恋愛1:③
その日は珍しく、陰鬱な気分になる曇り空だった。
今日は朝からずっと二人で空を眺めていた。いつもとは違う灰色の空でも、僕と彼女は黙って見続けた。
そして現在、時刻はちょうどお昼休み。いつもこの時間帯は数組の生徒が昼食を広げに屋上へとやってくるが、天気が天気なだけあって今日は誰もいない。多くの生徒が屋内で昼食をとっているのだろう。
それでも僕と志穂さんは並んで座って、屋上で一緒に昼食をとっている。
『いつも買ったパン』
昼食のお弁当を突つきながら、志穂さんは片手でタブレットにそう書いてきた。
僕はコンビニで買ってきていたツナパンを齧りながら、慣れた手つきで返筆する。
『はい、料理はあまり得意じゃなくて』
『そういうことじゃない』
志穂さんは一瞬迷ってから、思い切ったように書き連ねる。
『お母さんはお弁当を作っては?』
『両親は共働きで、基本的に不在なので』
『お仕事聞いていい?』
『父親は海外分社に単身赴任。母親は会計士』
『多忙だ』
『志穂さんのお父さんも』
前に聞いた話だと、志穂さんのお父さんは支社の統括マネージャなるポストなのだとか。会社の新店舗の進出の一切を任されているようで、そのため10年以上前から全国の店舗を飛んで回っているらしい。母親のいない志穂さんも父親と全国を回って、これまで何度も転校を繰り返してきたそうだ。
同じ土地に1年以上いたことは……ないらしい。
『お父さん。忙しいってゆーより落ち着きない人』
『志穂さんは、お弁当』
視線を志穂さんの手元に落とす。女の子らしいこじんまりとしたお弁当は、どう見ても手作りだった。
『私が作ってる』
『お父さんの分も。毎朝?』
『うん』
すごいと素直に思った。これで料理もできるとなれば、完璧超人ぶりにさらに磨きがかかる。
『すごいです、料理もできるんですか』
『大したことない』
『すごいです。すごくおいしそうです』
『そう?』
志穂さんはじっと自分のお弁当を見つめる。
何事かと僕が見守ること、数秒ほど。志穂さんはタブレットに何か文字を書き込むと、恐る恐るといった具合に画面を示してきた。
『食べてみる?』
――え……。
震える指先を伸ばして、僕はタブレットに小さく書いた。
『いいの?』
何度も頷く志穂さん。
僕は歓喜で飛び跳ねそうになったが、なんとかその喜びを内側にとどめる。
『いただきます』
改めて志穂さんのお弁当を観察してみる。飾り付け程度にふりかけを塗した白米を主食として、おかずにはふっくら焼けた卵焼きや、おいしそうに照り返している唐揚げなどの定番メニューが採用されている。メインのおかずを引き立てる脇役として、ホウレンソウの胡麻和えやミニトマトなどの野菜類も忘れられていない。
スタンダードなメニューで構成されたお弁当だけに、逆に何だか食べるのが勿体なく感じて、伸ばした手を引っ込めてしまう。それにこれは『あの』志穂さんが作ったお弁当なのだ。躊躇うに決まっている。
僕がどう頂けばいいのか悩んでいると、ふとお弁当の唐揚げが宙に浮いた。
ビックリして視線で追うと、すぐ目の前に志穂さんの顔が現れる。
志穂さんは自分のお箸で唐揚げを持ち上げ、俺の口元へと近づけていた。
これは一体どういうことなのか。
視線を脇に置かれたタブレットに移すと、そこには、
『あ~ん♡』
と大きく書かれていた。
――……。
もう一度視線を志穂さんに戻す。
志穂さんは口を大きく開けて、
あーん。
とジェスチャーをしていた。
――ふむ、なるほどなるほど……
――……って、ええええええええ!?
