第七章「決闘の街」(6)
チタータと呼ばれる女に手を引かれたまま、ユマは奔った。
しばらくすると、暗い場所に出た。民家が密集しているがどれも粗末なつくりで、水路が近いのか湿気が酷い。チタータは隘路を軽快に走り抜けた。
次に小さな林が見えたが、すぐに尽きて市壁が見えた。古びて綻びの目立つ市壁に向かい合うように家が建っていた。客分とはいえ、王都では華やかなローファン伯爵邸に住んでいたユマにしてみれば、これは家ではなく物置ではないかと思える狭さであった。
素性を知らぬ者を警戒する素振りすら見せずに、女はその家にユマを招いた。彼女はまず、自分たちを助けてくれたことをユマに感謝した。
「こいつはあたしの弟でヌークってんだけど、どうにも喧嘩が弱くてねぇ。あのままだときっと怪我してたよ」
そう言われたヌークは女を睨んだ。暴漢が放った火術で火傷を負ったのであるから、姉の言い方は少し酷だろう。ヌークは自分で薬草を漁り、手当てをしている。幸運なことに傷は重くない。
「あたしはチタータ。あんた、どう見てもティエレンの人間じゃないけど、旅人かい?」
そう言った女はコップにぬるい水を注ぎ、喉を鳴らして飲んだ。
チタータに促され、椅子に腰かけたユマは無意識に女の喉が波打つ様を凝視していた。同じように自分を凝視するヌークの存在に気づいた時、ユマは慌てて口を開いた。
「つい先日来たばかりだ」
「へぇ……」
チタータは自分が飲み干したコップにまた水を注ぐと、ユマの前に差し出した。ユマは少し躊躇いながらも、コップに口を付けた。何かの果実が入っているのか、水はほのかに香り、わずかに甘かった。ユマにはそれがチタータという女の放つ匂いに感じられた。
美しい女である。だが人間離れした美しさではない。単純に美貌で競えば、傾国の美女であるクララヤーナやファルケ・ファルケオロの足元にも及ばないだろう。それどころかクゥやアカアにすら敵わない。
眉はやや太く、顔にそばかすがある。特別瞳が大きいわけではないが、ユマはチタータの全身が綺麗に整っているように感じた。王都の女と比べると、肩が少しいかついのは彼女がローファン系だからだろう。ユマは体の大きい女は決して好みであるわけではないが、チタータから発散される活気が、彼女を美しく見せていたといえる。
「あんた、名前何ていうのさ?」
チタータがテーブルの向こうから身を乗り出してそう訊いてきたので、ユマは口に含んだ水を吐き出しそうになった。女はみすぼらしい麻の服を着ているが、痛んだ留め紐が緩み、身を乗り出した時に胸元が大きく開いた。その奥に淡い薄紅色の突起に一瞬釘づけになった後、ユマは急いで目を逸らした。次に目をやった先がチタータの瞳であったのは、見咎められるのを恐れたためなのかどうか。恐らくこういうところが、女から見てユマが小心に映る理由のひとつだろう。
ユマが一瞬呼吸を忘れたのは、チタータと目が合ったからだ。話しかけてきているのだから、合って当然なのであるが、チタータはずっとユマの目を見ていたらしく、ということは視線の動きもわかっていたはずで、彼女は目で微笑した。早い話がユマは心中の揺れを見透かされたのである。
己の足で立とうとする一人の男にとって、これは耐え難い恥辱であるが、女が相手となれば話は別だろう。
(いかん、こいつには敵わない)
と、ユマが瞬時に思ったのだから、チタータという女には人を喰うような魅力があるといえる。ユマはこの手の女には免疫がないと言ってよく、自分の記憶の中からチタータと同じような女を探そうとしたが、当然みつからなかった。あえて言えばシャナアークスだろうが、チタータは性分に彼女ほどの鋭角を見せない。
「ユ……ユ……」
