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三章

 三章


 夜。

 精霊たちの声で、イリーナは起こされた。

 空気がざわついていた。

 騒がしい。

 いわく、嫌な気配がこの場所に迫っていると。

 嫌な気配?

 イリーナが素早く着替えて警戒をすると、ポケットの中からたまごのルークが言う。

「どうも知っている気配のようだな。リナ、逃げるぞ」

 ぶつぶつと、呪文。

 転送の魔法。

 昼間は詠唱なしでイリーナをこの部屋に移動させて、イリーナを驚かせたのだが――。

 今回は呪文を唱えるらしい。

 呪文を唱えるという行為は、魔法に形を与える作業である。

 普通ならば詠唱なしには魔法は発動しないはずで。

 ルークが、ドラゴンは呪文を唱えずとも魔法を発動させることができると言うので、その原理を問い詰めて見ると、魔法に形を与えるという作業をドラゴンは頭の中でやってのけることができるらしい。

 ……イリーナのような普通の魔法使いでも、慣れた魔法ならば多少、呪文を省略しても問題なく発動できるが――要はそれと同じことらしい。

 イリーナの使える基礎の基礎の魔法と、転送の魔法のような高度に高度な魔法を一緒にされては敵わないが。

 しかし、ここでは、呪文。

 これも昼間に聞いたことだが、ルークが詠唱なしに魔法を発動させようとすると、嵐のような猛烈な風が沸き起こるらしい。

 部屋の中。

 ルークの起こすであろう嵐というのがどれくらいのものなのかは見当も付かないが、少なくとも、昼間はイリーナを宙に舞い上げてしまうくらいの風を起こしているのだ。

 当然、ここでそんなことをされたら、もうめちゃくちゃになってしまうわけで。

 ヴゥンッと転送陣が展開する。

 ルークは鋭い声を発した。

「――しまった、間に合わない。逃げろリナっ。――いや、駄目だ、向かい撃てっ!」

 え、とイリーナが戸惑う。

 何を向かい撃てというのか。

 もう、今すぐにでも転送されるというのに。

 ――そう思った、次の瞬間。

 ばたんと部屋の扉が開いて、黒い影が、イリーナのほうへ一直線に、駆けてきた。

 暗き魔法使い……!

 そう、分かった。

 イリーナは慌てて呪文を唱えるが、二、三句分唱えたところで、捕まって、喉元を押さえられた。

 そのまま暗き魔法使いを巻き込んで、転送。

 ――屋根の上。

 しかし暗き魔法使いはイリーナを離さず、ぎりぎりと首を絞めてくる。

 殺す気かとイリーナは疑う。

 いや、殺してしまっては意味がないはずだ。

 暗き魔法使いは、精霊と人との合成のためにイリーナを拐いたがっているのだから。

 このまま気絶させるつもりなのだ。

 びゅうっと足元から風が吹き上がった。

 魔法。

「放すがいい暗き魔法使いよ!」

 ルークが姿を現してそう叫んだ。

 ばちっと空気が割れる。

 暗き魔法使いがびくっと一瞬手を弛め――しかし、離さなかった。

 よほど力が強いのか?

 ……いや。

 細い手。

 おそらく、女。

 知っている気配のようだとルークも言っていた。

 ――ならば、ルークのこの魔法を食らうのが、二度目なのだ。

 猫目の女だ。

 イリーナは気が付いた。

 ばしっとまた音。

 女の手から、鮮血。

 今度こそ女は手を離し、ルークはその一瞬の隙に、イリーナを引っ掴んで屋根から飛び降りる。

 ……いや、上昇。

 転送の魔法だ。

 女はぐぐぐっと身を縮めて、跳躍。

 イリーナを捕まえようとするが――ルークがまた魔法で阻み、落下した。

 あんな落ち方をしたら死ぬのではないかと思うように、まっ逆さまに落ちていって、イリーナは思わずひやりとしたが、女はさながら猫のごとくくるりと身を回転させ、無事に着地した。

 イリーナがほっと息をついたところで、風景が揺らめき、転送。

 ――どこかの小路。

 それでも不安になって辺りを見回してみたが、さすがに、怪しい影はなかった。

 ルークは言う。

「どうするリナ。宿へ戻るか?」

「ええっ? 戻れないわよ。宿の場所は知られてるんですもの。今戻ったら、鉢合わせるわよ」

「今戻らねば戻れなくなるぞ。奴らは幽霊ではないのだからな。夜中にしか活動しないということはあるまい。何日でも、お主が帰ってくるのを待っていよう。待ち伏せされるとなると分が悪いぞ」

 ぐっとイリーナは詰まった。

 一応、寝間着から着替えはしたものの、大部分の荷物は宿に置いたままなのだ。

 さすがに、それらを捨て置いて逃げ出すことはできない。

「では、こっそりと様子を探って、部屋の中にあやつがいたら、われがすかさず転送の魔法でこの街の外へと追い払う。いなければ荷物をまとめてさっさと逃げる。――これでどうだ?」

「どうだって、そう簡単に転送できるの? 今だってうっかりあの人を引っつけたまま転送しちゃったじゃない」

 うーむ、とルークが考え込む。

 ――ふと。

 キィイン、と甲高い音がした。

 何事かと思って音のしたほうを振り向くと、さらに、頭上を黒い影が飛ぶように駆けていった。

 甲高い音がした例の方向へと。

「今のって――」

「うむ。暗き魔法使いの女である」

 なんだろうか。

 おそらくは何かの合図なのだろうが、こんなにやかましい音を立てていいのだろうか。

「どうやら人の子の耳には聞こえない音のようだ」

 ルークは言った。

 人には聞こえない音ならば、自分にも当然聞こえるはずはないだろうにとイリーナが怪訝な表情でルークの顔を見ると、ルークは「ああ」と思い出したように頷いた。

「お主は特別だ。――いや、特別だと言うより、特殊だと言うほうが正しいか。われは風の属性を持つドラゴンであるため、精霊が見える力を与えるとお主は風の精霊が見えるようになった。――それが風の精霊たちに面白がられたようだ」

