四章
四章
――かのドラゴンが死んだという噂を、精霊たちから聞いた。
ああ、私のせいなのか、と彼は思う。
彼が出会ったとき、ドラゴンはかなり弱っていた。
ドラゴンは自分の住む土地を守る生き物であることを彼は知っていて、また、最近この地が荒れていることも知っていた。
荒らしたのは、彼だ。
――戦争。
彼は王で他国の侵攻から国を守らなければならならず、敵もまた容赦がなかった。
地は踏み荒らされ、木は薙ぎ倒され――あるいは魔法で焼き払われ――、水には毒が流された。
ドラゴンは、それらを浄化するために、大地に自分の魔力をありったけ注ぎ込んでいたらしい。
弱っているドラゴンを見て、ひたすら申し訳なく思ったが――しばし考えから、彼は剣を抜いた。
「我らが地の守護者よ、あなたの力が欲しい」
――彼は王であるから。
今の戦力では国を守りきれないと、薄々気付いていたから。
ドラゴンの身体からは、特別な武器が作れるということを知っているから。
だから彼は、ドラゴンに挑むことにしたのだ。
しかし。
もちろん、ドラゴンはあっさりと彼を負かした。
いくら弱っているとはいえ、ドラゴンである。彼一人が挑んで敵うような生き物ではなかった。
――しかし負かしたとはいえドラゴンは彼を殺す気はないらしかったので、彼は勝負に応じてくれたことと命を助けてくれたことに礼を述べた。
そして。
その場を去ろうとする彼を、ドラゴンは呼び止めたのである。
ところでお前はこの地に住む人の子らの王か、と。
そうです、と彼が答えると、お前は一体なんのために争いを続けているのだ? と訊かれた。
王とは国を守るものだろう。しかし争いが長引けば地も人も多く死ぬ。ではお前が守っている「国」とやらは一体なんなのだ? とも。
「……残念ながら、人は、あなたのように優しくはないのです。あなたは負けた私から何も奪わないが、私は――仮にあなたに勝っていたとしたら、あなたの命を奪って武器を作り、残りは売り払って莫大な資金を得るつもりでした。……我々の『敵』も、我々に勝てば民を根こそぎ奴隷に貶め、地を枯らすでしょう」
たとえ負けるにしても、負け方があるのだ。
主従の関係になってはならない。あくまでも、その国の一市民として扱われる立場を確保できるような負け方をしなくては。
しかし、そんな負け方は――かの国との争いにおいては、あり得なかった。
かの国はとても貧しい国だと聞いている。……貧しいから、余所から奪うのだと。そこの民も、奪うのが当然だと考えているらしいとも。
今からでは勝っても国にとっては大怪我だが、しかし負ければ瀕死だ。
負けるわけにはいかない。
「良い国をつくりたいのです」
ぽそりとそう呟いた。
ドラゴンがじっと彼の顔を見てくる。
「……ならば、力を貸そう」
しばし見つめてから、ドラゴンはそう言った。
ドラゴンがくいっと宙を顎でしゃくると、ふうっと彼のほうに、なにか、光の塊のようなものがゆっくりと飛んできた。
それが彼の手の上で、形を変える。
剣。
「わが角をお主に貸しておくことにする」
その言葉に見上げてみれば、確かに、先ほどまで見慣れていたドラゴンの角が欠かれている。
貸しておくだけだぞ、とドラゴンは言う。
いずれ必要になったときには、返してもらいにお前の子孫の元を訪れよう、と。
ああ、と彼は深くため息を漏らす。
この剣が、どんなドラゴンの武器よりも特別であることは、一目で分かった。
そうして彼はドラゴンに深く礼を述べて帰り、それを使って敵を退けたのである。
かのドラゴンが死んだ、という噂を聞いたのは、そんなときだった。
ドラゴンの角は、強大な魔力が秘められているのである。それを取り去れば命を削ることになるということは、彼にも分かっていた。
しかしおそらくはドラゴン自身も。
彼は、そのことを分かっていたから、今ここでかのドラゴンから授かった剣を使うのをやめるのは、ドラゴンの遺志をないがしろにすることのような気もして、迷った。
だから――。
その剣を。
彼は特殊な鞘を作ってそれに収めることにした。
鞘に収めたまま、使おうと。
魔法をかけたため、それを取り去ることができるのは、もはや彼一人だった。
剣を抜くには、かのドラゴンの名を唱えなければならないが、その名を知るのは彼だけだったから。
もし抜くとすれば、彼がドラゴンと約束した通りの国を作ったあとか、あるいは――。
「……あるいは、ルーク自身が取り返しに来たときね?」
ぽそりとイリーナは呟いた。
その自分の呟きで、はっと目が覚める。
――夢だった。
ん? とルークがたまごの中から問うてくるので、なんでもない、と返しておいた。
イリーナは、壁に立て掛けてある古い剣に目をやる。
これはドラゴンの剣ではない。
王がドラゴンに――ルークに挑んだときに使った剣だ。イリーナとルークがラディクロワ伯補佐の屋敷から抜け出したあと、遺跡から持ち出したもの。
魔力が込められているのだ、とルークが言っていたから、この夢は、そのせいで見たのだろう。
イリーナはまたちらりと机の上のルークに目をやる。
ルークは「剣を持っているのはラディクロワ伯補佐だ」と言っていたが、イリーナは、それが誤りであることを知っていた。
