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貴く翔べ  作者: 風雷
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第七章「決闘の街」(3)

 ユマは足元で揺らめく自分の影を見ていた。ということは、彼自身も揺れていた。

 ティエル子爵邸を出てからもう一時間近く経っている。そろそろ戻らないと家人に余計な心配をかけるかも知れないが、まだ帰る気にはなれない。

 体調が悪いわけではない。だが、うなじで強い日差しを受けていたい気分だ。

 日は中天、突っ立ったままだと足元の影はほとんど見えない。振り子のように揺れる自分の頭だけが宙に浮いたように足元から顔を出す。


(何なんだ、この街は――)


 呆れ――というよりは、困惑と言った方が近いだろう。



 デアに「ああ」以外は返答しないという妙な条件を出されて伺候に臨んだユマだったが、大広間で市民たちに顔を見せるなり、デアへの反感が全て消し飛んだ。

 大広間に入って席に着いた瞬間、まるで大波をかぶったかのような錯覚がユマを襲った。

 市民の一人一人がどのようなことを言ったのか、ユマは順序立てて思い出せない。つい先ほどのことにも関わらずである。

 ユマが俯きながらどうにか記憶を整理しようと試みたところ、市民たちがどうやらいくつかのグループに分かれて新たな為政者に訴えていたことが分かった。

 ある者は、あるいはフェペス家の遺臣なのではないかと思いたくなるほど「フェペス云々、フェペス云々」と旧主の名を連呼していた。それと同じくらい「ヤム」という名も聞こえた。


「あの田舎のオーセンどもは我らの富を全て奪い、彼らと同じ畜生の血が流れる者達に分け与えたのです! どうかチルーク! どうか、あの者どもから、我々が祖先から受け継いだ財産を取り返して下さいまし!」


 確か、最も理性的に話していたと思われる老人はこんな風なことを言っていた。不思議なことに彼らは新たな領主のことをチルークと呼ぶのである。王都ではユマ、子爵になってからはティエルとも呼ばれるようになったが、チルークと呼ばれないのは光王と同じ名だから皆が敬遠しているのだろうと思ったが、ここでは違った。


(諾と言えるはずがない――)


 ユマの表情が引きつったのは、この老人を押しのけるようにして別の者が全く逆の訴えをしたからだった。

 王都近郊の人々に比べて、明らかに背が高い。ユマはその時座っていたが、長身の自分でも仰ぎ見ずには済まない巨漢が大勢いた。巨漢といっても若者は少なく、ほとんどは老人だった。


「我らはローファン伯に命じられてローファンから無理矢理この街に移住させられただけなのです。それを、元からいた者達はまるで我らがフェペス家を滅ぼしたかのように口汚く罵り、排斥し、殺しました。私の娘は十四人に犯されましたが、誰も彼らを裁こうとはしないのです! どうか私の訴えをお聞き入れ下さい、チルーク!」


 ユマの想像は、先のフェペス側の老人に近いものがあっただけに、ローファンの移民からの訴えには完全に面食らってしまった。

 フェペスの遺民とローファンの移民との間で争いがあったことは十分に知っている。両者の関係があまりにも険悪であるために、シェンビィ公が仲介の使者を出したこともシャナアークスから聞いた。

 だが、目の前のこれはどうか。伺候とは市民が君主の機嫌を伺いに来るものであるとデアは言った。しかしユマの前で展開されたのは直訴である。挨拶の文句などひとつとして聞こえて来なかった。どちらかが嘘を言っているなどとは露程にも思わなかった。彼らの言うことは真っ向からぶつかってはいるが、矛盾しているようには――少なくともユマには――聞こえなかった。


「あ……ああ?」


 それしか言えなかった。たとえデアが妙な条件をつけなくとも、ユマには諾とも否とも口に出来ない訴えばかりがあった。「よし、考えておこう」と逃げるにはあまりにも殺伐とした空間に放り込まれたのだ。


(まるでこのまま殺し合いが始まりそうな――)


 背筋が寒くなり始めた時、デアが衛兵に指示して騒いでいた市民たちを無理矢理退室させた。ユマはその様子をあっけに取られたように見ていた。


「ご機嫌麗しゅう、ティエル子爵殿」


 普段ならば、これのどこが麗しいのか――と悪態の一つでもつくのだろうが、ユマは呆然としたまま、自分に声をかけた男の方を向いた。

 壮年である。後ろに十人ほど、先の者達とは明らかに身なりが違う者達が控えていた。


「わたくし、以前はフェペス子爵に仕えておりまして――」


 などと勝手に話を始めた男は、デアの言うところではティエレンで五指に入る富豪であるそうだった。他の者達も似たようなもので、何人かはローファンからの移民だったが、皆、互いに罵り合うようなこともせずに、淡々と新たな領主に挨拶をした。彼らは自ら名乗り、デアが素性を説明したはずだが、ユマは背筋の寒気がまだ抜けきらないのか、全く頭に入らなかった。

 最後の一人になった。


(あ、若い)


 三十路の半ばほどであろう。他の者達と比べると衣服が地味であるから、小商人が紛れ込んだのかと言われれば信じてしまいそうである。赤茶の髪は長く、癖っ毛で頭の後ろにまとめており、目が少し垂れているが、長身であるせいか弱々しくは見えない。垂れ目である以外はどこかガオリ侯に似ているが、彼ほどには威風を感じない。あれほどの男がそこいらにゴロゴロいるはずもないだろう――とユマはようやく自分の思考が正常に回り始めるのを感じた。時間の経過がそうしたというよりは、この男の視線に何か通い合うものを感じたと言った方が正しい。


