一章
一章
ドラゴンに関する伝承は数多にあるが、その生態に関してはあまり多くのことは分かっていない。
個体数も少なく、人よりもずっと賢く、長寿であるゆえ。
人が起こすごたごたに巻き込まれるのを嫌う彼らは、人目につかぬ山奥などにひっそりと身を置いているのがほとんどだ。
だから、イリーナも、ドラゴンなど物語にしか登場しない伝説上の生き物だと思っていたわけだが――。
「ルーク、あなた……なんでついてくるの?」
「なぜとは? お主がわれの身体を持ち運んでいるからに決まっているではないか」
……少なくとも、こんなふうに生まれる前から実体を持ったりぺらぺらと人語を喋ったりするようなたまごを産む生き物ではないことは分かる。
イリーナはため息をつきつつ言う。
「あのね、そのたまごならさっき地面に戻してあげたじゃない。私が聞きたいのは、どうしてあなたがそれをまた私の荷に戻したのかってことよ」
たまごの「中身」であるルークだが、どうやらこうやって姿を現しているときには実体を伴っているらしい。
ドラゴンと関わりを持つなど――と思ったイリーナは、たまごだという石をさっさと手放したのだが……いつまでもついてくるルークに尋ねてみたら、イリーナに気付かれないようにたまごを荷の中に戻しておいたのだという。
「ああ。本当はお主に気付かれないように、逃げるつもりだった」
自称ドラゴンのルークはそう言って頷く。
「しかし、わが声が聞こえるうえに『たまご』であると名乗られては、ついていかないわけにはいくまい。……こんな面白い者を放っておくなど、できるわけがない」
「放っといてよ!」
まったくいい迷惑だ。
こんな得体の知れない「自称ドラゴン」など、イリーナの学舎に連れて帰るわけにはいかないというのに。
顔をしかめて睨み付けるイリーナに、ルークは言う。
「しかし、お主は本当に希有な者なのだぞ。わが声は、こうやって姿を現しているときには誰にでも聞こえるが……そうでなければ普通の者には聞こえぬはず。誇るがよいぞ、リナ。ドラゴンの声が聞こえる者など滅多におらぬ」
イリーナはじっとルークを見つめる。
「……あなた、ドラゴンなのよね?」
「ああ」
「まだ生まれてないのよね?」
「その通りである」
「じゃあ、そういう知識はどこで仕入れてくるの? ドラゴンって、生まれる前からなんでも知ってるおかしな生き物なの?」
きょとん、とルークは口を開けた。
そしてまた呆れたようなため息。
「われをそこらの若造と一緒にされては困る。……知らぬのか? われわれは条件を満たせば転生できる生き物なのだ。われがこうしてお主と喋ったりたまごの外に姿を現したりできるのは、転生した身であるからだ」
「転生?」
まだ疑わしげに、イリーナ。
転生、生まれ変わり。
魔術を研究していて行き着くのが不死の研究。しかし、その研究を完成させた者はいない。
――だから、魔法使いの中には、考える者がある。
死から逃れられなくとも、記憶の引き継ぎさえできれば――と。
しかしこの研究も、成功したなどという噂は聞いたことがない。
それなのに。
ドラゴンは転生する生き物だとルークは言う。
不死に次ぐ永題を、――偉大な魔法使いたちがこぞっても叶えられない秘技を、ルークは「条件さえ満たせば」叶えられると言っているのだ。
いくらドラゴンが謎多き生き物であるとはいえ。
とても信じられたものではない。
……考えると、ルークが「たまご」であるかすら怪しくなってくる。
見た目はただの石なのだ。――透明感のある色の、やや不思議な魔力が感じられる石ではあるが、魔物を封じた石であると言われたほうがまだ説得力がある。
「疑いたいのなら疑うがいい。一向に構わぬ。お主にどう思われようとわれがドラゴンであることには変わりないからな」
飄々とルークはそう言った。
……イリーナは何も言い返せなくなったので、とりあえず、ぷいっと顔を逸らして、帰路を急ぐことにした。
***
――二日かけて街に戻ると馴染みの尖塔が見えた。
街の一画に、魔法使いのための学舎があるのだ。
「偉大な魔法使いはいないが、賢い良き魔法使いの協力を仰ぎたかったらまずここを当たれ」と言われる街である。
イリーナもここに住んでいる。
「なかなかの街だな」
実体を現さずに、ぽつりとルークは言った。
街に入る前に「大人しくしてなさいよ」とイリーナがルークに言うと、ルークも「言われずとも人前に出たりはせぬ。われは人ごみは嫌いだ」と言い返し、それからずっと黙りこくっていたのだ。
いきなりの声だが、振り返る者はいない。
それほど大きな声ではなかったから、周りの者にも気付かれなかったのだろうとイリーナは思う。……イリーナはルークの声が自分にしか聞こえないなどということは信じていなかった。
