最初で最後の君
初めて会ったとき、彼女は泣いていた。
「年を取ると、涙脆くていけないねぇ」
そう吐き出す彼女は、まだまだ若いように見える。おそらく二十代であろうが、彼女はもう年だと言い張る。
「すぐに涙が出るよ、昔はこの位じゃ泣かなかった」
――この位?
「感情の波かなぁ? 揺れるのだよ、心がね」
昔とはいつのことだろうか、十代の頃か? それにしたって、昔にしては浅すぎるだろう。
そう、月のない夜だった。ただ雲に覆われて、暗いだけで何もない空を仰いでいるのである。
「全くもう……理由も分からないのに、涙が出るよ」
彼女は泣いていた。本人の言うとおり、訳も分からず。
嗚咽を上げるわけでもない、しゃくりを上げるわけでもない。ただ涙が流れているのだ。
「涙はどうして流れるんだろうねぇ……」
彼女は泣いていた。
長い睫毛いっぱいに涙をためて。それは重力に負け流れ、そして落ちる。
漆黒の長い髪、猫のような大きな瞳。紅を引いたように赤く、柔らかそうな唇。
背は決して高い方ではないが、女性らしい体のラインは服の上からでもはっきり分かる。それでいて胸の大きく開けたシャツを着ている。タイトなスカートからは、品よく組まれた足がのぞいている。妖艶さが醸し出るかのようだ。
ここは路上、彼女は縁石の上に座っているのだ。傍らにあった民家の塀に背をあずけて。
車は久しく通っていない。今は真夜中である。
「いつからだろう……こんな風になったのは」
――いつから?
「いつからだろうねぇ?」
軽くあしらわれる。彼女は自分のことを話すのに話さない。語るのに語らない。
そしてそれは真実か否かもつかめない、不確かなものだということ。そう気づいたのは付き合いが長くなってから。彼女はそれを気取らせないような自然な物言いで、自然な態度をとるのだ。
嘘が本当に見えるし、本当が嘘に見える。
彼女はそれ以上語らなかった。
一緒に涙を流しながら、いつの間にか先に眠りについていた。彼女の腕の中で。
「ねぇ、君。聞いておくれ? 死とは? そう聞かれたよ。私はうやむやにして答えなかったけれど……」
家に帰ってくるなり、酒を呷り語りだした。芋焼酎を、帆立をつまみにして。どこから盗ってきたのか、 松の枝を持っていた。それを見ながら一人酒。
彼女は木造の平屋に住んでいる。それはもしかしたら庭にあったものかもしれない。
「死など、人によって考えなど違うだろうに。私の考えなど聞いてどうしたいというんだ」
結った髪をほどき、無造作に掻き上げる。
白いシャツに黒いデニムのパンツ姿。シャツのボタンは全て開いており、だらしのない格好である。コートは帰ってくるなり投げ捨てている。
外は雪が降っていて、傘を差さなかったのか、彼女の髪は湿っていた。
「皆、最後は死。そうだろう? 何を疑問に思うのだ。死ぬために生きるというのに。大事なのは今。今のうちから死んだ後まで考えようなんて、贅沢な悩みだよ」
彼女は珍しく饒舌だった。自らつらつらと語る人間ではないのに。和室の炬燵に潜り込み、だらだらとしている、それが彼女の日常の姿だった。
嫌な事でもあっただろうか。しかし表情にはいつも通りの笑顔、理由など書いてあるはずもなかった。
それにしても死ぬなんて。ただ怖いだけじゃないか。何があるというのだ。
「君がそんなに気に病むな。これは君の背負うことではない。まぁ、いつか君も死ぬがなぁ?」
考えを見透かされた。
彼女にはいつも考えがばれてしまう。肝心なことになるほどに。
「死、かぁ。彼奴は私の答えを聞いたらどうするのだろうか、のぅ?」
目を細め、宙の一点を見つめている。その眼には一体何が見えているのだろうか。
「どうもしないか? まぁ、話すこともないだろうがな」
瓶ごと酒を呷る。今日もたくさん飲むのだろう、きっと。それにしても、いつもよりもペースが速すぎる。
――飲みすぎないでね。
彼女は笑うだけで応えない。いつもそうである。
心配しているのに、酒に関しては絶対に聞かない。心配が当たったこともないのだが。
「死は皆の終着場所。最後、最期。そのために生きる。如何に楽しむか……むぅ、これでは生になってしまうか? いや、結局は同じことか、生きるも死ぬも。死ぬために生きているのだから。そう全てはその時のために」
――同じ?
