第七章「決闘の街」(2)
城塞が如きティエレンの威容に目を見張ったユマだが、それと反比例するように貧相なつくりの屋敷を見て、アカアの言っていたことが事実であったことにやや落胆した。
確かにシェンビィ公の屋敷と比べると随分と小ぶりなつくりだが、ローファン伯の屋敷程度の規模はある。だが、壮麗とは程遠い無骨さで、王宮というよりは、実際は前線基地の司令部として使われていた事実も頷ける。
ティエレンの都の北西に位置し、絶壁を背後に控えた高台に、東オロ王国の王宮――後のフェペス子爵邸があった。これからはティエル子爵邸と呼ぶべきだが。
蝋燭が少ないのか、内部は薄暗く、石造りの床を歩くと埃が舞い上がった。
「ローファン伯はここを使わなかったのかな?」
長い間、人の住んだ形跡がない。十年前のフェペス子爵以来、ここに足を踏み入れた者はいないのではないかと、ユマは疑った。
「いえ、ローファン伯から派遣された行政官が使っておりました。とはいいましても、最初の半年程だけで、すぐに別邸に移ってしまいました」
デアが歩くと、杖がこつこつと床を叩く音が響く。
「そんなに住みにくいのか、ここは?」
「いえ、フェペス家の遺民は、ローファンを毛嫌いしております故……」
「あ、追い出されたのか……」
ローファン伯がティエレンの統治に相当手間取ったという情報はユマの耳にも届いている。ティエレンを手に入れた経緯を考えれば当然で、ローファン伯に派遣された行政官はそれこそ命がけだったろう。税の徴収ひとつにしてみても、難事だったに違いない。だからこそ、フェペス家と親睦の深いシェンビィ公爵家が仲介に乗り出したのだろう。仲介のためにシェンビィ公が派遣した男が、先日何者かにより暗殺され、ユマが罪を着せられた人物であることは、シャナアークスから聞いた。
豪華とは程遠い食卓に、ユマはガオリ侯から預かったエイミーと、今は奴隷だがフェペス家の女であるクゥを同席させた。
クゥはローファン伯爵邸の時のような奴隷や使用人の格好ではなく、男物の衣服を身に着けている。ユマはアカアのように可愛らしくはなくとも、シャナアークスが着ていたような貴族の女に相応しいものを家人に用意させたのだが、
「動きにくいので……」
と、クゥに一蹴された。ユマは初めて知ったが、クゥは日常から男装を好んだらしい。闘士の甲冑をつけて街を歩くくらいだから、あるいはとユマも納得した。
(わがままを言うだけ、余裕があるか……)
ユマは特に気にもしない様子で許した。
真四角のテーブルの一辺の中央にユマが座り、左手にクゥ、右手にエイミーが腰を下ろしている。新たに封じられたユマの補佐役らしいデアは、ユマと向かい合っている。
デアが男装しているクゥを見て、一瞬だけ眉をひそめたのをユマは見逃さなかった。
「お可愛らしい、御夫人で……」
と、エイミーに視線を移したデアがユマに向かって言ったので、ユマは思わずふきだしそうになった。
「エイミーは男の子だよ?」
エイミーがデアに向かって真面目に返したので、ユマは笑いをこらえるのに苦労した。
食卓には川で獲れた物だろうか、大きな焼き魚が皿に盛られている。王都の特にローファン伯爵家は魚肉よりも牛や鳥の肉を好んだためか、オロ王国の魚料理自体、ユマは初体験である。ふと、アカアに拾われる前に川の魚を獲って食べたのを思い出したが、味付けをしなかったあの時とは比べようもない。
「ユマ様はこの街をどの程度ご存知ですか?」
「街の由来と十年前の抗争以外はほとんど知りません」
「左様ですか。では順を追って説明いたしましょう」
デアはユマがオロ王国の文字を読めないことを既に知っているらしく、現状のティエレンについて丁寧に説明を始めた。
都市ティエレン。その由来については、これまで何度も触れてきた。ユマの領地は都市ティエレンに加えて、歩いて一日ほどの地域が該当する。ティエレンの人口は二千人ほどで、街の規模としては大きいとは言い難い。
街の東に沿うようにしてアルタと呼ばれる川が流れていて、川は東に大きく蛇行し、更に南でまた西に折れる。アルタ川を越えた南はローファン伯爵領であるアルタ=ヤムと呼ばれるティエレンと同規模の街がある。ローファン伯の本拠であるローファンからかなりはなれている衛星都市で、十年前にフェペス子爵と先代のローファン伯が自領の兵を率いて剣を交えたことで有名だ。
ティエレンの主な産業は養蚕だ。産した絹はローファン伯爵領のアルタ=ヤムへと運ばれる。自給自足するには農業分野が壊滅的で、アルタ=ヤムからの小麦輸入に頼っている。
領地に関する一通りの説明を終えたデアは、これからのユマが取り掛かるべき仕事の説明を始めた。統治などしたことのないユマに大した期待はしていないらしく、ユマが理解したところでは、書類に印を押す作業以外にほとんどなかった。とはいえ、ユマはオロ王国の文字を読めない。