この事実をルークに言っておくべきだ、とイリーナは思ったのだが、しかし、今は真夜中なのだ。眠い。伝えるよりも、睡魔に勝てなかった。
まぶたが降り――。
「リナ」
うつらうつらしていると、ルークに呼ばれて、はっと目が覚めた。
「夜明けが近い。行くぞ」
どうやらいつの間にか結構な時間が経っていたらしい。
イリーナたちはまたラディクロワ伯補佐の屋敷に忍び込むつもりだった。
布団からもそもそと抜け出す。
王の剣を持って――。
「ルーク。あのね、ルークの剣のことだけど」
しんとルークが黙った。
気まずいなと思いつつイリーナが「ルークの剣は――」と言いかけると、ルークがたまごの中から姿を現して、顔をしかめてみせた。
「悪いが聞きたくない。――あのラディクロワの末裔のことは、われに任せてもらう」
ぴしゃりとそう言われてしまった。
「でも」とイリーナがなお言い募ると、ルークはそれを無視して、詠唱。
転送陣。
一瞬のうちに、イリーナはラディクロワ伯補佐だという紳士の屋敷の中にいた。
すたすたとルークが歩いていってしまう。
無駄口を叩くなということか。
――もう。
イリーナ頬を膨らませたが、もう何も言わず、ルークのあとに続いた。
「剣のことは、ひとまずは後回しだ。とりあえず早急にあの若造を助ける。ラディクロワに仕えているにしてはなかなかましな若造だからな。助けないわけにはいかない」
「ハンネスの居場所は分かるの?」
「どうせ暗き魔法使いどもに捕まっているのだろう?」
「それはそうだけど。……そうじゃなくて」
「大丈夫だ。なにやら魔力が集まっている場所があるようだからな。おそらく、そこにあの若造もいる。……少々急がなければまずい気がするがな」
最後のほうは、やや小さな声。
イリーナがルークに目で問うと、「どうやら精霊どもが少し、殺されたらしい。暗き魔法使いはあの若造にそれを移植する気のようだな」と言った。
そうか、忘れていた。
精霊が見えるのはハンネスのように才能を持つ者だけではないのだ。
魔法を極めれば、精霊を見ることも可能なのだ。――暗き魔法使いのあの獣顔の男は、一人でぽんと転送の魔法を発動させてしまうほどの魔法使いなのだから、精霊の一つや二つくらい見えても不思議ではない。
イリーナはちらりと周りの精霊に目をやった。
精霊たちは顔を見合せ、そして、こっちだとイリーナを手招きした。
案内してくれるらしい。
剣を持って部屋を出て、遠見の魔法で見た通路をこっそりと進む。
……ルークが周りに幻影の壁を作ってくれているのでイリーナの姿は見えなくなっているが、暗き魔法使いに出くわすたびにばれやしないかと冷や冷やした。
奥へ。
イリーナが遠見の魔法で見た通路のそのまた奥へとずっと進むと、なにやら、精霊たちが集まっている扉を見つけた。
様子を窺おうと思う間に、扉が開いて、ローブの魔法使いが出てきた。
思わず声を上げそうになるのを必死で抑え、扉を閉められる前に、するりと中へ。
ん? と魔法使いが首を傾げたのにはどきどきしたが、どうやら気付かれずに済んだらしい。
――寝台に、ハンネスが寝かされていた。
手足を縛られ、うつ伏せに。
抵抗する様子はなく……まさか死んでいるなどということはないだろうかと不安に思うが、「大丈夫だ。眠らされているだけだ」とルークが言うので、イリーナはそれを信じることにした。
暗き魔法使いは――。
なにやら、別の台の上で、作業をしている。
精霊たちがおぞましいものを見るような目で、少し距離を取って取り巻いている。
イリーナには、宙を切っているようにしか見えないが――。
「ああ」
ルークが嘆息。
「リナ。お主にこれが見えなくて良かった」
一体なんのことかと……イリーナは声を出すわけにはいかないので、ルークに目で問うと、ルークは言った。
「今、精霊が、切り刻まれているところだ」
ぎょっとしたようにもう一度台の上に目を向ける。
やはりイリーナには何も見えない。……イリーナには風の精霊しか見ることができないから、つまり、切り刻まれているのは風の精霊ではないということか。
しかし、見えなくとも、気持ち悪いものは気持ち悪い。
暗き魔法使いは、しばらく作業を続けたあと、ハンネスの台へと鉢――おそらくこの中に精霊のばらばら死体が入れられているはずである――を持ってきて、置いた。
おもむろにハンネスの服を捲り上げる。
そして、片手に短剣。
精霊を移植するつもりなのだと分かり、さすがのイリーナも黙っているわけにはいかなくなり、「止めて!」と周りの精霊たちに頼んだ。
ごおっ、と風。
暗き魔法使いは体勢を崩して転倒。
……猫目の女だった。
イリーナはそれを横目に見つつハンネスを叩き起こしにかかる。
「ハンネス! ハンネス、あなたねえ、呑気に寝てる場合じゃないわよ。私を助けに来たんじゃないの? なんであなたが私に助けられてるのよ」
「う……。お……ま、え、無事だったのか」
枷を外され、ふらふらと立ち上がる。
「すまない。油断した。剣がない」
イリーナは、持っていた剣をハンネスに押し付ける。
王がルークに挑むときに使った剣。
ハンネスが剣を抜くと、猫目の女が立ち上がり、攻撃を仕掛けてくる。
