恋愛1:④
志穂さんが転校してしまう。
父親の急な転勤が決定したそうだ。
今度の行き先は――タイのバンコク。日本中を巡りに巡って、今度はついに外国の支店に転属することになったらしい。
当然ながら、志穂さんも現地の学校に通うことになる。
情報源は担任だ。わざわざ聞きにいったのではない。志穂さんを待ち続ける日が1週間ほど続いたある日、担任の方から屋上までやってきて、ぼんやり空を眺め続けていた僕に教えてくれたのだ。
担任の用意してきたプリントの文字が、未だに脳裏にこびりついて離れない。
『本人からもう聞いてると思うけど、宮谷は夏休みが明けたら転校するからな。夏休みの最終日にサプライズでクラス送別会をやるから、ちゃんと来るんだぞ』
僕が気になったのはクラス送別会の件ではない。それより前の、『本人からもう聞いてる』。
その時思った。本人から聞いてるってどういうことだ。僕は今この瞬間に初めて彼女の転校を知った、と。
その後、タブレットを使って担任に問いただして分かったことは。
彼女は、クラスメートの一人である僕に転校することを伝えるために、毎日この屋上に通っていたということだ。
僕以外の残りのクラスメートは夏休み前から彼女の転校を知っていたそうだ。何やら1学期終了のHRで、全員を前にして転校のことを打ち明けたそうで。つまり彼女が夏休みの初日から僕に会いに来てくれていたのは、クラスメートである僕に転校の件を知らせるという至って事務的な用件があったから。結局それは叶えられず、担任から伝えられることになったけれども。
とにもかくにも、僕が恋したヘッドホン娘は夏休みの終わりに転校してしまう。
夏休み最終日までに彼女に会わなくちゃいけない。まだあの日のことを謝ってない。お弁当箱だって返してない。このまま何もせずに別れていいはずがない。
そう思った。
思っていたのに。
結局、僕は最終日まで彼女に会いに行くことができなかった。
学校の夏期講習に志穂さんは来ているのだ。屋上から階段を数十段降りた先に彼女はいる。講習の合間にお邪魔すれば容易に会えただろう。
それでも僕は待ち続けることしかできない大バカだった。この後に及んで『彼女の方から会いに来てくれるのでは』『そのうちひょっこり顔を出してくれるのでは』などと期待して、呑気に空を眺めつづけていたのだ。
彼女は来なかった。
僕は待ち続けた。
そして時間ばかりが残酷に過ぎていって、気が付けばもう夏休みの最終日。
クラス会は16時から始まったそうだ。僕はそれにも参加していない。
こんな、残りの夏休み全てを費やしてまで彼女の好意を期待していた大バカが、今更どんな顔をして彼女に会えようか。無理に決まっている。
そして現在、クラス会に出る勇気すらなかった僕は、こうして一人都会の雑踏に紛れている。
なるべく学校から離れたかった。志穂さんのいる場所からできるだけ遠い場所に逃げたかった。だから僕は夏休み最終日である今日、朝一で電車に乗って遠くの都会まで足を運んだ。
この後に及んでまだ逃避に走っていることに、僕自信怒りを通り越して呆れていたが、こうして何かから逃げようとしている間だけは心が落ち着いてしまう。意味のある行為をしていると思えてしまう。
未だかつて見たことのなかった都会の街は驚きに溢れていた。人の多さもそうだし、何より建物の多さと高さ。田舎者である僕は来て早々そびえ立つビル群に意識を飲み込まれ、駅のホームの前で一人茫然と立ち尽くしてしまった。
耳が聞こえない僕は一人で遠出をしたことがない。聴力を失うだけで俘虜の事故に巻き込まれる可能性は極端に跳ね上がってしまうからだ。
電車を乗り継いでいくような遠くの土地に赴くときは、大抵両親のどちらか一人について来てもらっている。こうして一人で都会の街まで来たのは初めてのこと。
多分……罪悪感だと思う。逃げ込む場所として敢えて都会を選んだのは、意気地無しを批判する僕自身への逃げ口上でしかないけど。
人ごみの流れに身を預ける。スーツ姿の人々の隙間から見えるビル一面の液晶パネルには、現在の時刻が大きく映し出されている。
――もう、8時なんだ。
クラス会が始まってからもう4時間。6時には終わる予定だったから、志穂さんはとっくに帰ってしまっただろう。22時出発の飛行機らしいから、今頃空港へ向かうバスだろうか。
――……。
不意に、悲しくなった。どうしようもないくらいに叫びたくなった。
――どうして。
どうしてこんなことになってしまったのか。
原因は分かっている、僕に勇気が無かったからだ。待つのではなく、僕から会いに行く勇気が無かったから。だから結局、あんなヒドイ別れ方をしてしまった。
後悔という太い痛みが頭の天辺からつま先まで突き抜けた感じ。全身から悔しさが滲みだしてきて、声を張って泣き出したい気分になる。
うっすら浮かんできた涙の先に、志穂さんの姿がある。ヘッドホンをして、好きな曲を聴いて、あの優しい笑顔を浮かべてくれる志穂さんが。
僕はその姿を追う。消えてしまわないように、未練がましく駆けだそうとした。
――あっ!