「いかにも。楽しめばよいのさぁ。何もかも、ねぇ? 酸いも甘いも。別に辛くたって苦くたっていいが。心持次第じゃないかい?」
笑っている。酒の瓶を片手に胡坐をかいて。
「楽に生きようではないか、そして楽しく。辛いも苦いも楽しめばよい」
彼女は口癖のように『楽』という言葉を用いる。
「まずは今を――」
瓶を天に翳し、残りを一気に干す。
「ふっ、こんなに語るとは。らしくないねぇ」
彼女は笑っていた。
「愛って、なんなんだろうねぇ。私に近寄る男なんて、皆、体ばっかりだよ」
彼女は溜息とともに言った。しかしその唇は笑みを浮かべている。
「そして束の間の、偽りの癒しを求める」
桜の花びらが舞い散る草原で、昼間から一人で飲んでいる。
青く澄んだ空、薄くところどころに広がる雲を背景に、太陽の光で満開少し手前の桜は輝いていた。
「その中にはない、愛の欠片。見つからないと分かっていながら、探してしまうのだろうよ」
缶ビールを何本もあけ、イカをつまみにしている。ほんのり赤い頬が酔いの初めを表している……いや、寒さのせいかもしれない。彼女は赤いパーカーに白いショートパンツだった。それにこれくらいで酔うはずもない。
今は春だというのに、今日は特別寒かった。桜まで凍えそうである。
「男だからねぇ。仕方ないのかなぁ?」
自分で言ったくせに、溜息をつく。言っては溜息をもう何度も繰り返していた。
「そういうもんだろうね。何も求めない愛もないだろうさぁ」
――何を求めているの?
「何を、か……愛だよ」
一人で勝手に失笑している。
「可愛がること、愛でること。大切にすること。一緒にいること、寄り添うこと……」
今度は勝手に語りだした。
「体……も、愛なのかねぇ?」
そんなことを聞かれても困る。
「真であり、偽。是であり、非。だろうかねぇ」
下向き加減の顔から表情が消える。その瞳だけが妖しげに光って見える。
――君は愛されているじゃないか、たくさんの人に。
「……ふん。そうだね。確かに愛されている」
軽くあしらわれた気がした。
「分かっているよ? たくさんの愛を受けていることを。それと同じように、私も愛を返しているつもりさぁ。でもそれも……」
――それも?
「君にはまだ分からないね」
またもやあしらわれた。
「自分って大切にしないといけないらしいねぇ」
――それはそうでしょう? 違うの?
菖蒲が咲き乱れる公園で、薄暗い中飲んでいる。
ワインを何本も開け、チーズをつまみにしている。彼女の傍らには瓶が転がされている。最後の一本が彼女の手中にある。
長袖長ズボンのジャージ姿である。
「私は自己犠牲するやつ、見てきたからね? はっきりとは答えられないさぁ」
――犠牲?
「そうだよ? あの人のために。そう、愛のために……ってさぁ。まぁ、良い子に見えるんじゃない? 見る人が見れば」
結ってない長い髪が、表情を隠す。彼女は嫌悪感丸出しである。
「そうじゃない人間もいるけどな。はっ」
小馬鹿にしたように笑い飛ばす。
「自分の意志を大切にするって意味では、大切にしているのだろうが」
――嫌いなんだね?
「嫌いとは言わないさ、人それぞれだから。私は何に対しても、好きとも嫌いとも、言うつもりはないよ?」
――何に対しても?
「あぁ、そうさ。特に人に関しては、何の感情も抱かないし抱けない。好きであり、嫌いである。そういうふりをするだけ」
彼女の言葉の真意が見えない。
「何もないのも面倒だ、何かあるのも面倒だ。だからそういう風にする、なんて寂しい人生だろう」
言っていることと表情が合わない。満面の笑みで寂しいと毒づく。彼女は自分の生き方を楽しんでいるのに、寂しいと言う。
――本当にそう思う?
「何がだい? 面倒? 寂しい?」
――寂しい。
「ふふふ。寂しいさぁ? そりゃもう、人一倍に」
――そうなの?
「あぁ」
含み笑いで酒を呷る。
「寂しさは、誰でも一緒だろう? 甘えたいとか、癒されたいとか。当たり前だろう。私もその枠から外さないでおくれよ」
――楽しいのに?
妖艶な笑みを湛えるその横顔は、一瞬だけ硬直する。
「まぁね、私は疲れたから。全てに……何もかも楽しまないとやっていられないんだよ。そういうことにしておいて」
――僕がいるのに、寂しい?