……受け流す動きが、危なっかしい。
「小娘!」
しかも、騒ぎに気付いて、他の暗き魔法使いたち――先頭に立って声を上げたのはやはりイリーナが知る獣顔の男である――が駆けつけた。
男は言う。
「まったく、いい時に戻ってきたものだな。お前はやはり精霊が見えているのだとばかり思っていたが……この惨状が恐ろしくはないのか?」
あらぬ方向を指したその先には、きっと切り刻まれた精霊の死体が転がっているのだろう。ハンネスも、一度そちらを見てから、顔をしかめてふいっと目を逸らしている。
しかし幸い、イリーナには見えないのだ。
答える代わりににっこりと笑みを作る。
呪文。
風の刃。
仲間を殺されて怒っているらしい精霊たちが手伝ってくれたおかげで、凄まじい威力を発揮した。
獣顔の男は保護壁を張ってそれを防ぐが、他の者たちはもろにそれを食らって悲鳴を上げた。
「可愛い顔してよくそんな魔法を使えるな……」
ハンネスがやや引き気味にぽそり。
「あらありがとう」
イリーナはとりあえず「可愛い」というところだけ聞いておくことにして、にっこり。
……もちろん、この魔法を人に向けて使ったのは初めてだが。
「だいたいあなたたち、精霊が見えるのなら私やハンネスを捕まえてどうにかしようだなんて考る必要はないじゃない」
イリーナは言う。
てっきり、暗き魔法使いは精霊を捕まえさせたり移植を手伝わせたりするために自分を拐いたいのだと思っていたのだが、……まさか移植される側とは。
「それは、自分ではない者がわれわれにどうこうされる分には、お前の良心もまったく痛まない、という意味か? ずいぶんと薄情だな」
「違う。私以外の人を拐って移植しろだなんて言ってないわよ? あなたたち、身内同士で移植しろって言ってるのよ。そのほうが安上がりでしょう? 私も、あなたたちのような恐ろしい人たちが減ってくれて嬉しいし。一石二鳥よね」
「……薄情な魔女だ。しかしそれはできない」
男は言う。
「なぜなら、それはすでに試しているからな。残念ながら、精霊の移植は予想以上に難しく、成功例はまだないのだ」
失敗例については男は触れなかったが、おそらく全員死亡しているのだろうなとイリーナは思う。
だから精霊との相性のいい者への移植を試みているわけか。
いっそそのまま全滅してくれれば良かったのに、とぼそりと呟き。
暗き魔法使いたちが色めき立つ。
「おいお前、……これ、この状況、なにか考えがあるのか?」
ハンネスがひそひそと囁いてくる。
魔法使いたちはざっと十人以上いる。……おそらくはもっと多く控えていて、しかし部屋に入りきらない様子。これに背中を向けて逃げ出すのはやや危険に思える。
しかし、イリーナはこの者たちに背中を向ける気はなかった。
「だってハンネス、あなた、ドラゴンの石も取り上げられているでしょう?」
「ああ」
「それなら、問題ないわよね。強い魔法を使っても、壊れるものがないんだし」
イリーナはルークに目を向ける。
ん? とルークがこちらを見て、「ああ」と頷いた。
「われはラディクロワ伯補佐だというあの若造に一言言ってやりたいところだが、どうやらこの屋敷にはいないようだからな……。まあ、仕方がない」
ごおっ、と風。
詠唱なしの転送陣。
それに反応して、すぐに猫目の女がイリーナたちに迫るが――。
猫目の女が目の前で手を伸ばしたところで、ふっと景色が変わった。
目を白黒させてルークとイリーナを交互に見比べるハンネスをよそに、イリーナはぐっと拳を握って笑みを浮かべた。
「よっし、脱出成功」
転送の魔法を初めて体験したらしいハンネスは目を白黒させている。
「なんでだ? どうやって補佐殿の屋敷を脱出したんだ?」
「転送の魔法よ。ルークが使って、ここに飛んできたの」
「は? 転送の魔法だって? 知ってるぞ、高度な魔法じゃないか。ラディクロワ家でも四人で魔法を組んでやっと一人を転送できるような魔法だぞ? それを、詠唱もなしで、一度に三人も?」
ぶつぶつと呟く。
われがドラゴンであることをまだ信じていないのか、とルークが憮然とぶつぶつぶつ。
しかしやがてハンネスは顔を上げて、真剣な表情でイリーナを見つめてきた。
「こんな魔法が使えるならば、頼みがある」
言う。
「ラディクロワ伯の屋敷に忍び込みたいんだ。補佐殿が、……俺が多分精霊の移植で死ぬだろうからって、後腐れないように手回ししておくって言っていたんだ。『ラディクロワ家のハンネスが暗き魔法使いと共謀して人と精霊との合成を試みている』とか『暗き魔法使いの正体がまだ若い少女だ』とか――これはイリーナ、お前のことだな――そういった噂を流しておくって」
ルークが頷く。
「ふむ。なるほど。……そういう噂を流しておけば、お主らがあの暗き魔法使いどもに精霊を移植されて死んだとしても、『発見したときには自滅していました』で済むだろうからな」
ハンネスはため息。
「だから、ラディクロワ伯に会ってこの噂をどうにかしたいんだ。……剣もドラゴンの石も補佐殿に取り上げてしまったが、伯ならば事情を察してこちらの助けになってくれるはずだから」
「ラディクロワ伯って……ラディクロワ伯補佐のあの人の、親戚?」
イリーナは尋ねる。