「ジェヴェと申します。ご気分が優れないようですが、先の者達は気になさらずともよろしいのですよ」

「ああ……」


 ユマは初めてこの場で自分のことを気にかけてくれた男に抱きつきたくなったが、男の顔を見た途端に心の何処かが冷えた。

 何とも形容しがたい表情である。

 ジェヴェと名乗った男は言葉とは裏腹に新たな領主に微笑みかけてきたわけではなかった。だが、敵意があるわけでもなく、何かを探っているようにも見えない。ただ、自分は何かを言わねばならないのだ――と、ユマに思わせる何かがあった。ジェヴェにとって、先の空返事が明らかに不服であることはわかった。

 かといって、ユマはこの男にかける言葉が浮かんでこない。挨拶を返せばいいのか。だがそれをすれば、先に伺候を終えて後ろで立っている者達は不思議がるだろう。何しろ全員に「ああ」と返しただけなのである。若いから話が合う――と見てくれればいいが、少なくとも大広間の扉を潜る直前までは「綸言汗の如し」を気負っていたユマにしてみれば、王都で凄まじい舌禍に見舞われたこともあってか、中々次の言葉を紡ぎ出せなかった。

 ここで初めて、ジェヴェの目が静かに笑った。その意味もユマにはわからない。侮りは感じられず、かといって温もりの通うものでもなかった。何かと問えば、以前、自分に男爵位の話を持ってきた時のローファン伯に似ている。あの時のローファン伯は笑ってこそいなかったが、ただひたすらにユマという男の反応を観察していた。それはユマにとって苦痛だったが、ジェヴェの場合はどうにも違った。

 すぐさまデアがジェヴェに声をかけ、他の者達も退室した。


「初めてにしてはよくなされました。これなら明日からも心配はないでしょう」


 一体先の自分の態度の何が満足なのか――デアに問いたいと思ったのは、昼食が喉を通らないと気づいてからだった。



 さて、子爵邸を出て気晴らしに散歩するユマの話に戻ろう。


「俺は観られていたのか……」


 自分の影を踏みながら、ユマはこぼすように言った。


「尾行がありますか?」


 誰に向けた言葉でもなかったが、近くに侍っていたリュウが近寄って来た。


「いや、何でもない」


 リュウが尾行などと不穏な言葉を使ったように、ティエレンの治安はよろしくない。とはいえユマも一人で外出するほど不用心ではない。自分がいれば顔がきくからと言って同行を譲らないクゥに書類仕事を押し付けて、ユマはリュウを連れて屋敷を飛び出したのだ。今はリュウの他にも五人の護衛がいる。


(クゥを連れ歩くのは危険だ……)


 直感でそう思ったが、考えなおしてもその通りである。ローファンの移民にはフェペスの血を見ねば気が済まぬ者が確かにいる。

 ユマは自分の想念が暗い淵に落ちてゆくのが気鬱だった。


「そうだ、リュウ。チルークとはどういう意味か知ってるか?」


 徹底してチルーク、チルークと自分のことを呼ぶ市民たちが、ユマは不思議だった。王都ではそう呼ばれることは一度として無かったのだ。

 リュウに無用の心配をかけまいと――あるいは陰鬱な気を晴らそうと――急に話題を変えたものの、文字の読み書きすら疑わしい彼に問うことでも無かったと思い、ユマは「やっぱりいいや」とでも言うように首を振った。

 だが、リュウはユマのこの態度が不服だったようで、「ホウがクゥから教わった話の又聞きですが」と言った上で答えた。彼の表情には新たな主のためにそれくらいのことは知っておいて当然といった風な気負いさえ見えた。


「古語で、悪を滅ぼす正当な武力のことです」

(合わねぇ……)


 ユマは心底そう思った。自分には到底合わない名であるし、自分にこの名を与えた少年王も名前負けしているだろう。

 あるいは、市民たちは自分のことを呼んでいたのではなく、本来の意味でチルークと言ったのではないだろうか。「武力で以て奴らを滅ぼせ」と彼らは言っていたのではないか。

 身震いがした。

 前途多難とはいうが、ユマには眼前の道そのものが見えない。デアは以前のローファン伯の治世を受け継ぐ形で自分を誘導するだろう。それが最も混乱が少ないのである。だが、それは道ではない――と思うところにユマの矜持があった。


「もう少し、しゃんとしたら!?」


 ユマが思わず肩をすくめたのは、まるでシャナアークスに叱られているかのような錯覚がしたからだ。だが、この場に彼女がいるはずもない。


「あれは?」


 ユマは塀の向こうを気忙しく歩いてゆく二つの影を見やった。一人は少年で、もう一人は若い女のようだった。少年は両手に余るくらいに花束を抱えており、女の方が彼を急かしているようだった。


「何でしょう?」


 リュウがユマの視線を追う。


「大したことじゃあない。あれはフェペスの遺民だろうか? あの花はティエリア・ザリの墓にでも供えるのかな?」


 首を傾げるリュウを見て、今度はユマが不思議がった。だが考えてみれば、ティエリア・ザリが未だにティエレンの民に慕われている確証などユマにはない。彼女の死に際の惨さを思えば、同情する者は少なからずいるだろう。だがもっと深く考えてみるに、単に自分がティエリア・ザリを悼みたいだけなのだと気付いた。


(明日あたり、墓前に花くらいは添えてやるか)


 ティエリア・ザリに固執するユマのこの心境を理解できる者は一人としていないだろうが、デアはローファンの移民たちに憚ってこれを許さないだろう。そう考えるとまた気持ちが沈むが、ユマはこればかりはデアに諮って通したいと思った。


「おかしいですね。あの二人、どう見てもローファン系ですよ。ほら、髪が少し赤いし。ローファンの移民がティエリア・ザリを慕うことがあるのでしょうか?」


 リュウが奇妙なことを言ったが、今のユマにはもうどうでもいいことだった。



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