 風の精霊の加護を受けているらしい、とルークは言った。

 人には聞こえない音を聞き分けられるのもそのためだ。

「こんなにやかましい音なのに、普通の人には聞こえないの? 魔法か何かなのかしら」

「いや、魔法ではない。詳しいことは分からんが、重要なのは音の大きさではなく高さらしい」

 ふうん、とイリーナはよく分からないまま、頷いた。

「しかし、気になるな。お主を放っぽって引き上げたということは、お主に構っているよりも重要な用事ができたということだ」

「私よりも重要な用事というと――ハンネスのこと?」

 剣士であるハンネスと魔法使い見習いのイリーナ。

 どちらが捕まえ易いかと言われれば、それはもちろんイリーナのほうなのだろうが、ハンネスは、イリーナに会う前から狙われているのだ。

 暗き魔法使いはイリーナがこの街にいるということを知らなかったのだろう。

 それを今日、ハンネスと接触したことで、ばれてしまったに違いない。

 おそらくハンネスが獣顔の暗き魔法使いを退けたあと、屋根の上に登ってきたときに。

 退いたふりをして、実はハンネスのことを見張っていたのだろう。そこで、偶然にもイリーナを見つけ――。

 ――様子見に、猫目の女を差し向けたのだろう。

 イリーナがそれを察知して逃げ延びたのは予想外だったようだが。

「でも、合図があったってことは、ハンネスは――」

 もう、捕まってしまったのではないか、と言いかけて、イリーナは口を閉ざした。

 いや、無事に違いない、とイリーナは自分に言い聞かせる。

 今日だって暗き魔法使いを退けているのだ。

「――合図があったということは、一人では手に終えなかったということか」

 ルークがイリーナの様子を見て、そう引き継いだ。

「しかしこれで二対一。助けに行かなければあの若造でも、逃げ切れぬだろうな」

 なにやら気になる言い方。

「――私が助けに行きたいと思っているとでも言いたいの?」

「うん? 違うのか?」

「だって私、弱いもの。下手したら私のほうが捕まっちゃうじゃない。無駄に関わらないほうが身のためよ」

「それではわれがつまらぬ」

 ルークはそう言った。

 イリーナは呆れたような目でルークを見る。

「助けに行くのだろう?」

 すっと手を差し出される。

 イリーナはその手を取って――。

 頷いた。

 ごおっと風が湧く。

 ――転送。

 ばちばちっと不穏な音がした。

「お前は――!」

 ローブの、背の高いほうの男――獣顔の男がイリーナを見て言った。

 その横に猫目の女が何かを担いで立っていた。

 ――ハンネス。

 気絶させられて今まさに連れ去られようとしているところだった。

 男は、舌打ち。

 イリーナは身構えたが、ローブの二人は襲いかかって来ない。

 ――転送の魔法で去ろうとしていたところへイリーナたちが現れたため、魔法が暴走しかかっているのだ。

 男はその暴走を抑えるために、ぶつぶつと呪文を唱えていて、イリーナに構うことはできないわけで。

 女のほうも、ハンネスを降ろしてイリーナに攻撃を加えるべきかと考えあぐねているようだった。

 ルークが詠唱する。

 猛烈な風が猫目の女に襲いかかる。

 猫目の女はハンネスを肩に担いだままその攻撃を避けた。

 ……しかし、ルークは追撃。

 女は、ハンネスを取り落とした。

「ぐっ」

 くぐもった呻き声。

 これはハンネス。

 ふらりと頭を揺り、やおら辺りを見回すと、はたと気が付いたように、言葉にならない短い悲鳴を上げた。

 飛び上がるように、後ずさる。

「ハンネス!」

 イリーナはその名を呼んだ。

 驚いた顔でハンネスがイリーナを見てくる。

「お前ら――」

 言いかけたところで、猫目の女がハンネスに迫って攻撃。

 ハンネスは慌ててその攻撃を避わすと、イリーナたちのそばに避難した。

「どうして、ここへ?」

「どうしてって、ひどいわね。せっかく助けに来たのに」

「ああ、いや、そういう意味じゃない。……どうやってここへ来たのかって聞いたんだ」

 これには、ルークが猫目の女を指差して言った。

「なに、ただあの娘を追ってきただけだ。こちらにも襲撃に来ていたからな。合図があって娘が引き上げたから、あとを尾けてきた」

 ハンネスはルークの言葉に驚いた顔をする。

「……あいつ、女だったのか」

 まあ気持ちは分かる。

 なにしろこの猫目の女が言葉を発しているところを見たことがないのだ。

 呪文も唱えず。

 怪我をしても、悲鳴一つ上げない。

 しかもそのくせ、魔物との合成のせいで、力はとんでもなく強いわけで。

 イリーナも、あのフードが取れて中の顔が見えるまで、男なのか女なのか分からなかったくらいだから、ハンネスならばなおさらだろう。

「それよりも、気を付けろ。あの男、呪文を唱え終わったようだぞ。構えよ」

 ルークは言った。

 見れば、男の周りの魔方陣がか細い光を放って消えていくところだった。

 魔法の暴走を抑えることには成功したらしい。

 猫目の女が、また攻撃。

 ハンネスに向かって。

 その鋭い爪を、ハンネスは籠手で受け止めて防ぐ。

 ぎりぎりと力比べ。

「このっ……」

 女と言えどやはり魔物の力は常人のそれを遥かに上回っているようで、一目見て分かるほど、ハンネスが圧されている。

 それでもよく耐えるが――そこへ女が、足払い。

 予想もしなかった攻撃にハンネスはひっくり返らされた。

 追撃する女にイリーナが魔法を放ち、妨害する。

「ハンネス、あなた、剣はっ?」

「持っていない! こいつらがご丁寧にそんなものと一緒に俺を拐ってくれるわけがないだろうっ」

 イリーナの言葉にハンネスはそう答えた。

 ルークがひそかに舌打ちする。

「まったく、役に立たない若造だな。――しかし逃げることは許さんぞ? 丸腰のお主ではこやつらからは逃げ切れまい。下手に動かれて捕まったのでは、呆れて助けてやることもできん」

「……見くびるな。俺は、逃げたりはしないし、このくらい、軽く往なしてやる」

 ほう、とルークは片眉を上げる。

「ではそうしてみろ。……ほれ、そっちに魔法が行ったぞ」

 獣顔の男の放った魔法を避わして、そう言った。

「え、ちょ」

 ハンネスは辛うじてそれを避わす。

 そこへすかさず猫目の女が攻撃。

 ぎゃああっ、とハンネスは奇声を発しつつ、対応。

「鬼ね」

 呆れたようにイリーナがため息をつく。

 ルークのことだから、今の攻撃だって、避わさずとも軽く受け止めて打ち消すことだってできたのだろうに。

「否。ドラゴンである」

 えへんとルークは胸を張った。

 ゆらりと獣顔の男は一歩近付く。

「ドラゴンだと? 何を馬鹿な」

 どうやらこちらも、ルークがドラゴンであることは信じていないらしい。

 本当のことだというのに、とルークは残念そうな顔をする。

「貴様は何者だ。その娘とはどういう関係だ」

 男の問いにルークはふむと頷く。

「わが名はルーク」

 言う。

「正体ならば今言った通り。この魔女のたまごとは……ふむ、言葉では表しづらい関係である」

 親しい友というわけではないが、ただの顔見知りというわけでもない。

 ルークはイリーナに精霊の声が聞こえるようになる力を与えたし、この暗き魔法使いから守ってくれて、しかも今後攻められたときの対抗手段をも模索してくれている。

 イリーナは、恩を売られっぱなしだ。

 しかしルークいわく「別に恩を売ったつもりはないし返してもらおうとも思わん。どうしてもと言うのなら、われを存分に楽しませるがよい。われはそのためにお主についてきたのだからな」だそうだ。