その伯というのもおそらくはルークが剣を授けた王の末裔なのだろうから、もし暗き魔法使いと反目してこちらの味方になってくれるのであれば、ルークが思っているよりもその血が堕ちてはいないということになる。
補佐のほうは、ラディクロワ家の傍系の貴族だと言うが――。
「ああ。ラディクロワ伯は補佐殿の、兄だ」
イリーナとルークは顔を見合わせた。
「……ぜひとも顔を拝みたいな。あの補佐だとかいう若造よりもましな者であれば、われはとても、とても、嬉しい」
忍び込む魔法ならば任せよ、とルークは言った。
ハンネスは頷いた。
「……ついて来い。案内する」
ルークの魔法で姿を消して、こっそりとラディクロワの屋敷へと忍び込む。
結界と幻影を同時に展開しているらしい。
イリーナとハンネスの姿を幻影で覆い隠し、さらにその周りを結界で包んで、街の者から認識されないようにしているのだ。
そんなことを無造作にやってのけてしまうルークの力を、ハンネスはもうあまり気に留めていないようだったが、魔法使いであるイリーナはどれほどの魔力と技術があればそんな芸当ができるのかとひそかに頭の中で計算してみて、学長ほどの熟練した魔法使いが十人以上は必要だろうなとの答えを弾き出してくらりとよろめく。
ラディクロワの屋敷は、あの暗き魔法使いの導師だというラディクロワ補佐の屋敷よりも荘厳ではあったが、他の貴族の屋敷と比べればずいぶんと落ち着いた感じで――言ってしまえば、質素だった。
「伯爵家でしょう? もっと飾り立てないの?」
ひそひそとイリーナが言う。
市民の上に立つ者として貴族然とすることも貴族の立派な仕事なのだから、それ「らしく」しないと舐められるだろうに。
「昔からそうだった。われですら人の子の流儀を少しは分かるというのに、あやつめ……だから王座から引きずり下ろされるのだ、まったく」
ため息をつきながらルークもそう言った。
ハンネスはラディクロワ家の過去を知らないらしく、ルークの言葉に少し首を傾げながら「玉座? 引きずり下ろされ……?」と呟いていた。
イリーナはふと、引かれるような感覚を頭の中で感じた。
「どうしたんだ?」
ハンネスが訝しげな顔をする。「伯の部屋はこっちだ。いくら質素な屋敷であるとはいえ伯爵家なのだから、一人になると、迷うぞ」
「待って。なんだか……」
置いていくぞ、というハンネスの言葉が頭の中に入らない。
手招きされているような気がするのだ。
「おい」
――何に?
精霊たちではない。
もっと昔の――。
イリーナは迷うことなく屋敷の中を進む。
ハンネスが慌てたようにイリーナを追いかけてくる。
とある部屋の扉を、イリーナはなんのためらいもなく開けて、その中へと入って目的の物の前へ立った。
もっと昔の、かの王の。
「これは」
ハンネス声を上げた。
「俺の剣だ」
なんでこんなところにあるんだ? とハンネスが首を傾げる。
「……いや、見咎められる前に補佐殿がラディクロワ伯に返しに来ただけか。しかし、イリーナ、お前は、どうしてこの剣がここにあると分かったんだ?」
「それは」
イリーナは答えずに、無造作に剣を手にして、刀身を抜く。
ふいに刀身から覚えのある魔力があふれる。
「あ」
ルークが声を上げた。
「これはわが角だ」
え? とハンネスが首を傾げる。
「この剣は――違うと言っていたじゃないか。どういうことだ」
「分からぬ。……だが、確かにその通りでもある。この剣は――この鞘は、違う。わが角は、この中にある」
装飾の施された刀身。
その刀身こそが、鞘だ。
刀身の上に刀身が被せてあり、魔法で、ドラゴンの力が抑えられている。
――ルークが今まで剣に気付かなかったのは、ハンネスがドラゴンの魔力が込められた石を持っていたせいだ。魔力を無力化するドラゴンの石のせいで、剣の気配を読み取れなかったのだ。
そして、ハンネスが暗き魔法使いに捕らえられたときに――剣とドラゴンの石を手放したときに、ラディクロワ伯補佐がこれを拾い、ルークが、剣は補佐が所有しているのだと勘違いをした。
イリーナは王の夢でこの剣を見たときからそのことを察していて、かの王に、ここへと導かれた。
ルークはまじまじとその刀身を見つめ、やがてイリーナに向き直った。
「イリーナ・ティウン。われはわが角をわが身に受け入れるのを準備するために、しばしたまごに籠る」
分かった、とイリーナは頷くが――。
「ちょ、ちょっと待て。この剣をどうするって? いや、それよりも……お前、ここで俺たちを放っぽり出したりなんかして……どうやってラディクロワ伯の元にたどり着けばいいんだ?」
ハンネスが慌てたようにそう言った。
ふむんとルークは首を傾げる。
「これは元々わが身の一部であるゆえ、準備にもそう大して時間はかかるまい。……それでもお主が屋敷の者の目をかいくぐってラディクロワ伯の元へとたどり着くことすら出来ぬと言うのならば、なおさらわれはさっさと力を取り戻さなければなるまい」
ぐっと詰まる。
「なに、困ったときにはわが名を呼べ、リナ。お主は我にとって特別な――」
ルークは言うが、最後のほうはうつらうつらと眠りに入るように、聞き取れない言葉になった。
すっとルークの姿が消えた。
「え、ちょっと」
特別な、何?