しかしまあ、ルークの声は返答を求めるような調子ではなかったから、イリーナも返事をせずに黙って歩いた。
「やあ、イリーナ。お帰り」
学舎の門をくぐろうとすると声がかかった。
真っ白い髪に、知性を感じさせる瞳の老人。
この学舎の学長だった。
「ただいま戻りました」
イリーナは丁寧に頭を下げて挨拶をする。
学長はイリーナの背負っている荷に目を移して言う。
「あの森へ、石を拾いに行ってきたのだったかな? 首尾はどうかね」
「申し訳ありません。あまり……よく分からなくて」
「いや、気にすることはない。こうやって鑑定眼を養うことは有意義なことなのだよ。私も昔はよく森へ遣らされた」
にっこりと学長は微笑んだ。
つられてイリーナも笑みを浮かべる。
偉大な魔法使いはいないと言われる街だが、この学長に限っては、偉大な魔法使いだと言われてもいいのではないかとイリーナは思っていた。
「それよりも、そなたからどうも不思議な魔力を感じるが……。何かあったかな」
イリーナは学長の言葉にどきりとする。
ルークのことだ。
森の中は魔力に満ちていたためあまり感じなかったが、森を抜けてからは、イリーナもルークの放つ魔力の異質さを強く意識するようになった。
まるで、空から風を切り出したような。
――イリーナは、ルークの魔力を、そんなふうに感じる。
街には魔法使いが多いし、使い魔や魔道具なども溢れているから、気付かれずに済むかと思っていたのだが……やはり隠し通すことはできないようだ。
「さすがに鋭い。リナ、この者にわが正体を尋ねてみるがいい。わが声が聞こえているのかどうかも。……いや、この様子だと聞こえていないのは確実のようだがな」
ルークは言った。
イリーナはちらりと振り返り、それからまた学長に目を向けた。
この声に、学長は気付いている様子はなかった。
本当に聞こえていないらしい。
「あの、実は森でおかしな石を拾ってしまって」
イリーナはおそるおそるそう切り出した。
われは石ではなくたまごである、とルークからまた突っ込まれたが、それにもこの老いた学長は反応しなかった。
「どれ、私が視てみようか」
学長はそう言った。
背の荷から、イリーナはその石――ルークの本体を取り出す。
……取り出したその一瞬、ごおっ、と風が巻いた。
「なんと」
学長は驚きの色を浮かべる。
差し出す前に、その正体に気付いたらしい。
「イリーナ・ティウン、私の教え子よ。……よもやそれを目にする日が来ようとは」
「申し訳ありません、厄介な物を持ち込んでしまって」
イリーナは縮こまって言う。
しかし学長は、驚いた表情のまま、首を振った。
「いいや。厄介なことなど……。こんな……素晴らしいものを。これを入手できるのならば、どんな対価を払ってもいいくらいだが――」
学長はちらりとルークの本体に目を落とし、それから、イリーナの顔を見て、微妙な表情を浮かべた。
「……いや、やはりそなたが持っておくべきか」
しまいなさい、と学長に促されて、イリーナはそれを荷に戻した。
イリーナには学長の意図が分からない。
険しい顔をして学長は考え込み、しばらくしてから重く口を開いた。
「イリーナ。そなたが持つそれはドラゴンのたまごだ」
それ見ろ、とルークが言う。
「どうか今宵は、それを手放さずにいなさい。きっとドラゴンの加護があるはず」
「加護?」
半信半疑な表情でイリーナは問い返す。
一瞬、少年の姿のルークが思い浮かび、とても加護など期待できそうにないな、と思った。
イリーナは言う。
「恐れながら……これはドラゴンのたまごではないと思うのです。――魔物を封じた石とかではないのですか?」
「ふむん? なぜそう思う?」
学長が怪訝な顔で問う。
イリーナは口を開きかけ、しかし学長には聞こえないらしいルークの声のことをどう説明したことか、と悩んで口を閉ざした。
まさかルークに頼んで姿を現してもらうことはできまい。もし本当にルークが魔物であるならば、イリーナがそんなものを呼び出すことを願ってルークに貸しを作るわけにはいかないのだから。
「そ、それは――」
イリーナは言った。
「せ……、精霊たちがそう言っていたからですっ!」
言ってから、しまったと後悔する。
この言葉を言うと、いつも、この学長は微妙な表情を浮かべてイリーナのことを見てくるのだ。
しん、とぎこちない空気が流れる。
……ふと。
ルークが口を挟む。
「リナ、お主、精霊なんぞ見えてはおらぬだろう――ふががっ」
その声は学長には聞こえないということは分かっていたが、イリーナは思わず両手で荷を押さえた。
また怪訝な表情。
あはは、とイリーナは空笑いして誤魔化しにかかる。
ふうっと、学長はため息。
「……よろしい。明日詳しく調べよう」
仕方ないな、というように、苦笑いしつつそう言った。