「秘書が必要になります。ご希望がなければ推薦いたしますが……」
「いえ、いいです。クゥにやってもらいますから」
デアが驚きをこめた目でユマを見た。
(やれやれ、こいつも同じ勘違いを……)
他ならぬフェペス家発祥の地であるティエレンで、クゥに娼婦のような真似事をさせれば、自分の身すら危ういことをユマは知っている。それとも、勝者の権利はこういった感情を凌駕するものなのだろうか。
クゥは、ユマが旅中で言い含めていたこともあって、すんなりとそれを受けた。
ユマは、ローファン伯がクゥを自分の下に付け、ガオリ侯がティエレンの主に自分を推薦したのも――提案者がシェンビィ公なのは気になるが――まず意図があってのことだと思っている。そこからたどり着いた答えが、自分の補佐にクゥを――ということだった。
エイミーはというと、出されたホットミルクを上機嫌に楽しむばかりで、会話には全く参加する素振りがない。普段は感情をどこかに置いて来た様に呆けているが、高い椅子に腰掛けて足をばたつかせてはしゃぐ様を見ると、歳相応の少年らしくは見える。
デアが何やら溜息をついている。それもそうだろう。肩書きだけをみれば、光王名指しの子爵にフェペス家の遺児とガオリ侯の直臣が並んでいるが、実際は素性の知れぬ若者と奴隷と少年がいるだけだ。ローファン伯の直轄支配から開放されたティエレンを背負って立つには、いかにも頼りない。
老人の心配を他所に、新たな都の主はかつての光王宮に移り住むことになった。
翌日、早朝に起床したユマは顔を洗う暇もなくデアに着替えを急かされていた。
「伺候?」
「はい、伺候です。ご存知ありませんか?」
侍女がシャツのボタンを留めやすいように首を上に向けながら、ユマは働き好きのように見える老人に目をやった。
「いえ、知ってます。新入りの領主は市民に挨拶をしろというわけでしょう?」
「逆です。市民が新たな領主のご機嫌を窺いに参るのです」
「どっちでも似たようなものでしょう。まあ、調度いい。ローファンの連中とは違うことをわかってもらうには良い機会です」
当然のことながら、ユマは市民を搾取の対象とは考えていない。だが、オロ王国ではそれを行わねばならない。ならばせめて仁政に徹しようという決心は、彼にしてみれば自然の帰結だった。
「なりません」
デアが不思議なことを言ったので、ユマは自分がまた何かまずいことを口走ったのではないかと思ったが、それほど過激なことを言った覚えはない。
「詳しく――」
ユマは、ここは領主らしい振舞いでデアに説明を促した。だが、デアの表情は少し暗い。
――この若造には、こんなことから教えねばならんのか……
とでも言いたげである。
「『家長の諾は娘の涙、領主の諾は百姓の血、王の諾は百卿の首』と古から云われております」
「オロの諺かな?」
デアの比喩はユマにはわかり辛い。更に説明を求めると、デアはもうあなたの無知は承知いたしましたといった開き直りとともに先の言葉を説明した。
家長は娘の嫁入り先を決めるが、軽々に諾と言えば往々にして娘は泣くことになる。同じように領主の決断は百姓の血で賄われ、王の決断は場合によっては百人の貴族の首を飛ばす。
(綸言汗の如しか……)
ユマとて、自分の発言の重さは承知している。なのでデアにあまりにも幼稚な指摘をされて不服であった。
「よくわかりました。いずれは『ティエルの諾は百金に勝る』と言われてみたいものです」
「いえ、わかっておられないご様子なので、改めてお聞き下さいませ。伺候の席においては一つとして諾と頷いてはならず、一つとして否と拒んではなりません」
「意味がわかりません。全て聞き流せと?」
「それもなりません。伺候を蔑ろにした君主は例外なく滅びます」
穏やかな老人には似合わぬ凄まじい言葉である。
「慣れるまでは辛いかと存じますが――そうですね。例えば今日はこう致しましょう。『ああ』以外は何も発言なさらないで下さい。他は全て私が致します故――」
それだけ言うと、デアは領主の答えも待たずに退室してしまった。
市民たちの待つ大広間へと向かう途中、ユマは相変わらず男装したままのクゥに話しかけたが、彼女の答えはそっけなかった。
「ここティエレンにはフェペスの遺民とローファンの移民が暮らしておりますが、彼らは一つ所で仲良く生活しているわけではないのです」
「そんなこと知ってるよ」
「いえ、御存じではない。今日ばかりはデアの言う通りになさいませ」
クゥもまたユマのあずかり知らぬ何かを知っているようである。だが、彼女もデアも自分たちの領主に言葉でそれを教えることを諦めているように見えた。
(そういえば、この街にティエリア・ザリの墓があるんだっけか……)
などと、全く関係の無いことを口の中で呟いている内に大広間に着いてしまった。