イリーナが問い詰めようとルークの本体である石を取り出す。
そして、あれ、と首を傾げる。
石のようなそのたまごから、今まで感じていた魔力が感じられない。
――風が止んだような。
そんな感覚。
「特別な、何?」
どうやらたまごに籠ったらしい。
「え、なにそれ。告白? え、言い逃げ?」
イリーナが戸惑うようにそうぶつぶつぶつ。
ハンネスも目を白黒させていた。
***
「それで、この部屋なの? 伯爵様のお部屋は」
「ああ」
ぴたりと、とある部屋の前に立ち止まって言った。
……ルークの心配をよそに、ハンネスとイリーナはなんとかラディクロワ伯の部屋の前にたどり着いた。
いや、危険なことはほとんどなかった。
ラディクロワ伯の部屋の周りは人払いがされているらしく、ほとんど人を見かけなかったから。
――人払い。
通りかかった小間使いたちから身を隠して様子を窺うと、噂話が聞こえた。
「……旦那様が、補佐様にご協力するって、どういうことでしょう」
「旦那様はあんなに補佐様の暗いお噂を気にしていらっしゃる様子でしたのに」
「ええ、その事情はよく存じませんけど。……補佐殿が連れていたローブのお人、随分と剣呑な雰囲気のお人でしたのよ」
「まるで、補佐殿のお噂に出てくる暗き魔法使いのような!」
「旦那様、表情一つ変えず、歓迎します、とおっしゃったのよ! 本当に、どういうことかしら」
ほとんど人がおらず危険もなかったが、ハンネスが、この噂に消沈した。
「伯が、暗き魔法使いを? 歓迎?」
ぶつぶつぶつ。
頭を抱え、ぐしゃぐしゃと髪を乱し、唸る。
予想以上に打ちひしがれて、どんよりと沈んでしまったため、ここにたどり着くのにイリーナはハンネスを励ましたり貶したり叱咤したり殴ったり引っ張ったりして……随分と骨が折れた。
一体どんな人なのだろう? 話の通じる人だといいんだけど。
小間使いによればラディクロワ伯は補佐のあの男とは違って暗き魔法使いと関わっていた過去はないようだが。
今噂になっているのも誤解であればいいな、と思う。
イリーナはハンネスのほうを振り向くが、ハンネスはまだ悄気ているらしく、ぶつぶつと頭を抱えている。
重傷ね。とイリーナは首を振る。
どうやらラディクロワ伯と対面する勇気が湧かないらしい。
仕方がないのでイリーナがその扉を開けることにする。
そぉっ……と扉の取っ手に手をかけようとすると――。
ばちッ! と痺れを感じた。
思わず飛び退いた。
痛い。
イリーナは痛みをほぐすように手をさすりながら、どうしたものかと考える。
これは結界の魔法の一種だ。
やはり中で相当いかがわしいことが行われているのだなと思いつつ、ふと我に返り、ハンネスの顔を見た。
「そんな」
という表情でハンネスは固まっていた。
重傷。
「ちょっと」
イリーナがばしばしとハンネスの肩を叩くが、反応がない。
やや様子がおかしい気がするが――。
しかし、今はそれどころではないので、とりあえず、考えを続ける。
中にいるのは十中八九暗き魔法使いであるだろうから、イリーナ一人では立ち向かえない。
いや。
ここは一旦引き上げるのが得策か。
しかしハンネスのこの様子では、無事にこの屋敷を抜け出せるかどうか怪しいものだとイリーナはため息をつく。
もちろん見殺しにするわけにはいかないが……。
一体どうしたものかと考え――。
そうだ、困ったときは助けを求めろとルークに言われていたのだった、とイリーナは思い至る。
「――――」
イリーナがその名を呼ぼうとした、そのとき。
「むぐっ……!」
がばっと後ろから身体を絞められた。
その人物がイリーナの耳元でぼそりと呪文を呟いた。
あ、まずい、とイリーナは思ったが、逃れるすべがない。
拘束の魔法だ。
頭の中に直接魔法を流し込まれたような感覚に、イリーナはくぐもった悲鳴を上げて一瞬意識を失った。
引きずられて、床に投げ出される。
「素直に逃げ出していれば良かったものを」
聞き覚えのある声。
ああ、どうせまた暗き魔法使いのあの男なのだろうなとイリーナは半ば諦めつつ顔を上げ、やはりその通り、魔獣の接がれたその顔がこちらを見下ろしているのを見て、深く深くため息をついた。
「……ハンネスは?」
「そこに一緒に転がっているだろう」
イリーナの言葉に獣顔の男はそう答えて後ろを指差した。
拘束されている身体で苦労してそちらを向いてみると、確かにハンネスがうつぶせに床に伏しているが――。
頭を抱えている。
