第七章「決闘の街」(12)
盤を眺めながら、ユマは嘆息していた。
既に三連敗である。四風将棋に慣れないユマであるから、それも当然だろう。だが、それにしてもと思うところがある。
いかにも四風将棋は理不尽なゲームである。なにしろ試合開始時点で彼此の兵力に差がある。
誰が言わずとも四風将棋では火風の駒が最も強い。それをルガは七つ持っており、ユマは二つしか持たない。何をどう動かそうが、ルガの火風によって瞬く間に蹴散らされて終わる。風風を引きつれた火風で敵陣に斬り込むことができても、気づけば自陣が崩壊しかけているといった具合で、文字通り勝負にならない。
「次に詰んだらお開きだな……」
欠伸を噛み殺しながらルガが言う。勝負の最中、ユマは雑談の余裕などほとんどなかったが、ルガは十分にユマを観察できたようで、恐らく彼の中ではひとつの結論が出たのだろう。となればもう遊びは終わらせたいという気分がありありと見えた。
盤の中央に衝立が置かれ、ユマは見えぬ敵陣を予想しながら駒を並べている。
(どうして俺はいつもこうなのか?)
連敗に腹を立てているわけではない。ユマが心底思い知ったのは、持ち駒の悪さである。立ち位置の悪さ、巡り合わせの悪さ、あるいは采配の悪さ――である。
(そう。いつもこうだ。いつもこう……)
心ならずも不健康そうな少年王から子爵位を賜った時、クゥ・フェペスに勝利した時、リンを抱いて呪いをこの身に受けた時、ローファン伯の娘アカアによって保護された時、あるいはそれ以前――そう、この世界へ迷い込む前もそうであった。
鳴かず飛ばず。いや、これは今にも飛び立とうとする者の言葉だ。空を睨み、地を踏みつける者の――「今にも天を驚かしてやる」と意気込む者の言葉。ユマは違う。どうにもならない。何をやっても、何処かへ行けない。いつも同じところに帰ってきてしまう。ユマという人間が特別悪いのか。そうではないだろう。むしろ、多くのものに恵まれている方だと自覚している。だが、皆何処かへ行くのに、自分だけは何処にも行けない。
「いや、随分遠くまで来たもんだろ……」
ユマがひとりごちるのを見たルガが首を傾げる。
皮肉である。異世界に飛ばされるなどという常軌を逸した事態に陥りながらも、ユマという男は同じ所でぐるぐる回っている。少なくともユマの自覚としてはそうである。
自分は何のためにここにいるのか。ユマとて阿呆ではない。この問いの無意味さに気づいている。だが、何度も同じところに戻されてしまう――まるで樹海に迷う旅人が不安半分、腹立ち半分といった具合にこぼす言葉が、ユマの脳内で何度もこだまするのだ。
(違うだろう)
こんなつまらぬことを思い知るために遥々ティエレンにまで来たわけではない。だが、こうもまざまざと見せつけられると気持ちが沈む。
突然、視界が揺れた。同時に右肩が痺れていることに気づいた。
「ほらほら、少しはしゃんとしな!」
振り返ると、チタータの顔が目の前にあった。どうやらユマに喝を入れたつもりらしい。
(凛々しいなぁ)
凛々しいといえば、シャナアークスやクゥも十分にそうだろう。だが、シャナアークスは凛々しいと言うよりは勇ましいと言った方がよく、クゥは境遇もあってかどこか影が濃い。チタータには彼女よりも美しい二人には無い美しさがある。
「ユーユ、風風は四風以外に化けなきゃいけない決まりはないわ」
何気ない――あるいは何かを意図したのかどうか――チタータの言葉は、数瞬の間、何の重みもなくユマの頭の中で反芻された。
「あっ!」
閃き。勝算ではない。決して、圧倒的な劣勢を覆すほどの思い付きではない。だがそれは四風将棋というゲームそのものに対してユマが感じていた違和感を、言葉にならぬ心の底からいともたやすく掬い上げた。
「チタータ、口出し無用と言っただろう!」
ユマが何か逆転の糸口を見つけたと思ったのか、ルガがチタータをたしなめる。
(肝っ玉が小さいというか――)
圧倒的優位にありながら、初心者への助言を止めよというのはいかにも狭量である。だが、向き直ってルガを見るにそうではない。
先ほどもそうだったが、ルガはチタータが口を開いた時だけいやに反応が早い。まるで――
「ルガさん、さっきはあなたが如何にも血も涙も無い人であるように言ったが、訂正させてもらうよ」
「何だ、突然?」
ユマは意味あり気に目配せをした。その先には――というか後ろだが――チタータがいる。
途端に、ルガの白い肌が紅潮した。
(悪人じゃあない)
ルガは、恐らく人の好い男である。冷徹に見えなくもないが、心の芯に温かみがある。いや、人の好い男であるのに、外面がどうも強張っていると言った方が良いかもしれない。