 魔女のたまごのイリーナと、ドラゴンのたまごのルーク。

 ルークがイリーナにくっついているのは、イリーナが、普通の者には聞こえるはずのないドラゴンの声を聞き分けていて、しかもルークと同じく「たまご」だからだ。

 これは面白そうだ、と。

 それは友という関係ではないし、雇用被雇用――契約という関係でもない。

「……思い入れがないのならば、即刻この場から立ち去れ。この娘はわれわれが連れて帰る」

「思い入れがないわけはない。なにしろ『たまご』だ。――それに、そちらの猫目の小娘は、われを素直に帰そうという気はないようだぞ?」

「なんだと?」

 獣顔の男が、猫目の女に目を向ける。

 ハンネスと肉弾戦で争っていたその猫目の女は、獣顔の男の言葉にぴくりと顔を上げていた。

 その隙を逃さず、ハンネスは猫目の女から距離を取る。

「この女と、なんだって? 何か因縁でもあるのかお前」

「われにはない。……あちらはどうか知らないがな。そこの猫目の娘は、われに一度邪魔されたことを根に持っているらしいから」

 言う。

「あの二週間前の夜、転送の邪魔をしたのはまさしくわれである。そこの若造は気付いていないようだが、猫目の小娘のほうは、先ほど気付いたようだ」

 なんの話だ? というようにハンネスは首を傾げたが、男は、はっと気が付いたように女のほうを向いた。

 目を合わせた猫目の女は、頷く。

 男はルークのほうに向き直って言った。

「……あれはお前が邪魔をしたのか! てっきりあの老害の仕業だとばかり思っていたのだがな」

 それは憎々しげな声ではなく。

 感嘆の響きすら籠っていて。

 しかしイリーナは、その言葉の一部に聞き捨てならない言葉を聞いたため――ありったけの魔力を籠めて魔法を放った。

 もちろん男には悠々と避けられたが、壁に当たったその魔法は、どかんとその石組の一部を吹き飛ばした。

「私の学長を老害呼ばわりしないでちょうだい!」

 イリーナは憤慨した声で叫んだ。

 その気迫に、一同がたじろぐ。

「魔女を怒らせるものではないぞ、若造」

 ルークが言う。

 獣顔の男も、頷いた。

「いいだろう。今日のところは貴様に免じて引き上げよう。……次は、貴様も共に連れて行く。覚悟しておくがいい」

 呪文。

 転送陣。

「三流の台詞だな。逃げるのか?」

 ハンネスが挑発する。

 男はくつくつと笑ってハンネスに顔を向けた。

「われわれが大人しく逃げたほうが、貴様にとっても都合がいいだろう? 貴様が剣もなしに暗き魔法使いに挑むような愚か者でないのなら。それに、そっちの小娘の未熟な魔法では、われわれに太刀打ちできないだろうしな」

 イリーナはその言葉にむっとしたものの、残念ながら男の言う通りなので、黙っておくことにする。

 猫目の女が男の横に立つ。

 ヴゥウウン、と耳障りな音。

 ――転送。

 辺りに静寂が戻った。


 ***


 がやがやと市場の喧騒が耳に入ってくる道を歩きながら、イリーナは隣――少し手前を歩くハンネスに目を向けた。

 ――暗き魔法使いに襲われた、翌日である。

 本当ならば、三日後に会うはずだったのだが、あのローブの二人が去ったあと、ハンネスは「明日会おう」と――つまり今日のことだ――言い出したのである。

 なにしろ暗き魔法使いはまたいつ襲ってくるか分からないのだ。悠長に三日も待っていることなどできなかった。

 都合があるからこそ三日後に会おうと言っていたのではないかとイリーナが首を傾げつつ尋ねると、ハンネスは「そんなものは後回しだ。こちとら生命の危機に瀕してるんだから」と手を振った。

「一応言っておくけど、あなたの知る剣が私たちの探している剣だとは限らないんだからね? 違うなら、無駄足になるかもしれないし」

 イリーナは言いつつちらりとルークに目を向ける。

 ドラゴンの身体でできた剣を探しているルークとイリーナ。

 しかし、ただのドラゴンの剣では駄目なのだ。

 武器として使いたいわけではない。

 欲しいのは、剣の、力そのものなのだ。過たず、生前のルークの角でできた剣でなければ……意味がない。

「なに、違うなら違うで、お前が使えばいいじゃないか。どうせお前の魔法はあの暗き魔法使いたちには効かないんだろう? せっかくだから、剣でも振ってみればいい。素人ならば多少切れ味が悪いくらいがちょうどいいだろう」

「効かないわけではないわ。ただ、あの人たちに、ちょっとこっちの攻撃が避わされちゃうだけで……」

 それは効かないのと同じことではないのか? とハンネスに突っ込まれて、イリーナはむすっといじける。

「ともかく、そんな生身も同然であいつらに挑むよりは、武器でもなんでもあったほうがいいだろう? 生身で魔法使いに挑むなんてのは、『世界三大愚行』の一つだし」

「……世界三大愚行? それって、私が知る話では、魔法使いなんて出てこないけど」

 世界三大愚行は、「世の中で最も愚かな三つの行いとは何か」を示したものだ。

「そんな馬鹿な。世界三大愚行といえば、『おのれの隣人を虐げること、魔法使いに生身で挑むこと、ドラゴンに挑むこと』だろう?」

「いいえ。私が知っているのは、『隣人との付き合いをおろそかにすること、収穫を怠ること、ドラゴンを怒らせること』よ」

 イリーナの言葉にハンネスは、ははっと笑う。

「ずいぶんと牧歌的だな。魔法使いたちの街と言うからにはそれなりの街なのだと思っていたんだが」

 その言葉には馬鹿にするような響きは感じられないが、イリーナはややむっとする。

「……それは、私の村での話よ。私は精霊の声が聞こえるから、あの街に拾ってもらったのよ」

 あまりいい思い出はない生まれ故郷だが、田舎呼ばわれされるのはどうも癪に障る。

 ハンネスはイリーナの様子に、慌ててルークに話を振る。

「お前のところではどうだったんだ? やはり、魔法使いは出てくるよな?」

 ルークは首を傾げる。

「いいや」

 言う。

「そもそも、われわれの世界に、世界三大愚行なんてものがない。われわれドラゴンは賢い生き物だからな。無論、愚かな振る舞いをする者もあるが、しかし、そんなふうに語り継がれるほどの馬鹿な真似はしない。お主も、ドラゴンの愚行なんて聞いたことはないだろう?」