……もしかして先ほど部屋の前で固まっていたときにはもう、なんらかの魔法で自由を奪われていたのか、とイリーナは苦い顔をした。
果たしてその通り。
「今回は姿を消して近づいてみたが、随分とあっさりと術に落ちてくれて、拍子抜けしたぞ。一体なにがあったのやら」
獣顔の男がハンネスを見ながらそう言った。
ああ、とイリーナは自分のうかつさに内心ため息をつく。
それから。
イリーナはハンネスの横に目をやる。
もう一人。……床に転がされている人物がいる。
「誰?」
「ラディクロワ伯だ」
「なんでラディクロワ伯が――」
ラディクロワ伯もこの男に――暗き魔法使いにやられたらしい。
「味方だったんじゃないの……?」
イリーナが戸惑いつつ呟くと、獣顔の男は頷いた。
「そうだな。その方は、お前たちの貴重な味方だったな」
え、とイリーナは目を見開く。
「……われわれもその方にはなるべく手出ししたくなかったが、どうやらハンネスとの一件を聞き及んで、われわれを潰そうなどと馬鹿げたことを決心したようだな。われわれを歓迎する振りをして騙そうと企んでいたようなので、仕方なく死んでいただくことにしたわけだ。まったく、余計なことをしてくれたものだ」
「補佐のあの人は? あなたたちの導師様とやらは」
「一足先にお帰りいただいた。ここはそろそろ危険になるし、あの方でも実の兄が殺される場に居合わせるのは心が痛むだろうからな」
男の言葉に、イリーナは少し考えて、ゆっくりと言葉を選んで言う。
「今日は随分と饒舌ね。そんなことべらべらと喋っていいの?」
「はっ。理由もなくそんな危険な真似をするわけがないだろう。……それに、まだ、殺していない。お前に、殺してもらうからな」
笑み。
ぞっと背筋を嫌な予感が駆け抜ける。
男は懐に手を入れてなにかを取り出した。
握りこぶし大の石のようなそれは、魔物の核だとイリーナには分かった。
――学舎で暗き魔法使いについて学んだ知識に、魔物との合成についてがある。
魔物は頑丈さを誇る身体と魔力の源である核から成り立つが生き物との合成に使われるのは核のほうだ。
魔物は核を抜くと死に、身体のほうは抜け殻となって腐らずに残るが、その身には優れた魔力許容能力があるものの肝心の魔力自体は残らないのだ。そのため、魔物と生き物の合成には核のほうが用いられ、抜け殻となった身体のほうは武器や防具の材料として使われたり……あるいは魔力を伝導する装置に組み込んだりするのに使われる。
しかし、そもそも魔物と人との合成の成功例というのは聞いたことがない。
だからイリーナは、この暗き魔法使いたちの合成は魔物の核ではなく身体のほうを使ったものだと見当付けている。
この男の顔に――獣の部分と人の部分の境目に縫い痕があるのもそのためだろう。
それなのにこの獣顔の男は、あろうことか魔物の、核のほうを持っていて、イリーナにラディクロワ伯を殺してもらうだなどと言っていて――。
「まさか」
これを。
この核を――。
「私に移植するつもり?」
イリーナが言うと、男は「そうだ」とあっさり言った。
「ここは危険になる、と言っただろう?」
にやりと笑う。
「本当はそこに転がっているラディクロワ伯に移植して自滅させてやるつもりだったのだがな。しかしお前はまったく良いところに来た。ラディクロワ伯が魔物化して暴走したとあっては伯の弟であるわれらが導師にも醜聞が及ぶからな。本当に、ちょうど良かった。お前が、殺せ」
イリーナはまた思い出した。
人と魔物との成功率は驚くほど低い。
その理由は、人の感情というのが魔物の魔力との相性の悪さを決定付けているからだと言われていて――。
ああ、この男が珍しく饒舌だったり素顔を晒していたりするのは、こちらを存分に怖がらせたり絶望させたりしてわざと合成に失敗させたいからなのだな、とイリーナは冷静に気が付いた。
まあ……どちらにせよ恐れるなと言われても、無理だ。
ただでさえ実力の差がありすぎて敵わないというのにハンネスもルークもイリーナの助けになる状態ではない今、さらに付け加えて拘束の魔法のせいでほとんど身動きがとれずに抵抗できない有り様で。
男はイリーナの身体をひょいと転がしてうつ伏せにさせる。
チチチ……ッ、と刃物で服を裂かれる音に、イリーナはぶわっと粟立った。
震える声を絞り出して「やめて」とイリーナは言ったが、無視された。
指で背中をなぞられる。
背骨の一つ一つを数えるようにゆっくりと指を滑らせる行為に、ばくばくと心臓が跳ねて頭が真っ白になる。
悪趣味だ。
いや、これもわざとだろうか?
