恋愛1:②
次の日、僕は期待のあまり6時から学校の屋上にいた。
……うん、正直自分でもバカだと思う。だって朝の6時っていったら、部活の朝練だって始まる前だもん。夏期講習しかない彼女がそんな時間に来るわけないじゃないか。
流石に少々早すぎたと後悔したけど、だからと言って家に戻ろうという気にもなれなかった。どうせ帰ったところで誰もいないし、それなら自宅だろうと屋上だろうと何一つ変わらないから。いや、空を眺められる屋上の方が自宅より快適だとさえ思う。
志穂さんとの会話を何度も何度も反芻しているうちに、昨晩はいつの間にか開けてしまった。まぁ、その……結局のところドキドキしっぱなしで一睡もできてないってこと。
夏とは言っても、早朝のコンクリートは夜間の冷気を存分に孕んでいて冷たい。制服のシャツ越しにひんやりとした感触が伝わってきて心地いい。昨晩寝てないこともあって、目を閉じてるとそのまま動きたくなくなってしまう。
で、実際にそのまま寝入ってしまったワケで。
目を覚ました時、太陽はちょうど青空の真ん中まで昇り詰めていた。
――っ!
僕が目覚めて最初に思ったのは志穂さんのこと。寝過ごしたのではないか、ひょっとするともう帰ってしまったのではないか。
僕は起き上がろうとして、そして気づいた。
――志穂さん……。
仰向けに寝転がった僕の横に、きちんと志穂さんがいた。壁に背を合わせて、体育座りで空を仰いでいる。
――ホントに、ホントに来てくれたんだ。
あのタブレットに書かれた『また明日』という言葉は幻じゃなかった。彼女は本当に僕に会いに来てくれた。
嬉しかった。こんなに嬉しいと感じたのは高校に入ってから初めてだった。
――あれ?
志穂さんは青空を仰いではいるものの、目を閉じていた。
――空を眺めているワケじゃないのか。
そこで気づく。志穂さんの唇が動き、何かを話している。
いや、話しているのではない、彼女は歌っているのだ。
昨日言っていた、彼女の全てである音を。
音楽を。
ヘッドホンを介して聴きながら、彼女自身の口で、その音をこの世界に表現しているのだ。
僕はその瞬間、自分が失聴であることをこれ以上ないくらい憎んだ。彼女の口ずさむ声を、歌を、音を、何一つ体験することができないことが堪らなく悔しかった。
ただ、声は聞こえなくても、瞳を閉じて歌っている志穂さんはとても魅力的で。何気なく座って、ヘッドホンから流れてくる音に耳を傾けているだけでも、やっぱり僕には眩しくて。
このまま、いつまでも志穂さんを見ていたい気分だった。
それから十数秒の時がゆっくり流れて、
――あっ……!
志穂さんがコチラに振り返った。視線と視線が重なる。
志穂さんは僕が起きたと分かった途端に、コチラに寄ってきた。
流石に起きないワケにはいかなく、僕は曲がりなりにも愛想笑いを浮かべながら、志穂さんの隣に座りなおした。
タブレットを開き、簡単な挨拶からはじめる。
『こんにちは』
『こんにちは♡』
当然ながらハートマークを付けたのは志穂さんだ。断じて僕ではない。
『よく寝てた』
『志穂さん、いつ頃来ましたか』
『朝の6時半』
危うく吹き出しそうになる。
――6、6時半って、ほとんど僕と来た時間変わらないじゃないか!
僕は慌ててタブレットの時間を確認する。常時表示のデジタル時計は、現在の時刻が『11:34』であると知らせている。
つまり僕は彼女が来てくれる直前で眠りに落ちて、そのまま彼女を5時間以上も待たせたということに……。
頭上の周辺に溜まっていた血が、一気に足元まで駆け落ちていく感覚。
バッ、と。
僕は勢いよく頭を下げた。見た目は土下座に近いだろうか。
ここで腹から『ごめんなさい』と叫べればどんなに格好がついたか、しかし残念ながら僕は話すことができない。
僕は暫く頭を下げた後、ポカンとした状態の志穂さんにタブレットを示した。
『ごめんなさい』
その6文字が志穂さんの目に飛び込んでから一秒足らず、
――あいたッ!?