「……いや、確かに、それは聞いたことはないが」

 ハンネスはやや困った顔。

 もしくは、呆れた顔。

 ルークがいくらドラゴンであると主張しても、信じる気はないのだ。

 まあ、ハンネスはたまごの姿のルークを知らないのだから、信じられなくとも仕方がない。

 イリーナはたまごのルークの声を聞くことができるから、少なくとも、ルークが魔物であるということは最初から確信していたが……ハンネスには本体の石に籠っているときのルークの声は聞こえない。

 ルークは言う。

「しかし、『ドラゴンに挑むな』、『ドラゴンを怒らせるな』か。われに挑んで来た輩は数え切れないほどいるがな」

 いつの間にか遠見の魔法で十人以上から監視を受けていたり、死んだふりの騙し討ちに遭ったり。

 イリーナが聞いている限りでも、ルークはなかなかの狙われっぷりを発揮しているようだ。

「……あのな」

 ハンネスは言う。

「今の時代、ドラゴンに挑む馬鹿なんていないんだぞ? ドラゴンにはどうやったって敵わないと、学んだんだ。だから愚行だと言われているんだろうが」

 つまりハンネスが何を言いたいのかというと、「ほれ見ろ何も知らないで。お前はやっぱりドラゴンじゃないんだろう」ということらしい。

 しかしルークはそんな様子にはまったく気付いていないらしく――まあ、ルークが語っているのは生前の話で、云十年も昔のことなのだから、ハンネスの認識と食い違うのも当然だ――、「ほう」と少し首を傾げた。

「それはもったいないな。剣でも魔法でも、どんどん挑めば良かろうに。――リナの言う通り、ドラゴンを怒らせるのは愚かだと思うが、正々堂々と挑みかかって来る者には、われわれは怒りなど覚えぬ。むしろ敬意を払ってやるのだがな」

 ドラゴンにまつわる伝承の中にも、戦いのあと、ドラゴンが戦士になんらかの力を授けるというのはよく見られる話だ。

 ルークの言葉に、ハンネスは突如、剣を抜いて突き付けた。

「――お前、戦いだったら今ので死んでるぞ」

「うん? お主は殺気もなく他人を殺せるような人種だったのか? 違うならば、この状態からでもわれはお主を退けられるぞ」

 突き付けられている剣に臆する様子もなく、ルークは飄々とそう言った。

 ――ごぉっと、風。

 ハンネスは――吹き飛んだ。

 転びつつも剣を手放さないのはさすがだが、風に煽られて、縄の切れたあわれな井戸桶のごとく身体を大いに回転させられ、ずしゃっと顔面から地面に突っ込んで行ったのは無様だった。

 痛そうだ。

「き、貴様、こんなところで本気を出すなんて……、卑怯だぞ!」

 顔を上げてそう言った。

 流血。だらだらだら。

「うわぁ……」

 イリーナは眉をひそめる。

 ――見かねたので、なるべくそちらを見ないようにして、治癒の魔法をかけてやった。

「本気なわけがなかろう。われが本気を出せばお主など一瞬で塵と化すぞ。――しかし、お主はもう少し本気を出したほうがいい」

 ハンネスが、ひそひそとイリーナに尋ねる。

「――これで本気ではないって? どんな化け物なんだ」

「どんなって、ドラゴンよ。信じられないだろうけど」

「むしろお前はどうやって信じたって言うんだ……」

「私は――、学長から聞いたんだもの」

 どうにも説明しづらいので、イリーナはそう言っておいた。

 ――嘘ではない。

 学長は、ルークの本体、石のようなたまごを見て、それをドラゴンのたまごだと言ったのだから。

 ただし、学長は、ルークのこの少年の姿のことは知らないが。

「どうした。手加減はしてやったはずだが」

 ひそひそと話し合っている二人に、ルークが首を傾げて言った。

「なんでもない」

 ハンネスは立ち上がった。

 それから、またしばらく進み、三人はある遺跡らしきものの前に立った。

 ――もちろん、ここは街中だ。

 整備するには労がいるので捨て置かれた、庭園跡だった。

 やや高めの壁に囲まれて、迷路のようになっている。

「ここなら、一週間前に探したわよ?」

 イリーナは言った。

 もちろん、剣など見つからなかったのだ。

 しかしハンネスは、にやりと少し口の端を上げて、イリーナを手招きした。

 訝しげに思いつつイリーナがハンネスの横に立つと、ハンネスはとある箇所を指差して言った。

「今の王家の者たちも知らないことなんだが、実はこの下に、地下がある」

「地下?」

 イリーナは聞き返す。

「どうして、王家の人も知らないようなものを、あなたが知っているのよ」

「知らん。父上が知っていたんだ。父上も祖父様から同じように聞いて知ったらしい」

 ハンネスは答えになっていないような答えを返してきた。

「――――」

 ぼそりとルークが何か呟く。

 振り向くと、いつになく真面目な顔。

 イリーナはどういう経緯でルークがその亡びた国の王に剣を授けることにしたのかは聞いていなかったが、しかし、それなりの思い入れがあることは、ルークの表情を見ていれば分かる。