「おや、噛みつくのはそこかい。大丈夫、私は君を愛しているよ? 最初で最後、かもしれない……」
――どうせ言うのなら、そこは言い切ってほしい。
「分からないよ。私は気まぐれだからねぇ。ははははっ」
顔も瞳も笑っていないのに、言葉だけでそれを表そうとする。それが分かるまで時間がかかった。
付き合いの短いものが声だけを聴いたらのなら、きっと笑っていると間違えるだろう。顔を見なければ。
しかし彼女が本気になると、笑顔まで作る。そうなったらもう分からない。何が真実か、何が嘘か。
「もう朝日が昇るな。さぁ、帰ろうか?」
――うん。
彼女の腕の中で考える。
彼女は自分のことを大切にしているのだろうか、と。
「私はねぇ、この世で一番、自分が嫌いなんだ」
彼女は呟いた。月夜に一人、酒を呷っていた。庭が望める縁側で壁に背をあずけている。庭では楓が風で揺れていた。
だらしなく着崩した着物は、彼女の白い肌を引き立てる黒。そこには上品な赤い牡丹と金の蝶が描かれている。
「自分のことが好きっていうやつもいるだろう? それはそれでいいだろうが、私は私が嫌いなんだ」
彼女は自分が嫌いらしい。しかし一体……
「何故かって? 何故……だろうね。それが私の性質かな……」
苦笑いを返される。彼女は分かっているのに言わないのだろうか、それとも……
「ご想像にお任せするよ」
考えはお見通しのようだ。
かすかな笑みを残し、彼女はその瞳を閉じた。
「私はねぇ、昔からこんなだった訳じゃない。いつからだろうか……もう思い出したくもないね」
彼女はいつもそう言って話を終えた。
――いつも、そう言う。
「いつも……そうだね。そうかもしれない」
そうなのだ、それから先は聞いたことがない。
「今は気分が良い、少し話してやろうかい?」
今日はいつもよりも酒が入っているようだ。赤らんだ頬、潤んだ瞳。いつもより濃い色香が漂っている。
「そんなに見るんじゃないよ? 恥ずかしいじゃないか」
薄笑いを浮かべるが、その瞳には影がある。彼女の笑みにはいつもどこかに影がある。
「そうさねぇ。君は自分の汚さを、醜さを、邪さを。感じたことがあるかい?」
彼女は盃を呷る。答えも聞かずに彼女は語る。
「汚れているんだよ、私は。心も体も……何もかもが。純粋ではいられなかったのさ、幼い頃から。環境が良くなかったせいもある。それ以上に、私は……心を知りすぎた。分かろうとした、読もうとした。それが過ちだった。知ったことで枷になったのさ。その枷はもう外れることはない。軽くなることさえ、もうないだろうよ。ただ重く、きつく締め付ける。人を知ると、自分も見える。自分の汚さ、脆さ、嫌な部分がね……」
彼女は清酒の入った瓶を持ち上げ、中身がないことが分かると、無造作に投げ捨てた。新しい瓶を手繰り寄せ、盃に注ぐ。投げられた瓶はもう四本になる。未だ残る瓶は十本。一体あとどれだけ飲むのだろう。
「君も飲むかい?」
頭を振って断る。彼女と飲むと調子が狂う。
――自分の嫌な部分だけ? 良い部分は? 好きなところは?
「ふん。長所は短所、短所は長所さ。私の持論だがね、全て、対なのだよ」
――だったら良いところもあるんじゃないの?
彼女は意地悪な顔をして、こちらを見下ろしている。
「そしたら悪い人はいないってことになるねぇ? すべての性質が同じになる」
――そんなつもりじゃ……分からない、です。
「まぁ考え方なんて、人それぞれだから。気にしないことだねぇ。私は人の性質も一緒だと思うよ? 対がいるのさ」
――良い人と悪い人ってこと?
「そうさね。そんなもんだろうさぁ」
――悪い人なの?
「私かい? 自分ではそっちの人間だと思っているよ? 表面上はどちらにもとれるように、上手く振る舞っているつもりだけどねぇ」
彼女は盃の酒を一気に干した。
――真ん中?