そして男が指を止めたそこは、ちょうど心臓があるその場所で。
まるで、心臓を鷲掴みにされているような。……そんな絶望がイリーナを襲った。
ぎっ、と爪を立てられて、イリーナはひっと悲鳴を漏らした。
傷口に、魔物の核が押し当てられる。
呪文。
次の瞬間、わあっと魔力が流れ込んできた。
やめて!
――イリーナは叫んだつもりだったが、今度は言葉にならなかった。
そして。
いや。しかしイリーナは、流れ込む魔力を外へと押し出すように、ふいに身体の中を渦巻くような、吹き抜ける風のような、魔力を感じてはっと目を見開いた。
この感覚は、よく知っている。
イリーナを守るような、穏やかで強靭な。
いつもイリーナのそばにいて、今もここで、イリーナがその名をじっと呼ぶのを待っている――。
「ルーク」
イリーナはその名を呟いた。
ぐわっと背後で風が巻いて獣顔の男が吹き飛ばされて、それから、ぽんとイリーナの頭に誰かの手が――イリーナにはそれがルークの手だと分かった――置かれた。
拘束の魔法もイリーナに流れ込んできていた魔力もすっと消えて、身体が軽くなる。
見上げてみれば、いつもよりもルークが大人びて見える。
――ああそうか、ルークが私に流れ込んできていた魔力を食べて自分の力に変換したからだ、とイリーナは気が付いた。
「今度はきちんと呼んでくれたな。……もう少し早く呼んでくれたほうが良かった気もするがな」
イリーナのさまを見てルークは少し目元をにやにやしくさせながらそう言う。
悪かったわね、とイリーナは口を曲げる。
「貴様」
吹き飛ばされた獣顔の男が立ち上がってルークを見て、言った。
「一体、どうやって。結界の魔法は破られていないようなのに」
「われはもとからリナのそばにいたのにな。お主がただ単に見逃しただけであろう」
ルークはそう言い返して、それきり男には興味がないといったふうに顔を背けて、ハンネスとラディクロワ伯に目をやった。
イリーナは言う。
「ルーク。ラディクロワ伯は――」
「ああ、聞いていた」
頷く。
「彼の者の血も堕ちきってはいなかったか。……だがまあ、しかし、わが剣は――イリーナ・ティウン、お主が見つけ出して所持しているからな。さてどうしたい?」
「え。ど、どうしたいって言われても……。やっぱり一応、大事なものみたいだし、ハンネスにちょっと聞いてみてよ」
ふむん、とルークは首を傾げた。
「では、剣を」
寄越せとルークが手を差し出してくるので、イリーナはその手に剣を渡した。
ふとそこへ氷の魔法。
うわっ、とイリーナが身を縮ませると、ルークがさっと手で振り払うようにその魔法を打ち消した。
「まだ懲りないのか」
性懲りもなく魔法を放ってきた獣顔の男にルークはげんなりした表情でため息をついてみせる。
「相手にしてほしいのならしばし待て。どうせお主はわれには敵うまい? 利益のない邪魔をするな」
「――――」
男は答えずにまた呪文を唱える。
ルークは気にかけずにハンネスへと歩み寄った。
放たれた魔法はルークへと届く前に掻き消えて、ルークはというと今度はそれを気にも止めず、そんな妨害など露とも苦にならないといった様子で、ハンネスの横腹をちょいと小突いた。
「――げっ、……っは……っ!」
ハンネスが跳ね起きて、黒いものを吐き出した。
魔法の塊だ。
イリーナが男にかけられた拘束の魔法よりも格段に念入りで強力な魔法。
「お前」
そんな魔法をいとも容易く解いてしまうルークだが、ハンネスはそのことに関してはなんら反応を示さず、関心の先は――目を丸くして見つめる先は。
「――その精霊たちは」
周りに集まっている最高位の精霊たち。ルークが纏っている魔力。ハンネスが見ているルークはどういうふうに映っているのだろうか? 風の精霊しか見えない、しかも魔法使いのたまごでしかないイリーナには分からないが、しかしイリーナはルークが本物のドラゴンであることを知っている。
「ハンネス・ラディクロワ。リナが、剣を取り戻すにはお主の可否を聞けと言ったので訊ねる。――われにはこの剣が必要だ。返してくれるか?」
「…………」
否、とは即答しなかった。
ハンネスはしばし考えて言う。
「……世界三大愚行を……俺の先祖に、ドラゴンに挑んだ愚か者がいたと聞いたことがある」
ルークは黙って頷く。
「その愚か者のおかげで、俺の先祖は当時迫っていた敵を退けることができたというが、しかし、その者の子孫はもっと愚かだったため、国はなくなって剣だけが残ったのだという」
ため息。
ルークがこの剣を必要としているように、ラディクロワもこの剣が手放せないくらい強い思い入れがあるのだなとイリーナは思う。