 なんと声をかければいいか分からずにイリーナが黙り込んでいると、ハンネスは半ば壊れた石の台をあれこれといじり、やがて台座がかちりと音を立てた。

 ハンネスは、その重くて動きそうにもなさそうな台座を、すうっと前へ、押しやる。

 ――階段が現れた。

「さあ」

 先に行けとハンネスが手で指し示す。

 その言葉に、ふむ、とルークは頷いて、ぽっと手元に魔法の光を灯した。

 ルークとイリーナが階段のところに降りると、ハンネスもそのあとに続いて、がらがらと台座を元の位置に戻した。

 しかし、明るい。

 ハンネスは一応たいまつを持ってきたようだが、ルークの出した光に「便利だな」と感心し、しばし考えて、たいまつを荷物の中にしまい直した。

 言う。

「……進め。この辺りには罠はない。ほぼ一本道だ。目的のものは――見れば分かる」

 イリーナは、頷いて進んだ。

 かつんかつんと足音が二つこだまする。

 ――ルークの足音は、しない。

 幽霊みたいで気味が悪いなとハンネスに指摘されると、まあ似たようなものだとルークは答えた。

「本当か?」

 ひそひそとイリーナに尋ねてくる。

「当たらずとも遠からずってところね。幽霊というよりは、生き霊だもの。――いえ、本当は生き霊というわけでもないのだけど」

 なにしろルークのそれは、実体を伴っているのだから。

 ――しばらく進み、ルークは立ち止まる。

「これか」

「そう、これだ」

 壁際に、祭壇のようなものがあった。

 ドラゴンの絵が描かれた壁画に――その手前の台座に、質素な剣が置かれていた。

 ルークはそれを無造作に手に取り――その行動があまりにも突然だったので、ハンネスは驚いたような顔をしていた――、剣を抜いた。

「ああ、やはり。――懐かしいな」

 刀身を見つめてルークは言った。

 イリーナは言う。

「それじゃあ、その剣が、ルークの角でできているっていう……?」

「いいや。やはり違っていた。この剣はあの王がわれに挑んできたときに使った剣だ。リナ、お主だってこの剣からはわれのような魔力は感じないだろう?」

 そういえばそうだ。

 ごく普通の剣。

 いや、かすかに魔力を感じるが――、しかし、ルークのような、強大な魔力ではない。

 お守り程度の些細な魔力だ。

 果たしてきちんと役に立つのかどうかすら怪しい。

「……つまり、外れなのか」

 がっかりしたようにハンネスが言った。

「まあそう悄気るな。この剣は、実は魔力が封じられていて――」

 ルークはそう言いかけて――。

 はっと来た道のほうを振り返った。

 ハンネスも。

「え?」

 イリーナはきょとんとした顔をする。

「あいつらだ。――暗き魔法使いだ」

 ハンネスはすらりと自分の剣を抜いて構え、言った。

 通路の向こうから、闇が「来た」。

 魔法だ。

「小賢しい」

 ルークは片手を上げてぶつぶつと呪文を唱え――。

 魔法の光を、投げた。

 かっ、と閃光。

 ――次の瞬間、何かきらりと光るものがイリーナたちを襲う。

 ハンネスがイリーナの盾になり、それを振り払う。

 かつんとそれは音を立てた。

「昨日と同じ手とは、芸がないぞ!」

 ハンネスは挑発する。

 ――氷の杭だ。

 通路の向こうから、ローブの魔法使いが姿を現した。

「芸などなくて結構」

 現れた男にイリーナは首を傾げる。

 予想では、懲りずに陰に隠れたまま攻撃してくるものだと思っていたが――。

 訝しげな顔のイリーナを見てか、男は言う。

「ルークと言ったか。貴様のことを調べてきたぞ。……調べても、何も分からなかった。かの魔法使いの街の者ではないらしいな? 何者だ?」

「しつこいな。われはドラゴンであると言っているというのに。なぜ素直に信じないのだろうな?」

 ぶつぶつとルークは呟く。

 イリーナは、男の言葉に眉をひそめる。

「ちょっと待った。あなた、あの街に行ったの? 学長に手出ししてないでしょうね」

 ここからあの魔法使いの街まではとても一日で往復できるような距離ではないが、しかし、男は転送の魔法を使えるのだ。

 イリーナの言葉に男はくつくつと笑う。

「熱心だな。……安心するがいい。前にも言った通り、われわれの合成は不完全だ。そんな、一日に何度も転送の魔法を使えるほどの魔力はない。別の仲間と言霊の魔法でやり取りをして、調べさせただけだ」

 言った。

「本当ならば、昨日言った通りに、三人まとめて連れて帰りたいところだが……貴様の正体が分からない以上、下手に手出しをするのは得策ではなさそうだと判断した」

「今も散々攻撃してきているくせに、よくそんなことが言えるものだ」

「それは、貴様に対する攻撃ではないからだ。あとの二人は貴様よりも弱そうだからな」

 にやりと男は笑みを浮かべた。

 いや、見えるわけがない。男の表情は、ローブで隠されているのだ。

 それなのにイリーナはどうも嫌な予感がして、身構えた。

 ルークも同じく不穏な様子を感じ取ったらしい。男に向けて魔法を放つ。

 男はそれを避けつつ、呪文。

 さあっとイリーナの目の前に見えない壁ができる。

 ――結界。

 驚く間もなく、ルークが何事か叫んで、先ほどから持ったままだった王の剣を振るう。

 結界が切り裂けた。

 これには男のほうが驚いたようだったが、しかし男は冷静に魔法で追撃。イリーナとハンネスに向けてまた氷の杭を放つ。

 ルークがイリーナの前に出て、その氷の杭を振り払って――。

 ――いる間に、黒い手が、イリーナを掴んだ。

 一瞬、別の仲間か何かだと思ったが――違う。地面から生えているその手は、人のものではなかった。

 最初に襲ってきた闇と同じものだ。

「このっ」

 ルークはすぐに気が付いてイリーナにまとわりつくそれを退けようとする――もちろんイリーナも真っ先にその闇の手を解こうと試みたが、失敗に終わっていた――が、間に合わない。