イリーナはほっと胸を撫で下ろした。
「われがそう大人しくしていると思――んっぐはっ」
ルークがまた口を挟んできたので、イリーナはまた――しかし今度は確信的に――荷を押さえた。
学長に礼を言い、自分の部屋に入った。
そっと扉を閉めると、ばたばたと机に向かい、荷を解いてルークの本体を取り出した。
「冷や汗かいたじゃないの!」
「死ぬかと思ったぞ!」
イリーナが怒鳴るのとルークが少年の姿を現して叫ぶのとが同時だった。
「……われはたまごである。割れれば死ぬということを理解してもらいたいものだ。わが身は頑丈ゆえ、おいそれと割れたりはしないが」
ルークの言葉にイリーナは小声で「ごめんなさい」と謝ったが、一度ふうっと息をついて、またルークをきっと睨んだ。
「だってルーク、あなた、余計な口出しをしてくるんだもの。学長にはあなたの声が聞こえないって言うけど、万が一『聞こえないふり』をしているだけだとしたら、どうしてくれるって言うの?」
ルークはやや真顔になってイリーナの顔を見つめる。
「精霊の声が聞こえる、という嘘のことか?」
イリーナは――。
「……そうよ」
頷いた。
実は、イリーナがこの学舎に来てから五年も経つ。
しかし、魔法を学び始めたのはごく最近。
学長が、イリーナに魔法を覚えさせることを禁じていたのだ。
この五年間、イリーナが学んだことは言葉遣いや礼儀作法、歴史、行商の仕方、魔道具の目利きなどだった。
――普通ならば、あり得ない。
イリーナより後にこの学舎の門を叩いた者たちは、そんなものは習わず、すぐに魔法の基礎を学んでイリーナを追い越していった。
普通でないのは、自分が特別だからだ、とイリーナは思う。
――イリーナは、「精霊の声が聞こえる」者としてこの学舎に入ったから。
「親が子どもを売ることってよくあるでしょう? 私は両親とも早死にしていて、しばらくは同じ村の、ちょっと小金持ちの人のところで働いていたんだけど……ある年、ひどい飢饉に遭って」
イリーナは言う。
「こりゃ、駄目だ。私――イリーナを他所に売るしかない、ってなって。――でも、赤の他人のために売られてやるなんて癪じゃない? だから私、言ったのよ。『精霊の声が聞こえる』って」
精霊の声が聞こえる者は少ない。
彼らは偉大な魔法使いになる者が多いため、幼いうちに魔法使いの元へ遣るのが一番だと言われる。
普通はこうやって学舎に入って魔法を学ぶためには多額の金が必要となるのだが、学舎にとっては偉大な魔法使いを輩出することは誉れであるため、精霊の声が聞こえる者ならば、逆に学舎が金を払ってでも引き取りたがる。
精霊の声を聞き分ける力を後天的に鍛えることは不可能なのかと言えば、否、そうではない。
しかしそれは、年を重ね、魔法を極めに極めた結果であることはほぼ間違いなく、魔法使いとしての成長の伸び代などとうに使い切っているのがほとんどだ。
元来からその力を持つ者とは比べようもない。
――だから、イリーナがこの学舎に引き取られたときも、それなりの大金になったらしい。村でイリーナをこき使っていた小金持ちの夫婦は、喜んでイリーナを見送った。
イリーナは言う。
「この嘘はばれるわけにはいかないの。精霊の声が聞こえないと分かったら、学舎を追い出されちゃうもの」
やっと魔法を覚え始めたばかりなのだ。
今、イリーナは魔法を学ぶのが楽しくて仕方がないし、追い出されるにしても、一人で生活するにはもっと多くの魔法を身に付けなければならない。
それに、イリーナは学長を尊敬している。
もし嘘がばれたとしたら――なにより学長に失望されるであろうことが一番耐え難い。
「ふむ」
ルークは頷き、またイリーナの顔をじっと見た。
手招き。
何かと思いつつイリーナはルークに顔を寄せる。
「それならばそうと早く言えば良いものを。――イリーナ・ティウン、魔女のたまごよ。お主はわれをドラゴンのたまごであるとは信じていないようだから、知らしめてみせようぞ」
ぽん、と頭に手を置かれた。
すっと身体を風が通り抜けていくような感覚。
「見えるか?」
ルークが手を離して窓のほうを指差した。
「見えるって何が――」
イリーナは言いかけて。
目を見開いた。
窓の外は中庭である。――その中庭に、小さな「ひとのようなもの」が舞っていた。
……いや、数は少ないが、よく見ればこの部屋の中にもそれと同じようなものがふわりと漂って、ルークとイリーナのほうに目を向けている。
イリーナがそちらを見ると、目が合った。
それらはイリーナの顔を見たままふよふよと近づいてきて、少し首を傾げた。
イリーナは驚いて身を引いた。
「――お主に精霊が見える力を与えた。われは風の属性を持つゆえ、風の精霊が見えていよう」
ルークは誇るでもなく優しげにでもなく、さらりとそう言った。
