私にとっての奏2
時が経つにつれ、奏の痛みは頻繁に襲うようになり、痛みの強さも外を歩くのが困難なほど酷くなっていった。最初の頃こそ、両親は病気を心配していたが、何度病院に行っても悪いところが見当たらないため、相手にする事が鬱陶しく思えてきたみたいだ。やがて「いい加減に痛がるのをやめなさい」と言うようになった。彼等は気の病だと信じているらしい。普段は朝早くから家にいない事が多くて幸いだった。しかし、両親がたまたまいる場合、具合の悪い奏をベッドからよく追い出していた。清く正しい奏を疑うのかと、私は心の中で反発した。医者も親も無能だ。
やがて奏は満足に登校できなくなった。私は彼女といられる時間を増やすために、部活をしばらく休み、アルバイトを辞めた。こうして、二人で一緒にいられる時間を増やしたのに、それでも足りない。奏に孤独な時間を過ごして欲しくなかった。親も普段は仕事のため不在で、いても奏の力にならない。私が学校で授業を受けている間、奏は独りきり、何もできずにいるのだろうか。瞼の裏で、いつも奏が痛みに悶絶していた。痛みを少しでも私に分けて、苦しみを和らげたいと何度考えたことだろうか。
ある夜中、私は奏の部屋を訪れた。
「お姉ちゃん――」
ベッドで横になっている彼女が、小さな声で私を呼んだ。ベージュの毛布がかかっており、肩から水色のチェック柄のパジャマが覗いていた。数年間も続く痛みで、疲れが顔から滲み出ていた。元気で生意気だった頃の面影が見られなかった。
「私……このまま死んじゃうのかな?」
「そんなわけない。お医者さんは異常なしって言ってるから」
「でも信用できないよ」
私は答えられなかった。大丈夫と言ってもそれは保障できない。根拠がない言葉を投げかけても意味があるのだろうか。
「私はいつでも奏と一緒だから」
ベッドからはみ出ている、奏の右手を優しく握ろうとした。だが、物に触ると奏が痛がる事を思い出し、差し出した手を止めた。
「お姉ちゃん、寂しいよ」
奏は静かに呟いた。
「ごめん、どうしても学校をずっとは休めない」
これまでも何度か奏に寂しいと言われて、休みをとった事があった。しかし、親が私にも「学校に行きなさい」とうるさく言って、どうにもならない。
「私だって分かってるわ。でも、この不安が収まらないの。お願い。もっとお姉ちゃんと一緒にいたい」
病気にかかって、ここまで切実そうに訴える彼女は初めて見た。私だって気持ちは一緒だ。だけど、学校生活もおろそかにできない。どう答えればいいのか迷っている間、奏は再び口を開いた。
「今日は調子が良いみたいだし、一緒にお風呂入ろう」
彼女の欲求が私のそれと重なり合っていた。私は首を縦に動かし、浴室にお湯を張り始めた。
***
幼少の頃はよく一緒にお風呂に入っていたが、最近はあまり入る事がなかった。「お姉ちゃんと一緒は恥ずかしいから」と奏は拒否していた。なので、この日のように一緒に入る事は珍しかった。
「奏、痛くない?」
奏の肌がまるで真珠のように白く、浴室の灯りで輝いていた。相当な刺激を与えないよう、私は奏の背中を柔らかいスポンジで撫でていった。
「大丈夫。今は痛みが収まってるから」
身じろぎ一つもせず奏は答えた。「もっと強くてもいいから」と彼女が続けたので、私はそれに応じた。一段と増した圧力で背中を擦ると、スポンジからふっと泡が舞った。
お互いの身体を洗い終え、一緒に浴槽へと入り込んだ。女子高生二人が入るにはやや狭く、身体が沈むと同時に大量のお湯が溢れ出た。あまり奏に刺激を与えないよう、お湯は少しぬるめにしてあった。私達はお互いに、身体を密着させながら湯船に浸かった。
外気から遮断され、僅かな呼吸も反響するこの四角い空間。この時、奏は私の胸を枕にして、身体を抱きしめていた。奏の滑らかな皮膚の下に、柔らかな筋肉があって、それに包まれた骨が存在感を主張していた。絡まった身体を僅かに動かしながら、奏の骨格を確かめた。奏はどんな形をしているのか、どんな気持ちなのかを全身で感じようとした。
湯船に入る時、奏が身体を強張らせているのがよく伝わった。それもしばらく経ち、彼女は全身を弛緩させ、温かい湯を愉しんでいた。今なら、一歩踏み込んで愛せるだろうかと、私は次の行動を考えた。ちょっとくらいなら平気だろう。もっと深く愛したくても愛せないジレンマを破ってみたい。
視線の先には奏の首筋があった。細い、なだらかな線が小さな頭へと走っていた。綺麗な首筋に引き寄せられるかのように、私の唇が触れていった。耳元で「あっ」と小さな声が上がるが、それに構わず口づけを止めなかった。数秒ほど、奏の筋肉が強張ったが、徐々に和らいでいくのが伝わった。
この子には私と同じ血も流れている。彼女の頸動脈がそれを彼女の頭へと送り込んでいるのが唇で感じられた。そう思うと奏への想いが一層深まり、口づけが止まらなくなってしまった。滑らかな肌の感触、そして弾力を唇と舌で吟味した。
「お、お姉ちゃん」
ぎこちない声で奏が呼びかけた。再び、奏の首筋が緊張し、私の唇から離れた。
「何してるの?」
見上げると、彼女は困惑した表情で私を見つめていた。本心をはっきりと言うべきか、それとも誤魔化すべきか。
「ちょっとお風呂が狭かったし、奏の肌がとても綺麗だからつい……」
「だっ……だったらなんでキスをするの?」
顔を赤らめながら、奏は聞いてきた。私はしばらく悩んだ末、彼女の顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「奏を愛している。だから私はキスしている」
私が率直な気持ちを伝えると、彼女は辛そうな表情で視線を下に向けた後、こう言った。
「ありがとうお姉ちゃん。嬉しいけど、これ以上はダメ。後戻りできないような気がするの」
暖かい筈のお湯が急にひんやりと感じられた。予想していたとはいえ、実際に告げられた時の衝撃は大きかった。
「……れしいけど」
水音に呑み込まれるくらい幽かな声で、彼女は喋り始めた。そして、水面のように不安定に揺れる声でこう続けた。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんのままでいて」
冗談じゃない。私は今すぐにでも奏と両想いになりたいんだ。そんな気持ちが先走りしていた。
いっその事、殺してしまおうか。目の前にある首を歯で食い破ろうか。浴槽が、奏の血で真っ赤に染まる光景が脳裏を過ぎった。「やめて、やめて」と彼女が懇願しながらも、私は彼女の生き血を啜る。息絶える寸前に、彼女の唇にさよならのキスを捧げる。そして私は動かなくなった奏をたくさん愛していく。それから、剃刀を手にして、自分の頸動脈を切断。私の血を浴槽に零しながら、彼女の口にも流し込む。失われた分を少しでも返すつもりだ。そして、私は奏と混じり合いながら、世間から断たれた浴室で果てるのだ。
「お姉ちゃん……」
不可思議な表情で奏は私を見つめた。今の私が何を考えているのか、知らないだろう。
私は奏の細長い首にかぶりつこうとした。しかし、それができない。奏の顔を改めて見ると、どういう訳か殺意が醒めてしまう。恐怖と苦しみで歪められた妹の表情を見たくない。殺すなんてとても無理だ。私は何も言えずに湯船から立ち上がった。