「ルガさん。あんた、武人だろ?」
先手のユマが風風の駒を前進させる。
「何故、そう思う?」
ルガは紅潮したままの顔でユマに問い返す。果たしてユマに心中を見透かされたのかどうか――興奮が抜けていないように見えるが、目つきは至って冷静である。
「物腰が知り合いの武人に似ている。物腰というか、視線の置き所がそうだ」
ほう――と感心したような声。つまりルガはこれまでユマにそれほどの洞察力を期待していなかったということだろう。
「ファルケで傭兵をやっていた。ローンに来たのは五年前だ」
「ファルケ? ローン?」
ユマはファルケと言われれば、ファルケオロ家の令嬢が思い浮かぶ。だが違うだろう。地名だろうか。
「ファルケはペイル。ローンはオロのことですよ。ペイル人はそう呼ぶのです」
パソォが横から説明する。
「なるほど」
となるとファルケオロというのは、オロのペイルという意味だろうか――と、ユマはもう随分遠い存在に感じられるようになってしまった三美公女の一人ファルケ・ファルケオロのことを思い出した。
「ペイルでどんな罪を犯した?」
禁句だろう。ユマ自身それを自覚している。だが、ユマはルガが凶暴だとも凶悪だとも思わない。むしろ何か、巡り合わせの悪さでしか法を犯しそうにない男だ。
案の定、ルガの眉間に皺が寄った。だが、他の者達の目に好奇の色は見えない。恐らく、この場ではユマ以外の全員が知っていることなのだろう。
「ユーユよ。法が人を殺す時もあるのだ。法に殺されるか、法を殺すか。お前ならどちらを選ぶ?」
「言っている意味がわからないな」
「いや、わかる。そういう目をしている」
近くに鏡があれば、ユマはそれを覗き込んでいただろう。法を殺す目とは一体どういうものなのかと。
「死ねと命令された場合、お前ならそれを守るか? 生き残り勝利する道がはっきり見えるにも関わらずだ」
「……守らないな。多分だけど」
「では、軍規違反で死刑だな」
ルガが発したのは冗談のような軽い笑いである。だが、声色に含まれない重さがユマの腹の底に落ちてきた。
「わかったよ、ルガさん。つまらんことを訊いた」
ルガの放った重さは確かにユマを圧したが、同時にこの男は爽快であった。それが、二人の視線を何事も無かったかのように四風将棋に戻した。
「うーむ……」
突然、盤上を凝視しながらルガが唸った。偶然なのか、同時にユマも嘆息していた。
周囲の者――特にチタータには、二人が何をそんなに不思議がっているのか全く理解できていない。
チタータは盤上を見る。
相変わらず、ルガの火風陣はユマの駒を蹴散らして主駒に襲い掛かろうとしている。だが、二人が見ているのはそこではなく、ユマが風風を大量に進軍させている部分である。
ユマの風風はとうの昔にルガの陣地に入っている。それも一つや二つではない。だが、そのどれもが「成っていない」。近くには土風以外の四風があり、ルガがその気になればいつでも最強の火風を取ってしまえる。
実際、ルガはそうしようとした。攻撃に専念するあまり、少数の火風に攻め込まれて敗北というのは、四風将棋において最も典型的な負け方である。
「編成を変えたな?」
今更気づいた自分をあざ笑うように――いや、実際ルガはゲームが始まると同時にそれに気づいていた。だが、その変化の目的を理解していなかった。
ユマはこれまで、四風をバランスよく源風に配置して、小さな部隊をいくつか作ることでルガの攻撃をいなそうとしていた。だが、今回は一つの源風に土風以外の四風を一種ずつ、そして風風を八つも従わせていた。乾坤一擲の大軍だろう。
ルガは勿論、それを蹴散らした。だが、深入りすれば自陣の司令塔である源風から遠ざかってしまい、火風や金風に取られてしまう。自然、雷風や風風を削り取りつつ、迂路を取らざるを得なかった。ということは、ユマは最短距離で敵陣に切り込んだことになる。
ルガの陣にも火風や金風といった強力な駒が残っている。だが、敵の主力の侵攻を許したというのは明らかにルガの落ち度である。
(俺らしくない)
普段なら決して見逃さない変化である。他に誤判断があるとすれば、ユマの主力を撃破せずに迂回したことだろう。殲滅すればよいものを、何故逃げともとれる一手に至ったのか。
(こいつ、俺の動揺を誘ったのか?)
思えば、調度ユマがルガの過去を聞き出そうとした頃に、ルガの誤判断は起こった。だとすればユマという男は策を好む性質がある。話しながらもっと軽い男だと思っていただけに、ルガにとっては意外だった。