「そうさ。表面上は、ね? それが一番楽なのさ。悪いこともいいことも適度にやっておくのが。敵ができることもあるが、仲間ができることもある。中立の地点にいることができる」
彼女はどこか遠いところを見つめている。
「私は人に計られるのは仕方ないと思うよ。そうしないと関係なんて作れないだろう? よく知らない人間と関わるのは大変だ。対象の人間を正確に計るのは大切だろう。だから私は好かれそうなことも、嫌われそうなことも、両方する。正確に計られないように」
溜息をつき、俯き加減になる。月の光を受けて、彼女は輝いて見える。背面からの月光は怪しげな雰囲気を醸し出す。暗い顔は悲しげに見える。しかしその顔には、相手を逆撫でするような笑みがあった。
「嘘も真実も必要なの、さ……そう。約束なんて、守ったふりくらいが丁度いい。守らないとその相手からは拒否されるだろう? だから装うのさ、約束を。約束なんてものはありえない。周りが放っておかないし、本人も気が気でない。そんなものだ」
――約束は守るものでは?
「それは人によって違うだろうさぁ。約束は破るもの。そういうやつもいる」
――そういうもの?
「そういうもの、なのさぁ」
彼女は空になった盃を月にかざす。満月に覆いかぶさり、彼女の顔に影を落とす。
「だから私は隠す術も知らなければいけなかった。そしてそれはいつしか身に付いた。表情を、心を、私というものを。装って、飾って。本当を隠した。隠した本当は嘘になる。現した嘘は本当になる。話されない本当は、嘘は……誰にも見られることもない。知られることもない。あってはいけないもの。そう、そうして心が死んだんだ。そして私は……死んだ」
――死んだの?
「あぁ、死んだのさ」
――生きているじゃ……
「死んでいるの。そう、今もまさに死に向かっている」
言葉を遮るように彼女は語る。面倒になったのか、彼女はもう瓶ごと酒を呷っている。
「私は嫌いよ? こんな自分が。嫌うことですべてを否定して、それでどうにかしようとしている。どうにもならないと分かっているのに……何かに、誰かに救いを求める。こんな自分をさらけ出そうと思ってしまう…………見せることでどうにかなるわけでもないのに、相手に迷惑がかかるだけなのに、それでも誰かに全てを言いたくなる」
彼女は辛そうに酒を呷る。音を立て、少々の零れなど気にせずに飲む。そんな彼女が毀れていると思う。
「そう、嫌いだ」
そのあとは何も語らない、口を堅く閉ざしてしまった。
――僕には話したんだね。
その言葉は彼女を驚かせたようだった。
「そうだねぇ。話してしまったよ。でも気を付けなさい? 君の前にいるときの私しか、知ることはできないんだから。何が真実かなんて、分かったもんじゃないよ」
捨て置くような話し方だった。まるで彼女自身がそう悩んでいるかのような。
ただ僕は信じたかった。僕の前の彼女が真実なのだと。
「行くのかい?」
――うん。
「そうかぁ。仕方がない、こうなるのは分かっていたことだ」
彼女は止めなかった。
黒地に茶色の萩の柄の入った着物を着ている。珍しくきちんと着ている。
「食べていくといい」
彼女がそう言って差し出したのは焼いた小魚だった。
――ありがとう。
ありがたく頂くことにする。彼女も一緒に食べている。今日のつまみなのだろう。しかし傍に酒は見当たらない。
「君ももうそんな年かぁ、長いようで短かったね」
彼女はそう言うが、こっちはあまり年月というものを感じない。彼女があまりにも変わらないから。過ぎ行く季節でしか、それを感じることができなかった。
数えるほどの季節しか過ぎ去っていない。丁度片手で足りる、一年と少しというところ。
「全うするのだよ? それだけは守りなさい? まぁ、約束はしないよ。違えられるのは嫌だからねぇ」
薄笑いを悲しく浮かべ、優しく撫でながら言う。
この手とももう別れの時だ。
――長かったようで、短かった。
「あぁ。そうだな」
彼女は少し陰のある瞳で見つめてくる。去り難い雰囲気だ。
――寂しい?