思わず本名を口にしようとした自分に驚いた。ユマはティエレンの住民に自分がどう思われているのか、完全に把握しているわけではないのである。チタータやヌークがローファン系であるからといって、ローファン伯側の勢力である――本人は頑なに否定するだろうが――ユマを受け入れるとは限らない。
仮にチタータやヌークがユマを憎んで襲い掛かってきたとしても、術士としての才能を開花させたといえるユマは軽々と撃退するだろう。だからユマは自分の身の危険を感じて己の素性を隠そうとしたのではなく、ひとえにティエレンの統治を見越してそれを善しと判断したのである。
「ユーユ……?」
チタータが首を傾げると、見かねたヌークが口を挟んだ。
「姉貴! こいつ、怪しい」
まさに――とユマは心中で苦笑した。だが、チタータは取り合わなかった。
「髪が黒いってことは、南蛮系かねぇ。ユーユ、あんたも多分、故郷で罪を犯して逃げてきたクチだろうがね。この街はそういう連中にとって悪いところじゃあないのさ。しばらくゆっくりして行くといいよ」
チタータの親切心がわからないユマは首を捻った。それに彼女の言ったことはユマの心に引っかかった。
「この街が犯罪者を匿っていたとは初耳だ。それはローファン伯の意志なのか?」
「知らないよ。とにかくこの街の警吏は役立たずなんだ。だから各々が武装して身を護ってる」
その結果、魔術での決闘が横行するようになったのだろうか。だとすればローファン伯はティエレンを所有しただけで一切統治しなかったと言っていい。
「新しい領主はそれを許さないだろう」
そう言うと、二人は驚いたようにユマの顔を凝視した。
「王都でそんな噂があったんだ」
ユマは慌てて付け足した。途端にヌークが苦りきったように吐き捨てた。
「ローファン伯の飼い犬が、無事にティエレンに入れると思うか?」
ヌークの憤りが、ユマにとっては不思議だった。彼はローファン系の血筋なのだから、ローファン伯に善い感情を持っていてもおかしくないはずだが、どうやら逆らしい。
「何言ってるのよ、ヌーク。チルークとかいう男なら、とっくの昔に宮殿に移ってるわよ」
チタータの方がヌークより世情に詳しいらしい。この程度の規模の街で支配者の話題と言えば最大のものであろうから、ヌークの疎さに驚くべきであろうか。
「ローファン伯のことが嫌いみたいだが――」
「そりゃあ、好きな奴も嫌いな奴もいるでしょうよ。あたし達が嫌いなだけよ」
「理由を聞いても?」
チタータは少し迷った後、話を始めた。
彼女とヌークはローファン地方の生まれで、八年前にローファン伯の命令でティエレンに移住した。植民であるが、フェペス・ローファン抗争でティエレンの人口が半減したことが理由だろう。
チタータの家族はティエレンの一画に居を構え、生活を始めた。だが、フェペスの民は新たな同居者を快く迎えることはしなかった。
ティエレンでの大規模な反乱は、歴史上は一度とされているが、小規模のものを含めると十を超える。人口数千人の街でこれだけ為政者に抗ったのだから、ユマはこの街が滅亡していないことの方に不思議を感じた。
チタータとヌークの両親は、フェペス家復興を唱えて反乱を起こしたフェペスの遺民によって撲殺された。反乱はローファン伯によって苛烈に鎮圧されたものの、彼は被害を受けたローファンの移民達をことさらに保護するような方策をほとんど立てなかった。その例外は富貴の家々だけで、ローファンの本拠ともつながりのある彼らが破滅すればローファン伯の勢威に影響しかねないために、特別に保護された。当然、チタータの家はローファン伯の慈恵の手から漏れた。
――ローファンも、フェペスも糞っ食らえだ!