「これがルークの見ている世界?」
「まさか! われはドラゴンであるぞ。他の精霊どももすべて、見えているわ。――少々やかましいくらいである。むしろお主がうらやましい」
「それはどうも」
イリーナは肩を竦めた。
――先ほどの精霊は、まだイリーナのことをじっと見ている。
あまりにもあどけない瞳が見つめてくるので、イリーナはぎこちなく視線を逸らす。
「ねえ、精霊と目が合ったらどうすればいいの?」
「放っておけ。こやつらは構ってほしくて仕方がないのだ。こちらが見ていると知られたのなら、なおさら。……まあ、構ってみるのも良いがな」
魔導書はあるか、と訊かれて、イリーナは机の奥から一冊の本を引っ張り出して渡す。
ルークはぱらぱらと本をめくり、ある項を開いて本をイリーナに差し出した。
「試しにこの魔法を使ってみるがよい。精霊どもが喜んで手伝ってくれよう」
……学舎でも教えてくれないような魔法だった。
とても教え切れるような魔法ではないから、使いたければ自力で習得せよ、という高度な魔法。
「あの、それってわざと?」
「なんのことだ?」
ルークはきょとんとして尋ねてきた。
「こんな魔法……私にはとても使えるような魔法じゃないんだけど……。もっと簡単な魔法じゃ駄目なの?」
「それではわれがつまらぬ」
ばっさりと言い捨てられた。
「なに、難しいのは最初の発動だけだ。子ども騙しのような魔法である。お主くらいの魔力であっても扱えるはずだ。頑張るがよい」
ひらひらと手を振って言う。
イリーナは、ため息。
それから諦めて魔導書に目を落とし、呪文の解読を始めた。
――精霊に構うのも骨が折れるな、と思った。
***
魔法は正しく呪文を唱えなければ効果的に発動してくれないが、正しく唱えるだけでも発動してくれない。
――魔法の「形」を想像すること。
それが魔法を発動させる条件である。
例えば魔法で火を出したいならば、「炎」の形を想像するのではなく、「燃える」という動作の形を想像しなければならない。
呪文を唱えるという行為は、自分の魔力や精霊たちから借りた力を使ってその想像に現実の形を与える作業であると言える。
現実の形を与えるのが呪文の本質であるから、無論、呪文にはその魔法の「形」が記されている。
つまり、呪文を解読すれば魔法の「形」が分かるわけで。
呪文に使われる文字は有限であるから、どれほど高度な魔法でも、初歩の魔法さえしっかり学んでいればジグソーパズルのピースを嵌めるがごとく、すらすらと、解読できるようになる。
……らしい。
「はあぁぁ……」
イリーナはばったりと机に突っ伏した。
「何がすらすらよ。初歩さえしっかり学べばって。……初歩なんか、半年で習得してるのに」
ぶつぶつとイリーナ。
――夜である。
結局、ルークに示された魔法を解読するまでに日が暮れてしまった。
「半年ならば、人の子としてはなかなかのものではないか」
ルークがたまごの中からそう言う。
イリーナはぐったりとしたまま恨みがましい目をルークに向ける。
「……なにしろ私は精霊の声が聞こえることになっているんだもの。才能のあるふりをするくらい、どうってことないわ」
毎晩、書庫に籠って魔導書を読み漁っているのである。
そんなイリーナであるから、初歩が重要であることは重々承知していて、次の段階の魔法に進むのには慎重に慎重を重ねているが。
「なるほど恐れ入る」
ルークは言った。
イリーナはもう一度魔導書に目を落とす。
「これって、失敗したらどうなるの?」
魔力が足りなかったり想像が不完全だったりして魔法の発動に失敗すると、大抵はより下級の魔法が発動する。
しかし、イリーナがとっぷり日が暮れるまでかかって解読したこの魔法には、どうやら下級の魔法は存在しないらしいのだ。そういった魔法の場合には下手をすると暴走暴発したりする危険もあるが――。
「安心するがいい。失敗しても不発に終わるか意識が彼方へすっ飛ぶだけで済む。その時はわれが無理矢理にでもお主の意識を引き戻してくれよう」
「……あなた、もしかして私が失敗するのを期待してこの魔法を選んだ?」
「さてなんのことやら」
「ちょっと、たまごなんかに籠ってないで出てきなさいよ。一発ぶん殴ってやりたくなってきたわ!」
「わぁああ、やめろ、揺さぶるな、目が回る!」
しばし格闘。
ぜーはーぜーはー……。
二人は息をついた。
「失敗なんてしてやらないからね」
イリーナは言った。
ははは、とルークが笑う。
「ならばそれも良い」
唱えてみよ、と言われて、イリーナは魔導書を閉じて立ち上がる。
呪文。
窓の外から精霊たちが集まってくる。
魔法が完成した。
――発動の瞬間、魔力の流れが変わり、ぐわっと身体から意識を剥がされかけた。
飛ばされる、と思って自分の身体に手を伸ばすと、ぱしっ、とその意識だけの腕を掴まれた。