 ぐいぐいと引っ張られる。

 男がまた呪文を唱えた。

 もう、イリーナも半ば聞き覚えた呪文。……転送の魔法。

 ルークがまた何事か叫び、男に剣を向ける。

 パァンッ、と盛大に弾ける音がして、一瞬のうちに魔法が散った。

 ――しかし男は呪文を唱えるのをやめない。

 ルークに魔法を妨害されるのを想定してか、転送の魔法を二つ、同時に組んでいたらしい。

 ヴゥウウンッ……と耳障りな音。

 ちっとルークは舌打ち。

 ここまで魔法が完成していては、手を出せない。散らそうとすれば、魔法が暴発してしまう。

 ルークはまた叫ぶ。

 ――今度はイリーナにもその意味が分かった。

 魔法の言葉の、初歩の初歩。引っ張る――いや、引っ張れという、命令だ。

 呪文ではない。精霊たちに対する呼びかけだ。

 思った以上の力で引っ張られる。

 イリーナには風の精霊しか見えていないが、おそらくは他の精霊たちもイリーナを引っ張っているのだろう。

 しかし。

 それでも。

 ――間に合わなかった。精霊たちが引っ張るのとは逆の方向に、ものすごい力で引き寄せられる。

 男の、獣の顔が、間近で見えた。

 勝ち誇った顔。

 ――転送。


 ***


 ……てっきり転送された先は、ローブの魔法使いたちに囲まれた、ど真ん中に落とされるものだとイリーナは想像していたが。

「その小娘が、例の街の、精霊の声を聞き分けることができるという者か」

 イリーナが転送されたのは、どこかの屋敷の、執務室のようなところだった。

 大きな机。書類の束。

 立派な椅子に座っているのは身なりの良さそうな壮年の男性だった。

 イリーナの腕を掴んでいる獣顔の男は言う。

「そうだ。牢の用意はできているな?」

「開けてある」

 素っ気なく、壮年の男は言った。

 ――あれ? この人。

 イリーナはその身なりの良さそうな男の顔を見て、首を傾げる。

 どことなく、ハンネスに似ているような気がするのだ。

 用は済んだとばかりに書類に目を戻すその紳士に、イリーナは声をかけた。

「恐れながら、あなたはそれなりの身分のお方だと見受けられますが! この者が邪法の使い手であることを承知でここに置いていらっしゃるのですか?」

 男は顔を上げた。

「それが何か?」

 冷ややかな笑み。

 ――うわっ、悪人面。

 イリーナは呆気にとられてそう思う。

 あまりにも呆然としてしまったので――。

「うわっ、悪人面……」

 ぽかんとした顔のまま、思わずぼそりと呟いてしまった。

 紳士は盛大に眉をひそめた。

 手を振って、さっさと連れて行けと指示をする。

 男がイリーナの手を引いて部屋を出た。

 誰ともすれ違うことなく廊下を進み、地下――牢屋へと連れて来られた。

 その一つに放り込まれる。

「しばらく待つことだな。いずれあの若造どもも捕らえてきてやろう。……あるいは、お前に対する実験が先か。楽しみにしているぞ」

「私は、全然、楽しくないわ」

 イリーナはがんっと格子を蹴り飛ばして、恨めしげに男を見上げた。

 ははっ、と男が笑う。

「そうだな。ではなるべく早めに、お前の仲間を捕らえることにしよう。待っているがいい」

「余計なお世話よ!」

 男はまた笑って、立ち去った。

 一人取り残されたイリーナはふうっと大きくため息をつく。

 ――いや。

「ルーク」

 イリーナはその名を呼ぶ。

「……なんだ?」

 果たしてすぐそばから返事があった。

 そりゃあそうだ。

 少年の姿をしたルークは、暗き魔法使いの転送には巻き込まれなかったが、ドラゴンのたまごであるルークの本体は、イリーナが肌身離さず持ち歩いているのだから。

 しかし、イリーナは心配だった。

「だってルーク、あなた、実体を持っているのにあんなふうに引き離されたんじゃ、なにか影響はないかって不安になるじゃない」

 イリーナはドラゴンのことはよく分からない。

 ましてルークは、転生した、ドラゴンのたまごだ。

「心配はいらぬ。あれはあくまでも仮の姿だ。少し驚いたが、まあそれだけのことだ」

 ルークはそう言った。

 ほっと息をつく。

「……それにしても、お主、ずいぶんと舐められいるようだぞ」

 やれやれとルークはため息。

 え? と聞き返すと、ルークは、「この檻は対魔法使い用のものではないからな。われが力を貸さずとも、お主が精霊に頼めば容易く壊せるだろう」と言った。

「あるいはお主が精霊を使役するのを確かめたがっているのか……。どちらにせよ、お主に逃げられることなどまるきり想定していないということだ」

 まあ、それならそれで、動き易くなるから構わない。

 イリーナ一人では逃げられなくとも、こちらにはルークがいるのだ。

「舐められいて結構よ。おおっぴらに魔法が使えるもの。あの悪人面紳士の正体も暴いてやるわよ」

 ほう、とルークが面白そうに笑った。

「ちなみにさすがに監視は付いているようだぞ。近くに媒体となる物があるようだが……ここからだとよく見えぬ。せっかく油断してくれているのだから、姿を現してやるのはためらわれるしな」

「監視?」

 イリーナは眉をひそめた。

 見えないところから見張られているというのは嫌な気分だ。

 ――そっちがその気なら、私だって、こっそりと見に行ってやるんだから。

 そう考え、ぶつぶつと小さく、呪文。

 ふわりと意識が浮く。

 遠見の魔法。

 軽く、軽く。――空を浮き、屋敷の外へ。

 空から見下ろすと、やはり屋敷は貴族の区域にあるらしかった。

 城と街からの位置からすると、おそらく侯爵か、伯爵の館。

 それから屋敷の中へと戻り、ローブの男を探して回る。

 ――当然ながら、屋敷の中では、普通の小間使いや使用人たちが働いていた。

 暗き魔法使いが闊歩しているようなことはない。

 しかしそれも、よくよく見てみると、耳が小さく尖った小間使いがいたり――普段は髪の毛や被り物で隠れている部分だ――やたらと分厚くて黒色の鉤爪を持った使用人がいたり――手袋を取らなければ分からないだろう――する。

 そういった者たちを見ていると、休憩時間に人目を盗んで屋敷のとある場所に集まり、ひそひそと「異常はなかった」などと報告し合っているのである。

 元の場所へと戻っていく者と、屋敷の、さらに奥へと進んでいく者と。

 後者を追いかけていくと、イリーナをここへと連れて来た獣顔の男を見つけた。

 貴族の屋敷にありがちな隠し通路をいくつか抜けた、その先だった。

「お疲れ様です。例の娘を捕らえたと聞きました」

「ああ」

 男は頷く。

「監視を付けてある。牢のほうへは行くな。今はまだ、手出しは許さん」

 指差した先に、扉。

 はい、と頷いて小間使いは部屋へと入っていった。

 小部屋。

 中央に水を湛えた台が置かれている。――水鏡。

 そこにイリーナの姿が映し出されていた。

 後ろ姿なので表情は見えない。

 どうやら監視用の媒体は固定されているらしい。

 イリーナはすうっと身体を意識し、目を開く。

 遠見の魔法と身体と――二つの風景にイリーナは少しくらりとするが、しかし、遠見の魔法を発動させたまま、身体のほうをやや意識して、首を動かす。

 水鏡の中のイリーナが、振り向いた。

 周りにいたローブの者たちが、ざわりと後ずさった。

「ああ、これね」

 イリーナは言う。

 身体のほうの目で見る景色。

 その真正面に、魔方陣の書かれた畳石を捉えた。

 口を開いてみたが、どうやら声は、暗き魔法使いたちには聞こえないらしい。

 呪文を唱える。

 ひゅっと風の刃を飛ばし――石を、割った。

 水鏡からイリーナの姿が掻き消えた。

「ど……っ」

 小部屋のほうで、ローブの者が言葉を発し。

「導師様ー!」

 慌てて部屋を出ていった。

「待て! 気安く導師の手を煩わせるなっ。何事だ!」

 駆けていくローブの者に、獣顔の男――フードを被っていたが、もうイリーナには、声を聞いただけで分かった――が鋭い声で呼び止めた。

「あ……。す、すみません、例の娘がとんでもないことを……。一体どうしたら!」

「なんだ! 落ち着け。何があった?」

「あの娘が、われわれの魔法を破ってきたんですっ。監視の魔方陣なんて視認できるわけがないのに、いとも容易く見つけられてしまって、破壊されてしまったんです」

 イリーナは眉をひそめる。

 ――視認できるわけがない? あんなに分かりやすく描かれていたのに?