つまり、彼女は僕に食べさせてくれようとしているのだ。
彼女は唐揚げで僕の唇を突いてくる。まるで早く食べろと言っているようだ。
あり得ない、絶対に無理だ。学園のアイドルのお弁当を僕なんかが味見できるだけでこれ以上ないくらいの僥倖なのに、その上志穂さんの手で食べさせてもらうなんて出来るはずがない。
本当は嬉しくて今すぐ飛びつきたいくらいだったけれど……やっぱり僕にはそんな勇気は無かった。
『ごめんなさい』
タブレットのフレーズ200の中から、登録してあるお馴染みの言葉を表示した。
志穂さんはその文字を見てから僅かに目を見開いて、僕の顔に視線を戻してくる。
――ごめんなさい、でもダメなんです……。
僕は大きなバッテン印を作る。拒絶の意思表示だ。
志穂さんは、僕の口元まで運んでいた唐揚げをゆっくり戻した。僕はそれを見てほっとする。
そうだ、ちょっと勿体なさ過ぎる気もするけど、これでいい。僕には彼女とそのような行為に及べる資格なんて無いんだ。
――ん……?
珍しく無表情の志穂さんが、何かジェスチャーをしてきている。何だ、口を広げて、えっと、舌を……口を広げて舌を見せて?
どういうことだろう、僕の舌に何か問題があるのだろうか。
可愛らしく舌をベーっと出す志穂さんの指示に従って、僕は思いっきり口を開けてみる。
その瞬間。
――むぷっ!?
一瞬の出来事だった。矢のような素早さで彼女の右手が飛んできて、僕の口に何かを入れた。
――むぐっ、むぐっ、これは……
これは……唐揚げ。
思わず噛んでみると、スパイスの効いた肉汁がジュワッと溢れ出す。これが志穂さんの作った唐揚げだ。おいしい。すごくおいしい。
そのまま数度噛んで、名残り惜しくも喉に通した。
――ってああっ!?
結局食べさせてもらっちゃった……。
僕は慌ててタブレットを持ち上げると、先ほどのフレーズを再生する。
『ごめんなさい』
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。許してください』
志穂さんがあからさまに眉を寄せた。
勢いよくタブレットを奪われる。
『どうして謝るの?』
――な、何か怒ってる?
志穂さんは明らかに不機嫌だった。文字もかなり荒ぶってるし……。
『ごめんなさい、何か気に障ったでしょうか』
『何ですぐ謝るの? なるべく謝らない約束』
――でも……。
『クセみたいなモノなんです。僕は聞こえないし喋れないから、小さい頃から面倒事が多くて』
僕は書き続ける。
『こっちが一生懸命謝ると大抵のことは解決するんです。皆なんか引いちゃって。僕みたいな身体障害者が謝り続けると、ヤンキーでも哀れんで見逃してくれるんですよ』
志穂さんは黙って、俯いて、僕の書く文字に見入っている。彼女の今の表情はまったく見えない。
僕はヘラヘラ笑いながらこう書いた。
『こういう時って、身体障害者って便利』
――――バチンッ!
――え……?
右頬に電撃が走った。
何が起きているのか分からなかった。気づけば、ほっぺたにジンジンとした痛みが残っていて。
お弁当だとかタブレットだとか放り出して、志穂さんが校内へ駆けて行ってしまうのが見えた。
――ぼく、志穂さんに……。
頬を張られたのだろう。いわゆるビンタだ。流石に先ほどの発言は自分でもやりすぎたと思う。
だって、僕だって、胸が裂けそうなくらい痛かったんだから。
――そっか。僕、志穂さんに嫌われちゃったな。
自分で言ってて、ホントに自分が嫌いになりそうだった。あの発言だけは絶対に口にしてはいけなかったのに。
立ち上がった勢いで散乱してしまった彼女のお弁当を片づける。あんなにおいしかった唐揚げも、まだ一口も食べていない卵焼きも、無惨に無機質なコンクリートに散ってしまった。
――明日、もし来てくれたらお弁当箱返さなきゃ。
僕は最後に、自分のタブレットを拾い上げる。被った砂利を払い落としてから、画面にもう一度、その言葉を表示させる。
『ごめんなさい』
雨がポツポツと降り出してきた。次第に強くなってきても、僕はタブレットに表示された文字を睨みながら固まったままだった。
*
あれから志穂さんは屋上に来なくなった。
彼女に叩かれた翌日、僕は洗い終えたお弁当箱を携えて屋上で彼女を待った。
いつもなら9時を過ぎる頃に、照れ笑いを浮かべた彼女が手を振りながらやってくる。けどその日は来なくて、結局朝から夕方まで待っても志穂さんは来ず仕舞いだった。
次の日も、またその次の日も。
結局、あれから志穂さんが僕を訪ねてきたことは一度も無い。
――彼女が夏休みいっぱいで転校することを知ったのは、それから1週間後のことだった。