志穂さんの右手チョップが、僕の頭上に炸裂した。
痛みに震えながら、僕はタブレットに指を走らせる。
『何するんですか』
『謝るくらいならお礼を』
『それは志穂さんの信条』
『私に続いてこう書く』
志穂さんはタブレット上の文字をクリアすると、下側にスペースを残すようにしてこう書いた。
『待っていてくれてありがとう』
――……。
確かに、謝罪するより謝礼した方が相手だって気分はいいだろう。
でも、お礼を言うには勇気がいる。謝るだけなら簡単だ、頭を下げればいいだけだから。
僕に、僕には。
『無理です、僕にはまだこの言葉は書けません。ごめんなさい』
全く見当違いの文字を書いたことで、志穂さんは不満そうだ。
画面をクリアして、もう一度先ほどの言葉を書いてきた。きちんと僕が書くスペースも残してある。
『待っていてくれてありがとう』
――こんなお礼なんて、僕には似合わないけど……でも書かないと終わらなさそうだし。
これが、今の僕の限界だ。
僕は意を決して、その言葉の下にこう言葉を書いた。
『待たせてすいません』
たっぷり10秒以上も掛けて、無様な出来だったけど。
『及第点』
志穂さんは笑顔になってくれた。
これでようやく普通のお話ができそうな雰囲気になる。
『なぜ今日はあんな早く』
『気分』
気分って……。
『僕が寝ている間、何をしてましたか』
『陽くんの寝顔を見てた♡』
今度は本当に吹き出した。
慌てて文字を書き足す。
『何言ってるんですか』
『冗談、空見てた』
『空ですか』
『空。屋上からの青空ってすごく綺麗』
『はい、とても綺麗です』
で、止まった。何を書いていいのか分からなくなった。だって特に話したい話題は無かったし。聞きたいことならたくさんあったけど、会ってすぐ個人的な質問に持ち込むのも不自然だし。
ただ会いにきてくれた。その事実に何処か満足してしまっている僕がいて、でもやっぱりそれを言葉にするには恥ずかしくて。
それ以上にこれだけで会話が終わってしまうのも勿体なくて、だから僕が次に書いた言葉は、
『夏期講習はどうしたんですか? 戻らなくていいんですか』
事務的な内容に。
――って、ああっ!?
またやってしまった。これではまるで彼女に夏期講習に戻れと言ってるようなモノじゃないか!
『わたし、今日もさぼっちゃったね』
ニッコリ、悪戯な笑みを浮かべる志穂さん。
――ああ、やっぱり可愛い……。
そのまま見とれてしまいそうになった所で、僕は何とか気張って堪える。
――少しだけ、少しだけ勇気を出してみよう。
昨日だって志穂さんは笑ってくれた。だからきっと大丈夫。
『会いに来てくれて嬉しいです』
ほとんど投げるようにして彼女にタブレットを渡す。横目で様子を伺うと、志穂さんは僕の書いた文字を前にして笑顔を浮かべてくれた。
『私もまたお話できてうれしーです♡』
そう書かれて帰ってきたタブレットを、僕は危うく落としかけた。
誰とも友好的な彼女にとっては言い慣れた言葉かもしれないが、僕にとっては不慣れも甚だしい。免疫ゼロの小心者には卒倒クラスの内容だ。
因みに、僕みたいな臆病者は話題を変えて誤魔化すのが得意で。
『今日もヘッドホン着けてますね』
『似合う?』
『はい、もちろんです』
個人的にはかなり似合うと思う。元々志穂さんは高校2年生とは思えないほど童顔で小顔で、そのせいかゴツゴツとしたヘッドホンが意外にも似合うのだ。ギャップ萌えというヤツだろうか。
『今日も同じ、あの曲ですか』
『ずっと同じ一つの曲』
志穂さんは続けてタブレットに指を走らせる。
『このヘッドホンでこの曲以外流したことない』
それも凄い話だ。コストパフォーマンスが悪いどころの話じゃない。
『その一曲のために、専用のヘッドホンを用意したんですか』
『ちょっと違う。ヘッドホンが最初。このヘッドホンだけが、その曲を鳴らしてくれる』
――つまり、志穂さんにとって、
『そのヘッドホンは、とても大事なモノなんですね』
『死んだお母さんが使ってたモノ、貰ってからもう10年』
10年、物凄い歳月だ。
確かによく見てみると、白色のフレーム部の塗装が所々剥げている。イヤーパッドに至っては中のクッション部が顔を出す始末だ。
もう買い換え時期をとっくに過ぎてるだろうに。これでは音漏れどころの話ではない、ダダ漏れである。
……ということは、志穂さんはいつもその曲をダダ漏れさせているということなのか。授業中も試験中も。
それで常時着用が許可されているのだから凄い話だ。一体志穂さんはどんな曲を流しているというのか。まぁ耳が聞こえない僕には一生分からないんだけども。