ユマがチタータから感じたのは、諦観に近いものだった。それは絶望と変わらないが、チタータから発散される気は真逆といって良いくらいの陽気に満ちていた。斜に構えているわけではない。チタータの話しぶりは実に冷めていた。恐らく、彼女はそういった煩わしさから逃れ出たところに精神を置いているのだろう。諦観の先に精神の自由が無ければ、誰もそれを取ろうとしない。
ローファン伯は何のためにティエレンを獲ったのか――と、ユマは憮然となった。これまでティエレンで行われていたのは悪政と断じてよく、ローファン伯の尻拭いを自分がしなければならないことに腹が立った。
チタータはじっとユマの反応をうかがっていたようで、彼が密かに憤っているのを感じたのか、にわかに笑ってユマの肩を叩いた。
「あんた、人が好すぎるよ」
それからしばらくチタータと話していたが、会話が落ち着いた後、ユマは最も気になることを二人に向けて訊いた。
ヌークもチタータも術士ではない。だが、先のフェペス系の暴漢が魔術を使ったように、この街での生活は命がけである。二人がどうやって身を護っているのか、ユマは不思議だった。あるいはローファン側にも魔術を身につけた者がいて、彼らに対抗しているのではないか。もっと言えば――
――それはジェヴェではないか。
ということまでユマは考えた。だが、ジェヴェは確かクゥの扱いを案じていたように見えたから、もしかすると逆にフェペス遺民の味方かも知れない。
ユマはジェヴェの名を出すのに、かなり用心した。街を訪れたばかりの旅人が知るような名ではない。それに、彼はローファン伯の統治下では警吏に追われていたという。
「アルンというのは誰のことかな?」
ユマはあえてそう言ってみた。アルンからジェヴェの名が出て来ないかと思ってもいた。
「ごろつきどもの大将よ。親父が先代フェペスの遺臣だったみたいなことを言っているけれど、信じている者は少ないわ」
「この街は随分と物騒な様子だが、彼が決闘を指揮しているのか?」
「まあ、そんなところね。あの男、新しいティエレン子爵を暗殺してやるとか息巻いてたみたいだけど、あたしにまで話が漏れてるようじゃあ、てんでダメね」
これについてはユマも同感であるが、アルンに反乱を起こされては、それを鎮圧しなければならない。なるべく血を見ずにローファン伯の悪政の名残を取り払いたいユマとしては、あまり勇躍して欲しくない人物である。
「この街には術士くずれが多いみたいだが、アルンが教えているのか?」
「さあ? 確かにアルンは術士みたいだけど、彼が教えてるって話は聞かないわ。そもそもあいつ、頭悪いし――」
「他にいるのかな?」
「アルンには師匠がいたらしいけど、最近死んだって聞いたわ。彼、王都から訃報があった日だけは酒を飲まなかったって噂になったもの」
(一日の喪とは恐れ入った)
どうにもアルンと呼ばれる男は小物という感想しか持ちえない。
「で、君たちはアルンとかなり仲が悪いみたいだけど、どうやって身を護ってるんだ? フェペスの連中みたいに術士がいるのかな?」
「まあ、確かに何人かはいるわね。決闘好きのアルンはそいつらばかりと闘って楽しんでるみたいだけど、そうじゃない連中は厄介なのよ」
「さっきみたいな連中?」
「まあね」
ローファン系の中でも貧しい者は、徒党を組んで自衛している――というのがチタータの言だった。頭領の名を聞いてみたが、喧嘩に負けてはすぐに変わるといった様子で、組織としては安定からほど遠い。
ユマは領主としてフェペスとローファンの乱闘を考えてみた。ティエレンという街には従来から住んでいた者達と、移民との間で諍いが絶えないが、伺候の手ごたえからわかるように、富貴にある者はかえって手を取り合っているようである。だがそれもうわべだけで、アルンを陰助する勢力があるように感じられた。チタータのような貧しいローファン移民は、そのせいで劣勢に立っている。
どうすればこれを解決できるのか、ユマは頭が痛くなった。さしあたり、治安を回復しなければならないが、犯罪者を厳しく取り締まるのに偏りがあれば、途端に信用を失うだろう。それならまだマシな方で、反乱が勃発することさえあり得る。
うーんと唸りながら腰を上げたユマは、そのままこの家を去るつもりだった。そろそろ宮殿が大騒ぎになっている頃だろう。
「今日は泊まっていきなよ、ユーユ」
「いや、連れを待たせているんだ。そろそろ行くよ」
ユマが腰を上げた時、ヌークの瞳が鋭く光った。どうやらこの男はまだユマに対する警戒を解いていないらしい。
「送っていくよ」
そう言って立ったヌークとともに、ユマはチタータの家を出たが、すぐに引き返す羽目になった。路地をフェペス系の若者達が徘徊していたからだ。明らかに先の暴漢の仲間だろう。
「姉貴の家を知る人間はほとんどいない。連れには悪いが今日は大人しくしていた方がいい」
暴漢を蹴散らせなくもないだろうが、それこそ暴挙だろう。
結局、ユマはチタータの誘いを受けるしかなかった。