「私がかい? どうだろうねぇ? この付き合いも暇つぶしかな?」
――素直じゃないね。
「ほぅ? 君が言うかね?」
――――素直じゃ、ないね。
「おやおや、泣くのか? 困ったものだ」
彼女は僕を抱き上げて、更に優しく撫でてくれる。
――寂しい、悲しい。ごめんなさい。
「何が寂しい? 悲しい? 何故謝る?」
彼女は優しくあやしてくれる。
――離れるのが、置いて行くから、一人にしてしまうから。
「君が謝ることではない。私の気まぐれで君を拾ってきたのだから。私につきあわせて悪かった」
――謝ることもあるんだね。
「おや、これは一本取られたか」
彼女の瞳に涙はなかった。あるのは全ての感情を隠す、彼女お得意の微笑み。本当に悲しくないのか、我慢しているのか。何もかもが隠されている。
――そろそろ行くね。
「あぁ。さよならだ」
――さよなら。
彼女は最後までこっちを見ていてくれた。それが彼女の本心だと知っている。きっと今は泣いているのだろう。もうここから彼女の顔は見えない。
――これから彼女はどう生きていくのだろう。代わりを見つけるのだろうか。
最初で最後かもしれない。彼女はそう言った。
――もう会うことはないだろう。
楽しむ。そうだ、楽しめばいい。
――頑張れ。
一人になって一月経った頃だった。
「全く……こんなところで。どうせならもっと遠くに行ってくれたら、良かったのに」
家の縁の下、そこで黒い猫が冷たくなっていた。
一度家の外に出たのを見届けたのだから、知らないうちに戻ってきたのだ。
「どうしようかねぇ? この虚無感、喪失感。いなくなった君を見つけても、見つけられなくても、変わらなかっただろうけど」
猫を抱き上げ、庭先まで運ぶ。
「ここに埋めてやろう。喜べ。きっと君は私の最初で最後になる」
穴を掘り、丁寧に埋めて墓を作る。
「君に最後まで名はなかったなぁ? まぁ、強いて言うならば『キミ』か」
墓の前に腰を据え、大きな溜息をつく。
「こんな思い、もう懲り懲りだよ」
俯き加減で彼女は笑っていた、泣いていた。いや、ただ涙が流れていった。
柔らかそうな唇は紅を引いたように赤い。猫のような大きな瞳、漆黒の長い髪。
長い睫毛いっぱいに涙をためて、それは重力に負け流れ落ちる。
「最後は何を考えていたのだ? 君は……死後の世界ではせめて、真っ当な人間に逢えることを祈るよ」
笑いながら泣いていた。声も出さずに、淡々と。
――やっぱり泣いている。
「君、いきなり話しかけるんじゃないよ。驚くじゃないか」
彼女は泣いていた。今作ったばかりの僕のお墓の前で。
――驚いた?
「あぁ、少しな」
僕はすぐ後ろにいたのに、彼女はこちらを向かなかった。いやきっと向けないのだろう。明らかに動揺しているから。そんな様子を見られたくないのだろう。
「どうしてそこにいるんだ?」
――どうしてだろう。でももうきっと、消えてしまうだろうよ?
「そうか。最後の挨拶は済ませたんじゃなかったのかい?」
――そうだね。これは再会の挨拶かな?
「はっ」
僕の言葉はすごい勢いで弾き返された気がする。それも仕方がない。これはきっと最後の、最後の挨拶だから。
「さっさと逝きなさい。未練たらたら残っているなよ、格好悪い」
酷い言われようだ。しかしなんだか笑ってしまいそうになる。彼女がこんなに感情を露わにすることは珍しい。
肩を震わせ、言葉が乱れている。初めて見る光景だった。最後の最後に、真実の欠片が見えた気がする。
――これからは僕以外に話せる人を見つけて。
「最初で最後。君だけでいい」
嬉しいことを言ってくれる。でもそれでは……
――それでは君が壊れてしまう。
「もう壊れているからいいのさぁ」
吐き出しただけの言葉だった。何も考えていない、口から出てしまった言葉。
――良くない。僕に心配をかけないで。少しは変わる努力をして。
「変わる? 君を拾ったことも、私の中では変な出来事だったよ。そう、気まぐれだ」
ようやく彼女の声が落ち着いてきた。
――ならこの別れも変な出来事にしようよ?
「私に似て頑固になってしまったようだ」
――そうかもしれない。
「きっかけになるかね? きっとそうしろというのだろう? 全く困ったやつだな、君は。飼い主に噛みつくのかい?」
もう普段の調子で話している。きっと大丈夫だ。でも最後に笑顔を見せてほしい、優しく振り向いてほしい。
――飼われていないよ。僕の方が気まぐれでここにいてあげたのさ。
「そうか。君にまで弄ばれているのか、私は」
――君も気まぐれで拾ったのだからお互い様だ。
「そうだねぇ。お互い様だろうよ」
――そうだよ。
彼女は笑っているようだ。頑固で譲らないところはきっと飼い主に似たのだ、仕方がない。だからこっちを向いて、お願いだから。僕はもう……
「努力ね。そうさねぇ、少しなら努力してみようか」
最後に僕は、振り返った彼女の意味深な笑みを見た。
彼女お得意のすべてを隠す笑みではなく、もっと違った……
――ありがとう。
最後にそう言うことができた、僕は幸せだった。
振り向いた彼女の瞳は閉じられていた。
『ありがとう』
そう聞いて驚いた彼女がその瞳を開けた時には、そこにはもう何もなかった。