 もし結界が張ってあるのなら、魔力を感じ取るのが苦手なイリーナには見分けられないだろう。

「きっとこの隠し部屋のこともばれていますよ! 水鏡で、目が合ったんですっ……! どうしよう、乗り込まれるっ」

 目を合わせたつもりはないが。

 それに、こんな危険な魔法使いだらけの場所へ乗り込むくらいなら、さっさと逃げたほうがましだと思うのだが。

「お前は――、いつも、心配のしすぎなのだ。愚か者。あの娘にわれわれと渡り合えるような実力はない」

 男は冷静にそう言い、下がれと命じる。

「様子を見てくる。お前たちは、魔法を復旧させるための準備をしていろ」

 踵を返した。

 ――まずいな、とイリーナは自分の身体へと戻ることにする。

 意識を身体のほうへ集中させて、光球となっている自分を、引き戻す。

 引き戻す途中に――。

 イリーナは、信じられないものを見た。

「リナ!」

 ルークが鋭い声を出す。

 はっと我に返り、イリーナは身体へと戻った。

 ルークは外に実体を現していて、渋い顔をしていた。

「意識を引き戻している最中に余所見をするのは危険なんだぞ。魔法の発動に失敗するのと同じくらいに。……意識が二つに裂けて寿命が縮むようなことは困るだろう?」

「ごめんなさい。だって……ハンネスがいたんだもの」

「あの若造が? なんだ、さっそく捕まったのか」

 呆れたようにルークが言う。

 しかしイリーナは――首を振った。

 違うのだ。

 イリーナが見たのは、屋敷の中を堂々と歩いているハンネスの姿だった。

「堂々と? うん? それはつまり……つまり……ああ、別に心配することはなかろう。実はあやつは暗き魔法使いの手先である――などとは考えにくいからな。なにしろわれわれがこの街に来る前から暗き魔法使いに狙われていたのだから」

「ああそうね?」

 きょとんとしてイリーナ。

「えっと、じゃあ……つまり?」

「さあな。しかしこの屋敷にいる者の半分からは、魔力を感じないから――おそらく、表の顔と裏の顔があるのだろう。あの若造は、その表のほうに用事があったのだろうな」

 ルークはそう言った。

 そういえばそうだ。わざわざ隠し部屋を作ったり小間使いに混じってこそこそと様子を見たりしているのは、暗き魔法使いたちの研究が、秘密のものだからだ。

 なんだ、とイリーナはほっとした。

「ああ、それよりも。――ルーク、少し隠れてくれない?」

 ――ほっとしたら、我に返り、どうして自分の身体に急いで戻ってきたのかを思い出した。

 ん? とルークは首を傾げるが、次の瞬間には姿を消していて、またたまごの中から話しかけてきた。

「あの男か? お主、魔法を破ったと思ったら……なにか策があってそうしたわけではないのか」

 どうやらこの状況をすぐに見破ったらしい。

「策なんてないわ。だって、覗き見なんて卑怯じゃない。少なくとも、良心的な大人がすることではないでしょう? 破廉恥だもの。……そうよ、破廉恥よ! 許し難い行為だと思わない?」

 イリーナがそう言うと。

「許してもらおうとは思っていないが、破廉恥呼ばわりされるのは不服だな」

 部屋の、入り口のほうから声がした。

 獣顔の男。

「……ずいぶんと大きな独り言だな。陰口はこっそりと呟くべきだぞ、小娘」

「こっそり? 一体どうやってよ。こっちはあなたたちに監視されてるっていうのに」

 イリーナの言葉に、男は、そうだったと話を変えた。

「その監視のことだ。……お前は、監視の魔方陣を壊したそうだな。一体どうやった?」

「……さっきも思ったけど、あなたたち、自分に落ち度があるとは思わないの? あの魔方陣、あんなに分かりやすく描いてあったのに」

「分かりやすく?」

「そうよ。丸見えだったもの。定期的に劣化を確認しておかなきゃ駄目じゃない。……私のせいじゃないわよ。自業自得ってやつよね」

 男は考え込む。

「いや見えるはずがない。それは、お前の得意の嘘か?」

 どうもややこしいことになっているようだ。

 ――この前、私が大法螺吹きだって言ったのがまずかったのかしら。

 イリーナはそう思った。

 ぶつぶつと不気味に呟いている男に、イリーナは、下手な結論をされては困ると思って話しかける。

「ねえ」

 言う。

「それで、ここはどこなの? あの貴族みたいな人は何者?」

「教えると思うか?」

「教えておいてくれなきゃ、私、いざというときに、なんのためらいもなく攻撃しちゃうと思うの。……でも素性を知っていたら、少しは遠慮して手加減するかもしれないでしょう?」