「初めてにしては上々である」
ルーク。
むぎゅっと身体に意識を押し込まれた。
「必要なのは目だけだ。それ以外の意識は身体に残してくるがいい」
「簡単に言ってくれるわね」
まだ意識が朦朧としているため、うつろな表情でそう答える。
――遠見の魔法。
使いこなせば千里をも見通せるという魔法だ。
目だけ、目だけ、とイリーナは自分に言い聞かせる。
ふわりと景色が動いた。
成功したようだ。
「これって私、外からはどういうふうに見えてるの? まさか目だけが部屋に浮かんでるとか」
イリーナは訊いてルークを見た。
声は身体のほうから出ているのに、景色は身体から見えるものとはずれているため、なんだか不思議な感じがする。
ルークは首を振る。
「……そんなおぞましいものにはならぬ。それほど小さな意識ならば、寄り集まって小さな光球のような形を取る。お主も今はその状態だ。無論、今のお主は精霊どもと同じく、普通の者には見えない」
精霊たちと同じくか、とイリーナは漂う精霊に目を向ける。
この状態でも見えるのは風の精霊だけらしい。
少々残念に思える。
――ふと。
こちらへ、と声が聞こえた。
見れば精霊たちが来い来いと手招きしている。
ちらりとルークに目を向けると、行ってみるがいい、と言われた。
ついていく。
そういえば扉を開けなくてはならないのでは、と心配したが、意識だけのイリーナはするりと通り抜けられた。
下の階へ。
通路の奥を進んでいき、ある部屋の前へ着いた。
学長の部屋だ。
珍しく結界が張ってある。
――部屋の外に音が漏れないようにするためのものだ。
扉を見てみると、鍵もかけてあるらしかった。
「誰か来てるの?」
遠くで――自分の部屋で、イリーナがそう言うのをイリーナは聞いた。
しかし精霊にはその声も聞こえているらしく、イリーナの問いに、そうだ、と頷く。
さてどうしたものか、とイリーナは首を傾げる。
来客中ならば当然イリーナが邪魔するわけにはいけないが――、精霊たちは一体なぜこんなところへ呼んだのかとも思う。
まさか、さっそくからかわれたのか、とも疑える。
――考えあぐねていると、精霊たちに、意識を押された。
「え、ちょ、ちょっと!」
そのまま部屋の中へ。
学長。
それとローブを纏った知らない男が二人。――いや、女かもしれない。フードを被っているので顔は見えない。
一見すると穏やかな表情を浮かべている学長だが、周りの空気はどうもぴりぴりしていて、風の精霊たちも居心地悪そうにくるくるとさかんに舞っている。
――ふとなぜか、今宵はドラゴンのたまごを手放さぬように、と言っていた学長の顔を思い出した。
どうも嫌な予感がした。
「……というわけですから、あなた方の期待には添えそうにはありません」
学長が言っている。
「この学舎には、精霊の声が聞こえる者などおりません」
イリーナはどきりとする。
しかしローブの男――男の声だった――は無機質な声で言う。
「またその嘘か。その言葉は昨日も一昨日も聞いた。もっとましな言い訳はないのか?」
「あいにく、くるくると変わるような言い訳は持ち合わせていないので。――あなた方のほうが、単なる噂に騙されただけということでしょう。存在しない者を引き渡すことはできません。これ以上の言い訳がいるのでしょうか?」
どうやらこのローブの男たちは精霊の声が聞こえる者を欲しがっていて、しかし学長はイリーナのことを渡す気はないらしく、意図的に隠しているらしい、と分かった。
自分の嘘がばれたわけではないようだ、とイリーナはほっとした。
「ではその噂の話をしよう」
男が言う。
「――今日、街で聞いた話では、精霊の声が聞こえる娘が帰ってきた、と。その者はどこにいる?」
学長は眉をひそめる。
無言。
「知らぬ存ぜぬという言い訳はもはや通じぬぞ。その娘は、確かにこの学舎にいるという話。――どこにいる?」
精霊たちが激しく舞った。
しばしの間、睨み合いになった。
噂の主であるイリーナも、はらはらとしながらその様子を見守る。
――やがて、学長がふうっとため息をついた。
「おりません。精霊の声が聞こえる者など」
がたっと、男たちが椅子から立ち上がりかける。
学長はそれを手で制した。
「確かにその噂の娘というのは私の教え子に間違いないでしょう。……しかし、あの子は精霊の声を聞くことはできませぬ」
「どういうことだ」
「よくあることではないですか。親に捨てられた子どもが、精霊の声が聞こえると嘘をついて魔法使いに教えを乞うのは。私の教え子も、そうです」
イリーナははっと息を飲んだ。
ぎりぎりと胸が締め付けられる感覚。
痛い。
「――リナ!」
遠くでルークの声が聞こえた。
するといきなり、ぐわっと意識が身体に引き戻された。
ルークの険しい顔。
