第七章「決闘の街」(13)
ルガは盤面を見た。ユマは慣れぬ手付きながら本陣を侵し始めている。ルガはそれに対応せねばならず、一時にしろ攻撃の手を緩める他ない。
「うむ……」
ルガは全く歯ごたえを感じない。というのも、ユマの先陣は火風と金風程度しか脅威が無く、敵陣に斬り込めばすぐさま成って強力な駒に変貌するはずの風風は全く役に立たないままに進軍する。これではいくら数が多くとも紙の盾である。
(源五とは何度やったか?)
ルガの持ち駒は四風将棋において最強に近い構成である。自然、あまりにも有利不利の隔たりの大きい組み合わせは避ける傾向にあった。源五と表現される駒構成の相手を敬遠してきたのもその一つだろう。勝っても何の興もなく、そして負けることなど居眠りでもしない限りありえないほどの優劣がある。
経験豊富なルガにしてみれば、自分の中に新しい自分を見つけた思いであった。ユマの目的がはっきりとは分からないのである。
だが、火風を前進させてユマの金風を取ろうとした時に、それは明らかになった。
「あれぇ?」
と、チタータ。観衆が声を上げるほどの変化が、盤面に起こったのである。いや、まだ変化と呼ぶべきではない。彼女の目はその前兆をとらえたのだ。
一見、ユマの布陣は脆弱なままで、迎撃するルガは鉄壁である。だがそれは飽くまで互いに触れ合わないままの状態だからそう見えるに過ぎない。
ユマの先陣は徐々に鶴翼のような広がりを見せ始めていた。というのも、錐のように鋭かった先鋒が敵前で停止しているためだ。何故、止まり、広がるのか。
チタータが見たのは、ユマが先陣に置いた大量の風風と、規則正しく並列した源風である。
同時にルガが一瞬だけ苦しそうな顔をした理由はこうである。
ルガは火風を用いてユマの先陣を蹴散らすことができるが、それにはユマに攻め込んでもらう必要がある。火風と火風の戦いでは先に動いた方が不利であるからだ。対してユマは、火風を後生大事に司令塔である源風の傍に置いて離さない。そしてそのままで陣を進める。
ルガの火風がこれを取ろうとすると、必ず火風が司令塔の源風から離れる。その隙に金風で取られる危険も出てくるが、ユマの場合、風風で火風に成ってからそのまま攻撃に転じることも出来る。成ることで一手の差が生まれ、その隙に司令塔を潰されて終わりかといえば、源風が並列している都合、すぐ隣の源風が司令塔となって成った火風を弱めることなく生かすことが出来る。
まさに布陣と云うべきだろう。源風の多さを利用した物量作戦でもある。
「ふむ、少しはやるようだ」
余裕を失わないルガに対してユマは猛反撃を試みる。
ルガの予想した通り、ユマは風風で圧迫しつつルガの主駒に迫る。司令塔の源風が取られればすぐに隣の源風が司令塔となり、火風が生き続ける。
「おやおや、これは――」
観戦していたパソォが口を開いたのは、驚きからではない。虚しい事実が盤面に横たわっていたからだ。次いで他の観衆もこれに気づく。
ルガが勝つ。ユマがどう足掻いてもルガが勝ててしまう。
あるいは、この本陣は守りきれないかも知れない。いや、ユマがこれから一手も誤らなければ、確実にそうなるだろう。
だが――である。
この四風将棋における重要なルール――主駒の継承が、ユマの全ての労力を無に帰してしまう。
主駒が取られた場合、近くの源風が次の主駒として成り立つ都合、戦力の一極集中は場合によっては大きなリスクを伴う。今のユマが、まさにそれである。ルガの本陣を囲むユマの先陣は、主駒を取った後の形を考えていない。ルガの次の主駒の位置は前線から遠く、ユマは主駒を取った瞬間にルガの主力に挟撃される形となる。いや、ユマの総攻撃が始まった時点では、まだそれほど離れていなかった。ユマの企みに気づいたルガはすぐさま次の布陣を初めていたのである。
(何か――考えているはずだ)
ユマに主駒を取られた時、ルガは癪ながらもユマの次の一手に期待した。
源五の強みは主駒の交代を頻繁に行えるという点にある。ユマのように源風を一極集中させた形だと、主駒の交代による自陣の乱れが少なくて済むという利点もある。
だが、それでルガの火攻を防げるはずもない。
主駒の交代によって本陣の安全を得たルガは、ユマの主駒には目もくれず、一極集中した先陣を端からずたずたに切り裂いた。敵を囲めぬ包囲陣など何の役にも立たない。
やがて、主駒以外の源風が根絶やしにされた。事実上の詰みである。
(おいおい、ただの特攻だったか……)
ルガは少なからず失望した。ユマの布陣は悪くはなかった。むしろ、自分に勝つにはそれしかないと言えるほどに見事ではあった。采配さえ悪くなければ、ユマはもう少し善戦できたはずである。それが、主駒を取ってからは全くの力押しで、正面から火風に挑んでは散ってゆくという愚行に終始した。
「あら、お開きね」
チタータがユマの肩を叩く。勿論、先程のような荒々しい手つきではない。
ユマはじっと盤面を観ている。まだ何かを考えているのか、あるいは納得がいかないのか、表情は晴れない。
「ユーユ殿、見事な風攻でした」
パソォが声をかけると、ユマは驚いたように眉を上げた。
「あっ、定石だったのか」
「四風将棋に歴史ありです。初心者がにわかに新戦法を開拓できるほど甘くはありませんよ」
「そうか、そうだよなぁ……」
ユマはどこか気鬱そうである。
(勝てるつもりだったのか)
と、周囲の者はユマの壮気を面白がった。誰もが彼の風攻に目を剥いたが、勝利に向かって知恵を絞るにしてはあまりにも勢い任せであり、詰めが甘すぎる。
「今日はこれくらいにしよう。ユーユよ。よかったら明日も来い」
盤上の駒をじゃらじゃらと崩しながら、ルガが言う。
「将棋はもう懲りた」
「それでもいい。安物だが、酒くらいはある」
「考えておくよ」
ユマは確答を与えなかった。ルガも予想していたのか、強引に彼を引き留めようとはしなかった。
「夜道は危険ですよ。私がお送りしましょう」
パソォはそう言ってユマより先に外へ出た。最初ここに来た時、まるで影と同化しているように見えた男は、今ははっきりと月光の下にその身を晒していた。
「ユーユ殿。先の勝負、何を見ましたか?」
月下の問いに目を細めるユマを見て、チタータが首を傾げた。闇に呑まれそうな赤い髪がさらりと揺れた。