「俺もかの先祖のように愚かになってみたいと思わないでもない。――イリーナのところの三大愚行の一つはドラゴンを怒らせることだというが……もし俺がお前に剣を返すことを拒んだら、お前は露とばかりかは怒ってくれるのか」
「いいや」
ルークは首を振る。
「怒りはせぬ、むしろわれには好ましいな。きっと、さすがはあやつの子孫だ、と困るのだろうな。……ただ、われにはどうしてもこの剣が必要であるから、先ほどからそこの暗き者の攻撃を防いでいる結界を解いてお主が殺られたあとに、これ幸いとばかりに剣を取り戻すつもりではある」
イリーナとハンネスが獣顔の男のほうを振り向く。
男は、きっ、とこちらを睨んできた。
いつの間にか精霊たちに身体を拘束されたうえにルークの魔法で声が出なくされているらしかった。
ハンネスはため息をつく。
「……お前に剣を返そう。俺は馬鹿にはなれないようだ」
「そうだな、賢い判断だ」
ルークが剣に手をかける。
しゃらり――と抜いたその刀身からイリーナは風のような魔力が溢れるのを感じた。
それを真っ直ぐ下に向け、ルークはドラゴンの言葉でなにか呟く。
いや、イリーナには分かる。
その言葉。
「わが名はルーク」
かの王がかけた魔法を解くための、その名前。
するっと装飾の施された刀身が抜け落ちて柄だけが残り……いや、違う。空だと思ったそこには、透明な刀身があった。
イリーナはそれを夢で見ていたから知っていたが、ハンネスと獣顔の男は少し驚いた顔をした。
刀身から凄まじい魔力を感じる。
今までに見たことがないほどの強大な魔力。……おそらく今のたまごのルーク自身よりも強い力だろう。
ああ、こんなものをルークは手放してしまっていたのか、とイリーナは思う。
「――ドラゴン?」
ぽつりとハンネスが呟く。
「そうだ。これはわが角」
ルークは頷いた。
刀身がなんの前触れもなく融け落ちて、床に着く前に消えた。
次の瞬間、ルークを中心に爆発でも起こったかのように――しかし物理的な感覚ではなく――身体の中を風が駆け抜け、その場にいた者たちは……いや、ここ王都にいた者たちは皆、ドラゴンの咆哮を聞いた。
解き放たれたようにルークの身体が膨れ上がる。
ドラゴンの身体。
「ルーク」
イリーナはその名を呼んで手を伸ばした。
つとルークがその手へ顔を寄せる。
明らかに部屋からはみ出すほどのその巨体はきちんと実体を持っている――現にイリーナに触れているその顔はごつごつした鱗の触感がある――にも関わらず、どういうわけだか物質を透過しているらしい。
――終わったぞ。
精霊にも似た声でルークがそう言う。
イリーナは頷く。
何がどう終わったのかはよく分からないが、ともかくルークは約束した通り、暗き魔法使いたちがイリーナを襲ってくることがないようにしてくれたらしい、とイリーナには分かった。
「ありがとう」
――礼には及ばん。われはたまごゆえ、お主にはまだわが身を預かってもらわなければならないからな。
イリーナがルークの言葉に首を傾げる。
「……あなたのその姿は、たまごから生まれたものではないの?」
ルークは首を振った。
――そんなわけはなかろう。たかが角を取り戻したくらいで。……わが力は、もっと凄いのだぞ。
威張るようにルークが言う。
はいはいとイリーナは頷きながら、くすくすと笑う。
――ふむ。つまり、お主にはまだしばらくはわが身を預かってもらわなければならないということだ。構わぬか?
イリーナはまた笑う。
なにをそんなに改まって、とイリーナは思う。
「勝手にすればいいじゃない。ルーク、あなた、最初に私についてきたときには、あんなに強引だったくせに」
――あのときとはわけが違う、リナ。われはお主のことを気に入ったから、これからは良好な関係でありたいと思うのは当然であろう?
イリーナは目を見開いた。
なんなんだろうこの告白は?
戸惑いつつなぜだかまた笑みが込み上げてきた。
言う。
「だったらなおさら、私のそばにいなさいよ。たとえ私がたまごでなくなっても……あなたがたまごでなくなっても。そのほうが仲良くなれるに決まってるもの」
今度はルークのほうが目を見開いた。
「お主、そんなに軽々しく言うと、われは調子に乗るぞ? ついうっかり一生お主のそばにいるやもしれぬぞ?」
この声はたまごの中から。
気が動転しているのか、あるいは周りの者に聞かれたくなかったのか。
今ルークはドラゴンの姿で実体化しているため、周りの者には、その言葉はドラゴンの言葉――呪文のような聞きなれない言葉――として聞こえたらしいから。
……しかしまあそれは、イリーナにはどうでもよいことだ。
ルークがこうしてそばにいるのも悪くないなと思う。
「……よかろう。後悔しても知らぬぞ」
ルークが言う。
「そうね」
イリーナも頷いた。
見つめるルークがすっと微笑み、風が吹いた気がした。