いになっちゃいそうね」
思った。
とにかく、これからだ。
偉大な魔法使いになるのも、魔女のたまごを卒業して一人前になるのも。
イリーナはまた笑って、ハンネスに大きく手を振って、軽やかに帰路へと足を踏み出した。
完