『志穂さんはヘッドホンを着けたまま寝るんですか』
『寝・ま・せん! マズイときは外す! 就寝時とお風呂とおトイ』
そこでピタッ、と志穂さんが指を止めた。慌ててお尻の書きかけの言葉を消し始める。
……うん、女の子には恥ずかしい言葉だよね。
『ダメなときは外してる。着けてるのは問題ないと断言できるとき』
試験中の着用が問題ないと断言できるのがスゴイ。
『分かりました、志穂さんが正しいです』
僕が書いた文字を見て、志穂さんがジト目でにらんできた。
『適当に相槌打って?』
僕は全力で首を横に振る。
『ホント?』
全力で首を縦に振る。
『ホントにホント?』
振り切れん勢いで首を縦に振る。
『まいーや』
志穂さんはそっとタブレットを置くと、僕から僅かに向きを逸らした。快晴の空を見上げて、大きく背伸びをする。
『ここからの青空は好きですか』
僕がそう書いて見せると、志穂さんは笑顔で応えてくれる。
『曲聴きながら青空眺めるすごく気持ちいい。この場所気にいっちゃった』
『この場所には、多分僕が全校で一番長くいます。だから自信を持ってオススメできます』
志穂さんは何度か目を瞬かせて、それからこう書いてきた。
『また、この場所に遊びに来てもいい?』
ドキリと。胸が高鳴った。その言葉が欲しくて、でもあまりに高望みだと思ってて。
小心者の僕は力強く頷くなんてことはできず、コクリと小さく頷くので精一杯だった。
*
信じられないことに、いや、マコトに信じられないことに、それから僕は志穂さんとよく会うようになった。
誤解しないように先に釘を刺しておくが、別に僕が秘密を利用して彼女に会うよう脅迫しているワケでもなければ、小洒落たレストランで待ち合わせをしているワケでもない。ただ僕がいつものように学校の屋上でボンヤリと空を眺めていると、授業をサボった志穂さんが会いに来る。頻度は次第に増え、最初は3日に一回程度なのが、そのうち2日に一回、ついには毎日会いに来てくれるようになっていたのだ。
で、実際に会いに来てくれて何をするかといえば、特に何をするワケでもない。基本的に二人並んで座ってボンヤリ空を眺めて、時々僕のタブレットを使って会話をしたり。
夏休みという一大イベントの真っただ中に、こうして屋上で二人して空を観察するだけなのは味気ない気もするが、それでも僕はこれ以上ないくらいに幸せだった。憧れの志穂さんと一緒の時間を過ごせるのもそうだし、何より時々の会話を通して志穂さんのことを以前よりもずっと知ることができたから。
色々なことを知った。彼女の両親の仕事のこと。彼女の趣味のこと。彼女の幼少の頃のこと。彼女の前の学校でのこと。
志穂さんはいつも僕と話をするときは隣に座ってくる。決まって体育座りをして、お気に入りのヘッドホンで大好きな曲を聴きながら、青空を見渡している。
物理的な距離は最初から無いに等しかったが、やっぱり心理的な距離はあったと思う。けど、それだって彼女を知れば知るほど着実に消えていったと思う。
だからこそ、心理的にも距離が近くなるにつれて、僕の中の一つの疑念はその規模を大きくしていった。
――どうして、僕なの?
どうして彼女は、志穂さんは僕みたいな奴に会いにきてくれるのか。志穂さんは勉強もできて、スポーツもできて、優しくって、可愛くって、皆のアイドルなのだ。その気になればどんな男だって手中にできそうなのに。
そんな彼女が、どうして毎日僕みたいな――身体障害者の相手をしてくれるのか。
『哀れみ』。
その言葉にうなされたのは1回や2回じゃあない。
彼女は僕が失聴者であることを哀れんで、それでわざわざ来てくれているのではないか。
そう思うだけで苦しくなった。辛くなった、虚しくなった、泣きたくなった。なら考えなければいいと思うかもしれないし、実際に僕だって考えないように努めている。けど、別れ際に毎回彼女が浮かべる笑顔を見ると、どうしても思ってしまう。思い知らされてしまう。
――僕には、そんな笑顔を向けられるだけの価値なんて無い。
自分に価値がない。宮谷志穂という存在と一緒過ごしていると、僕自身の無力さが否応なく浮かび上がる、実感させられる。
そして自身の無価値を認識する度に、僕はどうしても考えてしまうのだ。どうして僕なんかに彼女は会いに来てくれるのか。
そんなの本人にしか分からない。なら聞いてみればいいかもしれないが、僕にはその勇気が無かった。僕が恐れている言葉を、彼女の指先がタブレットに描いてしまう瞬間を見るのが怖かった。
だから彼女にその理由を聞けないまま、僕は彼女との時間が矢のように過ぎていくのを静観してるしかなかった。