 じーっと、見つめられた。

 イリーナは不快さを隠さぬまま、男の顔――と言ってもフードに隠れて見えないが――を見つめ返す。

「……貴族らしいのではない。本物の貴族だ」

 男は言った。

「ラディクロワ伯補佐。ラディクロワ家の傍系の貴族――子爵だ。われわれの仲間で、あの者を慕う者たちは、『導師』と呼んでいるがな」

 ぴくりとポケットの中のルークが反応した。

 イリーナも言う。

「ラディクロワ? それって、ハンネスの――。ラディクロワ伯は身内を売ったの?」

「それならばわれわれはもっと楽にあの小僧を捕まえているだろうがな」

 男は言いつつ何かの石を取り出す。

 またぴくりとルーク。

「あやつ、ばらまくにも程があるぞ……」

 ぶつぶつと言う。

 畳石と同じような、平たい石と――赤い、炎の気を感じる石。

 その二つを床に置き、男が二種類の呪文を唱えた。

 監視の魔方陣がぼんやりと畳石のような石に浮かび上がる。

「今度は壊させん。……壊そうと思うなよ。どうせ無理だ。あの小僧と絡んでいるのなら分かると思うが、この石には、魔法を無力化させる効果がある」

 なるほどルークが呟いたのはこのことらしい。

 それからまた男はイリーナをじっと見つめて、やがてふいっと顔を逸らして部屋から出ていった。

 イリーナはそれを見届けて――。

 ……魔方陣に向かって、魔法を放った。

 魔法は、その畳石に届く前にすうっと掻き消えた。

 首を傾げつつイリーナは言う。

「……こっちの魔法が無力化されるってことは、あっちも監視なんてできないんじゃないの?」

「監視の魔法は、光景を読み込んでいるだけだ。こちらに向けて魔法を放っているわけではないから無力化の対象にはならない」

 ポケットの中からルークが言った。

 ふうんと頷く。

 まあ、見られている場所が分かっているのだから、その死角になるほうを向いておけばいいだけだ。

 イリーナはくるりと背を向ける。

 それにしてもハンネスはどうなっただろう。

 イリーナはまた遠見の魔法を唱え、屋敷の中を探してみることにする。

 ふわりと意識が浮いた。

 ハンネスが向かっていたほう――ラディクロワ伯補佐のいる部屋へと行ってみる。

「……である俺よりも、その来客とやらは重要な人物なのか?」

 いた。

 部屋の前で、小間使いに引き止められているところだった。

「ですから、それはお答えできないと先ほどから申しているではないですか」

「ほ~う。答えられないほど重要な客とはな。さぞかし偉い人物なのだろうな。……そんな客がラディクロワ家を訪ねてくるわけがないだろう? 通せ。そこを退け。急用だ。あくまでも俺を補佐殿に会わせないつもりなら、この件に関しては報告させてもらう」

「ですからそれも困ると申し上げたではないですか」

 応酬。

 しばらくやいのやいのと言い争い、埒が明かないというようにハンネスが強引に小間使いを押し退けようとしたところで――。

 きい、とその扉が開いた。

「入れ」

 奥から例の紳士の声。

 ハンネスは戸惑っている小間使いを避けて、部屋に入った。

 ずかずかと足早に歩み寄り、言う。

「補佐殿、あなたの使いが連れていった魔法使いの娘はどこにいるのです?」

 どうやらハンネスはこの紳士の裏の顔を知っているらしい。

「あの娘か? あれなら、牢屋に入れてある。まだ手は付けていない。貴方が来るのをお待ち申し上げているところだったのでな」

「……今日は随分と素直に話してきますね。なにか悪いものでも食べましたか」

 警戒しつつ尋ねる。

 くつくつと紳士は忍び笑った。

「貴方のほうこそ。そのようにあからさまに嫌悪の目を向けてくるのは初めてではないかな? てっきり、貴方は我々の所業を存じ上げぬものとばかり思っていたが」

 ハンネスは顔をしかめつつ言う。

「なにしろ、身内にそういう愚か者がいることなど信じたくなかったものでね。……その娘を引き渡してはもらえませんか。あなたのことを騎士団に通報するのは忍びない」

 また紳士が笑う。

「貴方は……ご自分が今どういう場所におられるのか、理解していないようだな」

 あ、とイリーナは声を上げる。

 ハンネスの後ろに、ゆらりとローブの男が立ったのだ。

「――ハンネス!」

 イリーナが叫ぶ。

 しかしハンネスには遠見の魔法を使っているイリーナの声は聞こえないらしく、紳士の様子に少し眉をひそめ――。それだけだ。

 男が呪文もなく手に魔法を宿す。そしてその手をハンネスに向けて、すっと無造作に伸ばした。

 ――イリーナはしかし、今度は、ルークの言葉を思い出した。

 周りの精霊に目をやって、言う。

「守って!」

 ただ一言だったが、精霊たちは動いて、ごおっとハンネスと男を隔てるように大きな風を起こした。

 突然の大風に紳士もローブの男も、……それからハンネスも、驚いたようにそちらを見た。

「……! 貴様っ」

 ハンネスが男に気が付いて剣を抜く。

 ちっと男が舌打ち。

「精霊の加護か。厄介な」

 しかしそう言いながらもすぐに呪文を唱えている。

 ぴしっと空気が凍る。

 ハンネス自身はドラゴンの魔力を込められた石を持っているおかげでその魔法の効果は無力化されているようだが、風の精霊たちは少し嫌そうな顔をしてハンネスの周りから散る。

 これではイリーナがハンネスを助けることができない。

「ああもうっ」

 イリーナは意識を自分の身体に戻した。

「ルーク!」

 言う。「あなた、この見張りをどうにかできない?」

 ん? とたまごの中からルークが牢の外、監視の魔方陣が書かれた石の外側へと、姿を現した。

「それはもちろん容易いことである。……しかしリナ、お主、監視の魔法を壊したらまたあの暗き魔法使いの若造が様子を見に来ることになるぞ?」

「いいのよ。だって、ハンネスが危ないんだもの。ハンネスが捕まったら、多分どうせここに連れて来られるでしょう? そしたらあの獣顔の暗き魔法使いともまた顔を合わせることになるんだから、だったら、ハンネスを助けにこっちから出向いてやったほうがよっぽど有意義だと思わない?」

 なるほどとルークは頷いた。

 がっ、と魔方陣を守っているドラゴンの石を蹴り飛ばす。

「ありがと」

 イリーナはにっこりと笑い、魔法を放った。

 魔方陣が、壊れた。

 満足げに頷き、それから興味深げに集まっている精霊たちに話しかける。

「さてと、あなたたち、また少し力を貸してくれるかしら」

 精霊たちは頷いた。

 イリーナの呪文に合わせて、精霊たちが楽しそうに舞う。

 魔法。

 牢の格子が、派手に吹っ飛んだ。

「よーし脱出よ」

 獣顔の男はハンネスの相手をしているのだから今はここには駆けつけられない。

 イリーナのことを監視している魔法使いたちは――、多分、イリーナの力を警戒して、まずは獣顔の男か導師様とやら――ラディクロワ伯補佐だというあの紳士のほうへと泣きつきに行くだろう。……しかしその二人はハンネスの相手をするのに忙しい。

 つまりイリーナの邪魔しに来る者はないわけで。

 意気揚々と牢を出たイリーナは――。

 ……しかし、ルークの悲鳴のような声に、引き止められた。

「駄目だ、リナ、行くな。行ってはならない」

 唐突だ。

 一体どうしたのかと聞こうと口を開きかけたイリーナは、しかし、空気が揺らぐのを感じた。

 ごおっと、風。

 ――転送。

 屋敷の外へ。

「ええっ」

 もちろん、ルークの仕業だ。

「ルーク。何を……。何? なんなの?」

 戸惑いつつ、質問になっていないような質問で、ルークのほうを恨めしげに見上げた。

 ルークは――今までに見たことがないような、沈んだ顔をしていた。

 イリーナはぎょっとする。

「……良い国をつくりたいから、と言っていたのに」

 ぽそりとルーク。

 それから、深く深く、ため息。

「わが身体を見つけたぞ、魔女のたまごよ」

 ルークは言った。

「その剣を持っているのは――あの男だ。ラディクロワ伯補佐だという、あの若造。わが剣を授けた王の……子孫だ」

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