第八章「アルンを殺せ」(3)
(さて、どうしたものか)
実際、ユマは迷っていた。このままチタータの元に留まるべきか、何が何でも宮殿に戻るべきか。
(戻るべきだろう。それが最良だ)
子爵ユマ・ティエルは都市ティエレンの主である。さして大きな街ではないから、いずれ街中の人間に面貌が知れ渡る。一度身分を偽って市民と接してしまった以上、必ず暴かれる日が来る。その時に子爵がティエレンの深刻な問題に、一方の肩を持つ形で関わっていたと知れれば、それがまた新たな火種になる。
今が最良、今が限界なのだ。ユマ自身それを痛感している。
そうまで動かし難い結論を出していながらもユマが留まり続ける理由は、あるいは感傷と自嘲しても仕方のないものだろう。
(迷えば迷うほど悪化する)
そこまでわかっていてもなお、ユマは動かない。動きたい。だが動かない。
ティエレンの統治者としてまだ何もやっていないに等しいユマは、しかしながらローファンとフェペスの不和という、十年来――いや、百年来の怨念をどう取り除くかということに思考のほとんどを費やしていた。何が自分をそうさせるのか、ユマはつまらぬ意地に自分自身が囚われていることを自覚していた。
(ローファン伯に負けたくない。あの男を虚仮にしてやりたい)
第一にそうであるのか、実のところ自信はない。あの、自分を自らの陰謀のために利用した男を、ユマは終生許さないだろう。だが同時に、クゥという女を救いたいという思いが熱くこみ上げるのだ。そして、それらに囚われるユマの思考を嘲笑うように、ティエリア・ザリという名が何度も頭の中にこだまする。
チタータの元を訪れて得たものは確かにあった。ユマはティエレンに渦巻く憎悪の嵐を、ただ単にフェペス・ローファン抗争と呼ばれるものとして認知していた。だが、それらの渦の端で藻屑となりつつある人々がいた。旧来のローファン移民である。
確かに、虐げられているのはフェペスの遺民であっただろう。彼らの多くが発する怒りは凄まじく、アルンという名の石でもってローファン移民に叩きつけられる。だが、喧噪の最中、誰の目にも留まらぬ者達がいた。ユマは宮殿に閉じこもったままこの街を統治する気など毛頭なかったが、チタータと出会わなければ、彼女らの存在に気づくまでどれほどの時間を浪費しただろうか。その間、致命的な過ちを重ねるに違いなかった。
だからこそ、侠気からチタータ達を守ろうと立ち上がったルガ達が、ユマには眩しかった。アルンとの決闘騒ぎをつまらぬ遊びと断じる半面、彼らへの非難は全て自分へと跳ね返ってくる立場にあることを痛感した。
――思いあがるなよ、小僧。お前なんぞに、ティエレンで最も難解かつ複雑な問題を解決できるはずもなかろうよ。
どこからか、ローファン伯の声が聞こえてくるようである。そして、そのたびにユマは唾棄する。
ユマの思索は長い。それを、ルガの看病をする傍ら、チタータがじっと見つめている。
今までもこれからも、ユマは何度も思う。この女は美しい。絵画のような美しさではない。この女は生き様そのものが動物のようにしなやかである。
そしてチタータという女にもまた囚われようとしている自分が、どうしようもなく愚かしいのだ。
「好きにしなよ」
ユマがハッと顔を上げる。チタータはルガの方を見ている。確かに彼女の口から洩れた言葉だったが、誰に向けたものなのか。
ルガの口元がもごもごと動く。どうやら意識を取り戻したようだ。
「ユーユ、ルガが呼んでる」
ユマはチタータに誘われるままにルガの口元に耳を近づけた。
――……よ…………アルンを……殺せ……
静かながらも、そこからは空気が震えるほどの怒気が放たれた。それは鼓膜からユマの全身を震わせたが、同時に霧がかったユマの心に一種の澄みをもたらした。
「ありがとう、ルガ。迷いが晴れた」
そう言って扉に手をかけたユマを、チタータが呼び止める。
「部屋から出ない方がいいわよ」
「……いや、帰るよ」
「帰るって……何処へ?」
「あるべき場所へ」
「あるべき場所? 何それ?」
ユマはチタータの問いには答えず、部屋の扉を開けた。
「待て、裏切る気か!」
仲間の一人が声を荒げる。
「お前達の仲間になったつもりはない」
「ここからは出さん!」
男は辛うじて起き上がろうとするが、膝が笑っている。
「約束はするよ。口約束だ。ここのことは外の誰にもバラさない」
「信じられるか!」
「そうだろうよ……」
ユマの半ば投げやりな受け答えに怒った男が右手に精霊を集めようとしたところ、チタータが凄んだ。
「やめな。行かせてやりなよ」
ユマはオロ王国に来てから、二度、女の逆鱗に触れた。一人はクゥであり、もう一人はシャナアークスだ。前者の怒りはあまりにも痛々しく、後者は子供っぽいところがあった。だが、二人に比べてもチタータの怒りは遥かに怖い。何故だろうか。
(この女は誤魔化さない)
怒りとは激突である。だが多くの場合、拳を振り上げた直後に人は冷静さを取り戻す。取り戻した後に、拳を振り下ろす理由を知恵を巡らせて工面するのである。チタータにはそれがない。あるいはユマが対した時のクゥにも無いと言えるが、ユマが見るに、彼女ほどにはこの女は脆くない。
ユマは――つまらぬ想像だが――この女がクゥの立場にあったらどうなっていただろうか――などと考えた。だが、やはりチタータでもフェペス家の怨念に押しつぶされてしまっただろう。あれを背負いきれる人間などこの世の何処を探してもいない。
ふっ――と、肩が軽くなった気がした。
「チタータ、世話になった。心の底から――」
去りゆくユマは何者かの声を聞いた。ルガが呻いていた。
工場を通る間際、生糸を束ねる女たちがユマに声をかけてきた。
「ルガは治りそう?」
確かに彼女たちはチタータの言う通り、ルガ達の協力者だろう。だが、女の言い草はユマの癇に障った。
――つまらんことに首を突っ込むな。
喉まで出かかった傲慢極まりない言葉を辛うじて飲み込む。
「医術士が要る。領主に頼め。領主がいなければクゥ・フェペスを頼れ」
それが、ユマに言える限界だった。だが、この助言はユマが想像していたよりもずっと、彼の立場を疑わしいものにした。
一人の少女の瞳が光ったのを、ユマは見逃さなかった。
「ナンナ、手が止まってるよ」
少女の横に立つ女が声を低めて言うと、ナンナと呼ばれた少女は何事も無かったかのように生糸を繰り始めた。
「旅人さんは新しい領主様に伝手でもあるの?」
恐らくナンナも同じ疑問を持ったのだろう。手を休めずにユマの方に意識を尖らせている。ユマもまた、ナンナに視線を向けずに彼女を観ていた。
「さてね」
ユマが工場から去った後、一つの影が、彼の後を追って飛び出した。ナンナであった。