「リナ、何があった? お主、自分で自分の胸元を締め付けていたぞ」
言われてみると手が痛い。
よほど力を入れて握っていたらしく、服もしわしわになっていた。
「ルーク。私、……学長が」
イリーナは混乱しつつ言う。
ルークは少しぎょっとした顔をして、慌てたようにわたわたと両手を振る。
「泣くな。何を言っているのかさっぱり分からぬ。……くそう、われは泣いている子どもは苦手だというのに」
子どもはどっちよ、とイリーナは場違いなことを思う。
少年の姿のルークはイリーナよりも年下に見えるし、そうでないにしても、ルークの本体はたまごで、まだ生まれていないのだ。
「……学長に、私が精霊の声を聞けないってことがばれてたの」
言った。
ルークは真面目な顔になってイリーナを見つめる。
イリーナは学長の部屋で聞いたことをルークに話した。
よく考えてみれば、学長が今までイリーナに魔法を教えなかったのは、イリーナがいつ学舎を追い出されても一人で生活できるようにとの配慮だったことが分かる。
言葉遣い、礼儀作法、歴史、行商の仕方、魔道具の目利きなど。
たとえ魔法が充分に使いこなせなくとも、少なくとも商人としてはどんな場所でも生きていけるように。――その最低限の知識。
「最初から、知っていたんだわ」
学舎を追い出されるかしら、とイリーナはぼんやり呟く。
ルークはぽんとイリーナの頭に手を置いて、首を振る。
「……いや、今まで追い出されなかったのだから、これからもあの者はお主を追い出したりはしないだろう」
それに、とルークは言う。
「――それに、まさか忘れているわけではあるまい? お主は今精霊どもを見ているではないか」
はたとイリーナも気付いた。
「そう言われればそうね」
部屋を舞っている、風の精霊たち。
他の精霊は見えないとはいえ――風の精霊だけしか見えないにしても、精霊が見え、その声が聞こえることには違いない。
イリーナは思わずルークをぎゅっと抱き寄せる。
「そうか、……そうね。ありがとう」
抱きしめられてまたぎょっとしたように身を固くしたルークだったが、イリーナのその言葉を聞くと、まじまじとイリーナのその顔を見上げてきた。
それから、咳払い。
「――いや、それよりも」
ルークはゆっくりとイリーナの腕を引き離して言う。
「気になるのはお主が見たローブの者どものことだ。――精霊の声が聞こえる者を欲しているようだ、と言っていたな?」
「ええ」
「そやつら、暗き魔法使いやもしれぬ」
「暗き魔法使い?」
イリーナは眉をひそめる。
魔法の研究には禁忌が存在する。
――精霊を殺すこと、死に至らしめる魔法を人の身に用いること。
その禁忌を侵す者たちを、「暗き魔法使い」と呼ぶ。
戦争が起きると魔法によって人や精霊が死ぬことはままあるが、その魔法ですら、「本来は対魔物用の魔法である」という注意書が付くのだ。
しかし、暗き魔法使いの研究には、そんな注意書すら存在しない。
「そやつらがお主を欲しがっているとすると、早々と諦めるとは思えないゆえ――」
ルークが言いかけたとき。
ドォオンッ!
……部屋が揺れ、凄まじい爆発音が聞こえた。
「な、何?」
イリーナが思わず辺りを見回すと、こっちだ、と先ほどの精霊たち――あまり見分けはつかないが、多分、そうだ――が手招きをする。
学長の部屋だと想像がついた。
イリーナは駆け出す。
「リナ! われを置いていくでない!」
ルークも追いかけてきて、自分の本体をイリーナの服のポケットに入れる。
――そうだ。手放すなと言われていたのだった。
イリーナは頷いて、下へ向かう。
やけに静か。
なぜだかこの学舎でイリーナと一緒に魔法を学んでいる仲間たちとは鉢合わせない。
おかしいと首を傾げつつ、学長の部屋へ。
先ほどの爆発のせいであろう、扉が吹き飛ばされ部屋の中が見えた。
――学長が床に倒れている。
そして、ローブの男が学長のほうへ手を向けて――その手の先に魔方陣が展開しているのが見えた――呪文を唱えている。
止めを刺すつもりだと分かった。
さあっと血の気が引いた。
助けなければ、と思い、イリーナは駆けつつ呪文を唱える。
……頭の中が真っ白で、上手く魔法が発動しない。
ルークが怒鳴る。
「馬鹿者! 精霊どもは見えていよう? こやつらは聾ではないぞっ。見えているなら、目を見て、素直に頼むが良い!」
イリーナはポケットの中のルークに目を落として、それから、顔を上げた。
周りを飛び交っている精霊たちを見た。
彼らも、この学舎には長く棲んでいるらしい。
倒れている学長の様子に顔をしかめていて、その教え子であるイリーナを食い入るように――何か期待するように、見つめていた。
「……た」
イリーナは――。
「助けて――っ!」
精霊たちに向かって叫んだ。
ゴォッ!