ぶつかった。その勢いで尻餅をつく。
僕はいきなり走り出して、そして前を歩いていた通行人に激突したのだ。
その通行人は僕を見下ろしてくる。頭髪を染めて、耳に大きなピアスをはめた柄の悪そうな人。刺々しいジャケットに身を包んだその男が、睨みを利かせながら僕の元に歩いてくる。
――ご、ごめんなさい!
声が出ない。出るハズがない。
何か言ってるようだった。でも僕には聞き取れない。ただその内容は容易に想像できる。
――そ、そうだ! こんな時こそ……!
僕のタブレットの出番だ。あれを見せれば大抵のことは許してくれる。
僕は慌てて鞄を漁る。奥の方に寝ていたタブレットを起動して、男の人に見せようと振り返った所で。
刺青が入った男の右腕が顔面に飛んできた。
僕は軽く吹っ飛んだ。地面を無様に転がって、ガードレールにぶつかって止まる。
殴られた。思いっきりぶんなぐられたのだ。タブレットの表示が間に合わなかった。
血の味が広がる。口の中が切れたのだろう。
痛みと衝撃で頭がクラクラする中、霞む視界の先で僕を殴った男が歩み寄ってくる。
僕は力を振り絞って、転がっていたタブレットに飛びついた。地面に這いつくばったままいつもの画面を起動して、こわもての男に突きだすようにして示した。
『僕は失聴者です。言葉も話せません。アナタとはお話できません』
男は眉をこれでもかと寄せてタブレットの画面を睨む。
僕は続けざまに言葉を表示させた。
『ごめんなさい』
『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください』
祈る様にして突き出されたタブレットを前に、男は――。
次の瞬間、右頬をものすごい衝撃が走り抜ける。
脳天を突き抜けるかのような衝撃だった。僕は頭を思いっきり蹴られたのだ。
――なんで、どうして。これを見せれば誰でも許してくれるのに。
力が入らない、マトモに頭が働かない。
すぐ目の前にタブレットがある。掴む、画面をタップする。
『ごめんなさい』
男が僕の頭を踏みつけてくる。
『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください』
もっと謝るバリエーションを入れておけばよかった、なんて思った。
『ごめんなさい』
男が僕の脇腹を蹴りあげてくる。
――どうして……!
誰でも許してくれるんじゃなかったのか。こんな時、身体障害者は便利じゃなかったのか。
蹴られる、殴られる。サンドバック同然のように扱われる。
その間、僕はひたすら画面をタップし続けた。何度も謝り続けた。
あれからどれくらい殴られただろう、暴力の嵐が過ぎ去った後、男は地面にひれ伏す僕に唾を飛ばしてから消えて行った。
自分の顔がどうなっているのか、鏡を見るのも恐ろしい。動くと全身から悲鳴が上がったけど、いつまでも地面に伏せてるワケにもいかないし。
僕はゆっくり起き上がる。辺りを見渡せば、通行人たちが僕を避ける様にして歩み去っていく。歩く速度には僅かな変化もない。
――ああ、そっか。皆他人だもん。
面倒事には巻き込まれたくないに決まっている。だから、誰も助けに入ってくれなくて当然なんだ。
僕は散乱した荷物を拾い上げる。ガードレールからはみ出した鞄を回収して、その中に地面に転がったケータイと財布を仕舞いこんだ。そして最後に、最後の最後まで握り続けてたタブレットを中に入れた。
――いっつ……。
口元を拭えば血がベットリとついた。脇腹は相当蹴られたから後でアザになるだろう。
――どこか。
ゆっくり休める場所。あの屋上みたいに、一人になって逃げこめる場所は無いか。
僕は再び歩行者の中に身を隠す。都会の街を歩いていく。
――もう、忘れたいのに。
どうしても忘れられない。こんな遠い場所まで来て、あれだけ殴られて、それでも僕はずっと志穂さんのことを考えてしまっている。
――いやだ……。
このまま別れるなんて絶対に嫌だ。もう一度志穂さんと話がしたい。
でも僕にはできない、彼女に会いに行く勇気がない。もう彼女もいない。会うことは二度とできない。
いっそのこと、あの出会った日からやり直したかった。魔法でも何でもいい、それが実現できるならどんな対価だって払ってみせる。
――魔法……!
魔法の力で時間が巻き戻せたらどんなにいいか……! 魔法の力で、志穂さんと過ごしたあの時間をやり直せたら……!
そんなバカげたことをマトモに考えてしまったからだろうか。
不意に、視界が伸びるように急変し。
僕の両目に、世にも奇妙な文字が飛び込んでくる。