風が巻いた。
イリーナが発動させようと思っていた魔法よりもずっと強力な魔法。
止めを刺さんとしていたローブの男の魔法を打ち消し、学長を守るように風の壁を作った。
ローブの男たちは体勢を崩して転び、手をついた。
それでも風は止まず、ごろごろと部屋の隅へと押しやられ、身体をぶつける痛そうな鈍い音がした。
イリーナ学長とローブの男たちとの間に立ちはだかった。
――風が衰え、男たちも立ち上がる。
「そなた、夕食は摂らなかったのだな?」
背後から学長の声。
どうやら大事には至らなかったらしい。
何を言っているのかと思いつつ、はい、と答える。
「食事に眠り薬を混ぜておいたのだが……」
学長は、嘆息。
なるほど道理で他の者たちが駆けつけて来ないわけだ。皆、この騒ぎを知らずに眠っているらしい。
学長はこの男たちと争いになることを覚悟していたようだ。
「……精霊の声が聞こえるというのが嘘だと分かっていたなら、素直にこの者たちに私の身を引き渡せばよろしかったですのに」
イリーナはローブの男たちに目を向けたまま言う。
はっと学長が息を飲んだ。
ローブの男たちもその言葉に、イリーナこそが件の人物だと察したらしい。
「お前が、精霊の声が聞こえるという娘か」
壁に身をぶつけた痛みなど感じていないかのように、淡々と尋ねてきた。
「その通りです」
この五年間で習った言葉遣いで、物腰柔らかに、にっこりとイリーナはそう答えた。
「どうやらわれわれの会話を知っている様子だが?」
やや冷ややかな声。
「申し訳ありません。精霊たちがそう言っていたもので」
戯れに言ってみる。
ほう、とローブの男は興味深そうにイリーナに顔を向ける。
真正面から見ているというのに、やはりフードの中の表情は分からない。
「そこに転がっている老害いわく、お前には精霊の声が聞こえないという話だったが」
「では分かっておいでのはず。私がとんでもない大法螺吹きだということを?」
どちらともとれる言い方でイリーナは言った。
ローブの男はしばし黙り込み、「……なるほど」と返事をした。
「噂になるのも無理はない、か。――あるいは本物だとしても。われわれとしても問題はない」
どちらでもいい、と男は語っていた。
精霊の声が聞こえようが聞こえまいが、どちらにせよ、連れ帰るつもりだと。
厄介な、とイリーナは内心舌打ちをする。
「暗いお方々」
イリーナは言う。
ローブの肩がぴくりと上がる。
図星のようだ。
ルークの言う通り、この者たちの正体は暗き魔法使いであるらしい。
すうっと息を吸って。
「――言っておくけど、私、思いっきり抵抗してやるわよ。まして私の尊敬する師を傷付け、老害呼ばわりしたからには。覚悟するがいいわ」
上品さをかなぐり捨てて、言ってやった。
「っは」
嘲笑。
「ははははっ!」
ローブの男は身体を仰け反らせて笑う。
「試してみるがいい、汚れなき魔女よ! われら血に飢えた化け物にその力が通じるのかどうかを」
汚れなき?
イリーナは眉をひそめる。
「私だって実戦経験くらいあるわよ。魔物の――命を奪ったことくらい」
しかし、イリーナの言葉に学長が言う。
「違う。その者たちは――」
――キンッ。
学長の言葉を遮って魔法が飛んできた。
イリーナの足元に鋭い氷片が刺さる。
「余所見はしないほうがいい」
ローブの男は言った。
……わざと外されたらしい。
男の余裕さにイリーナは少しむっとする。
それから、二度目の詠唱。
イリーナも素早く呪文を唱え、攻撃に備える。
――しかし、ローブの二人は魔法を完成させないうちに、おかしな動きを見せた。
呪文を、放棄。
突進。
一瞬のうちに詰め寄られた。
イリーナは慌てて魔法を繰り出す。
風の壁。
これも、精霊たちの力が添乗されて強大な魔法となった。
凄まじい風に、ローブの男たちの顔を隠しているフードが、……取れた。
中身があらわになる。
イリーナは息を呑んだ。
その「中身」は、人の顔ではなかった。
「あなたたち、魔物と――!」
イリーナが叫ぶ。
獣の顔。
しかし髪は普通の人のものと同じ。
額から耳へ、耳から顎へと、かすかな縫い痕が見えた。
――魔物と人との、合成。
ばっとローブの二人が離れる。
男の傍ら、先ほどからずっと無言だったもう一人は、どうやら女のようだった。
そちらは男のように化け物じみてはいないが――しかし違和感がある。
瞳の中の黒目が、猫の目のように細く絞まっていた。
――不死の研究の一つに、魔物との合成がある。
魔物の長とも言われるドラゴンほどではないにせよ、ほとんどの魔物は人よりも長寿である。
その力を取り入れられはしないか、というのが魔物との合成だ。
しかし人と魔物の合成など聞いた事がない。
禁忌であることもあるのだが……そもそも成功例がないのだ。普通の方法で合成したのではないことは確かなはずで――。
――一体この合成を成功させるためにどれほどの者が犠牲になったのだろう?
汚れなき、と男がイリーナに言ったのを思い出す。
化け物、と男自身を指して言ったのも。
身震い。
イリーナはその意味を理解した。
「左様。われわれは魔物の力を扱える」
男が言う。
「ただし、われわれはおおむね失敗作だ。魔物の力を手に入れようと、寿命は人のそれとほとんど変わりがない」
充分ではないか、とイリーナは思う。
今しがた二人が見せた人離れした身体能力に、イリーナは恐怖を覚える。
「……まだ試していない組み合わせも多々あるが、どうやら魔物と人との合成では、不死を手に入れることは叶わぬらしい」
男は。
「――だから」
イリーナの顔を真っ直ぐに見て――。
「今度は精霊と人との合成を試したい」
……うっとりと囁くように、そう言った。
イリーナは思わず一歩後ずさる。
獣の顔で、男がにたりと笑った気がした。
跳躍。
あっと思ったときにはすでに手遅れで、呪文を唱える間もなく、がっしりと肩を掴まれていた。
長い爪が肩に食い込む。
イリーナは短い悲鳴を上げる。
痛い。
猫目の女はいつの間にかフードを被り直していて、すたすたとこちらに近付いてきていた。
「一緒に来てもらうぞ」
男がイリーナの耳に囁く。
恐怖。
頭の中が空っぽになっていてとても魔法を出す余裕のないイリーナは、ともかく獣の男から逃れようともがく。
しかし男はイリーナの肩を放そうとはせず、呪文を唱え、イリーナを眠らせにかかる。
――ばしっ。
大きな炎が男を襲った。
「私の教え子に手出しすることは許しませぬぞ!」
学長が半身を起こして叫んだ。
「死に損ないが――」
男はイリーナを脇へ突飛ばし、学長に向かって魔法を撃つ。
学長のほうは、男の攻撃を予想していたらしく素早く魔法で防ぐ。
――しかし防ぎきれない。
いくつかの氷の刃が身をかすっていった。
呻く。
イリーナはといえば、解放されたのも束の間、はっと気が付けばフードを被った猫目の女が見下ろしていて、またすぐに腕を掴まれている。
男は呻く学長をそのままに、二人のほうへ歩み寄る。
呪文。
転送の魔法だった。
本気で、まずい、と思った。
イリーナはとっさに――今度はやや冷静に呪文を唱える余裕があった――男に向かって魔法を撃つ。
しかし、それもあっさりと防がれる。
男がイリーナに対して余裕でいられるのも当然だった。
転送の魔法は本来複数人で陣を組み上げる魔法なのだが、このローブの男はそれを一人でやってのけ、あまつさえイリーナの攻撃への対処も楽々とこなしているのだ。
おそらくそれは、魔物の身体に手を出して得た魔力なのだろうが、易々と使いこなしているところを見ると、男は元から才能のある魔法使いだったらしい。
差は歴然。……歴然としすぎていた。
一対一であろうとも。
イリーナの敵うような相手ではなかった。
――魔法が完成した。
引っ張られる。
身体を引き延ばされるような感覚。
目眩。意識が飛びかけた。
ふと。
「――素直に頼め、と言ったであろう。お主にはドラゴンであるわれがついているというのに」
ルークの声がした。
ばちっ、と空気が割れる音。
猫目の女は鞭打たれたかのように、イリーナから手を離した。
ローブの者から解放された途端、ぐいっと後ろに引っ張られる。
男がイリーナを捕まえようと手を伸ばしてきたが、届かず、空を切った。
ヴゥゥン……ッ。
耳障りな音。
――獣顔の男と猫目の女の姿が、揺らぐ空間に飲まれ、掻き消えた。
男の悔しそうな顔を、イリーナは見た気がする。
転送。
しん、と部屋の中が静まり返った。
しばらくぼうっとしてから、はっと気が付き、学長は無事なのだろうかとイリーナは振り返る。
精霊たちが取り囲んでいて、癒しの魔法をかけているらしいことが見て分かった。
床に突っ伏したまま動かないが――。
「大事はない。少々、眠りの魔法をかけておいただけだ」
ルークがそう言った。
……言われてみればかすかに、穏やかな寝息が聞こえる。
良かった、とイリーナはほっとする。
ぐるり。
世界が回る。
――いや、自分の身が傾いだのだとイリーナは気付く。
転送の魔法に巻き込まれたり、それを無理矢理引き戻されたりしたのだからまあ無理もない。
ばったりと床に倒れた。
その頭に、ぽんと手を置かれる。
「まったく……、不様である」
ずけずけとルークに言われてしまった。
何よ、とイリーナは言い返したいが、舌もろくに回らなかった。
――しかし、ルークのその響きは優しくて、嫌味な感じはしなかったので、まあいいかとイリーナは口を閉ざして笑みを浮かべる。
ルークは言っている。
「……まあ、魔女のたまごでしかないお主が暗き魔法使い相手に勇敢に立ち向かった、というのは評価に値しよう」
意識が朦朧としているせいなのか、頭に置かれているルークの手がやけに大きく感じられる。
「われが手出ししたせいで、お主はあやつらに目を付けられたやもしれぬ」
しかしその責任は取るつもりだ、とルークは言う。
「今は、眠れ。――われがお主を守ろう」
イリーナは、かすかに頭を動かして、頷いた。
目を閉じる。
――暗転。