第一章「原初の声」(8)
王都に至ったのは、ユマが突然荒野に放り出された日から数えて十八日目である。アカアの予定より二日遅れての到着となった。
広々とした平野の中で、蒼穹を貫くような高い宮殿が見えた。なるほど、オロ王国は小国ではないと思わせるような堅固な城門が見え、その外側に城下町が並ぶ。道中で立ち寄った町々はまず城壁があり、その中に人が住んでいたが、王都は夥しいほどに犇く人を収容しきれないのか、宮殿の外に街があり、その外にまた村々があり、その外に田園地帯が広がっている。まるでいくつもの都市が歩いて王都の傍に腰を下ろしたかのようでもある。
この巨大な都市の名を――
「リヴォン」
という。
(ははぁ、リボンか……)
ユマは丘の上から王都を見下ろした時、妙なおかしみを感じた。
遠望すると王都の北は山脈が腰を下ろしており、西に流れる大河がうねり、王都の南方を守護している。ユマの歩いてきた東には広大な平野が広がっている。天嶮に包まれたこの都市は、北側に宮殿があり、それに結ばれるようにして東西に大きな城下町がある。上空から見下ろせば、結んだリボンのようにも見えるだろう。
更に、遠くに見える河の色だ。深い紅色をしている。
「紅河です。上流に八本の支流があり、八尾ともよばれています」
気味悪そうに河を遠望するユマを見て、アカアが言った。
「渡来人にはちょっとばかり不吉だな……」
アカアが首を傾げたが、ユマは顔をしかめたままでこれ以上言葉を発しなかった。
さて、王都である。
東西に展開した城下町はいかにもといった風情で、ユマが足を踏み入れた東の城下町は活気に満ちていた。東西の町にはそれぞれ名があって、西を「リ」、東を「ヴォン」をいうらしい。オロ王国には一時期を除いて遷都の歴史はないから、これら二つの集落が王国の出発点であったのかもしれない。
繁華街らしき場所も遠望できるが、筋金入りのお嬢様であるアカアがそんな場所に足を踏み入れるはずもなく、ユマは丁寧に舗装された石畳の道路に感心しながら、過ぎ行く建物や人々を観察していた。煉瓦で固めた五階建ての集合住宅のようなものも見えるが、瓦葺の東洋風な建物もあった。
「やっぱり奴隷がいるな……」
地域だけの古びた習慣であればと淡い期待を持っていたが、どうやらそのようなはずもなく、ユマは酷使される奴隷を見るたびに不愉快な気分になった。
「秘書奴隷というものもいます」
憮然となったユマを見たアカアが、何も奴隷の仕事が肉体労働に限らないことを示唆したが、
「彼らには自由がないんだろう? それじゃあ、奴隷に変わりない」
と、一蹴された。
「明日、王都を案内してさしあげますわ……」
アカアにそう言われたこともあって、ユマは熱心に観察することをやめた。旅疲れがそうさせるのだろうが、彼が窓の外を見ていた姿を驚いたように見上げていた奴隷がいたことに気づかなかった。
いつの間にやらローファン伯の屋敷に着いたようだ。日も暮れ、ヴォン北部の高台にあるその場所は静かな空気の中で豪奢な光を放っているようにも見えた。
(思ったほど大きくないな……)
と思ったのは屋敷の大きさに対してで、敷地自体は相当に広い。左右対称に作られた白壁の美しい建物で、中におびただしい数の燭台を想像してしまうように、窓から光が漏れている。
訪問客を威圧するかのような鉄製の門で、ユマは馬車を降ろされた。車上姿で敷地内に入ったのはアカアただ一人である。
馬車を追って歩いてゆくと、使用人らしき人々が屋敷の前で整列している。
「おや、メイドがいるじゃないか」
と、傍らで歩くリュウに話しかけたが、田舎から出てきたばかりの彼の耳には届いていないようだった。
黒地の衣服はヌルを髣髴させるが、彼のように運動に優れたつくりではなく、下部はスカート状になっている。その上に白のシャツを着ていて、服が緩まないように引き絞っているようだ。頭にはカチューシャのようなものをつけていて、人によって白や黒と色が違う。ユマの目にとまったのは女性の格好だが、男に関しても下がズボン状のものを穿いているだけであまり変わらない。
彼らとは全く違う、黄色をベースにした緩やかな衣服に身を包んだ女性がいる。少々肉つきがよく、小太りと言ってよいが、温和な空気が体貌にあらわれている。髪は後ろに団子に纏めていて、やはり赤い。
「お母様!」
アカアは馬車から飛び降りるようにして、母に走り寄った。
「アカア、健やかで何よりです。ですが、馬車から飛び降りるのはおやめなさい」
声がやわらかい。母にたしなめられたアカアは小さく畏まると、母の目を盗んでユマの方を見、舌を出した。
「そちらの方が?」
アカアから既に使いを出していたのか、ユマの存在は既に母の知るところだったようだ。
「術士のユマ先生です」
予想通りの紹介をされたユマは、ローファン伯爵夫人に軽く会釈をした。ユマが簡素な挨拶を行っただけなのを見て、彼女は少し驚いたようだった。
(跪くべきだったかな?)
だが、ここで慌てて慇懃な態度をとっても侮られるだけだろう。
「先生はどちらのご出身ですか?」
「東京です。ちなみに私は術士ではなく、学者です」
術士などという虚妄は、すぐにはがれる。そう思ったユマは、ここで自分に対する誤った印象を拭い去ることにした。学者と自称したのは自分がこの世界の人間があずかり知らぬ思想を持っているからという淡い自負からだった。ただ、ユマの持つ知識は小説や劇画から荒く学んだ半端なもので、それが異文化から見れば有益ではないことには気づいている。しかし彼の持つ財産は――例えばアカアがユマの毛布を絶賛したように、ある程度はオロ王国の文化と折り合いをつけることができるという予測がある。早い話が、とりたてて手に職もないユマが異文化の中で生きていくには舌先三寸を駆使する以外に道がないのだ。
「トオキョオ……聞きなれない名ですね」
「当然です。地の果てより遠い……」
これにはアカアが助け舟を出した。勿論、ユマを助けるつもりなどもなく、彼女はユマと話すうちに導き出した自論を披露したかっただけのようだ。
「古典にある、『十の太陽が昇る都』ではないでしょうか。いくつもの海を越えた東の果てにそのような地があると読んだことがあります。先生にお話したところ、先生の故郷では古くは十の太陽があったという伝説があるとのことです」
アカアは得意満面だったが、十の太陽が同時に昇るという伝説はユマの故郷にはない(あるかもしれないが少なくともユマは知らない)。ただ古代の大陸人が太陽を十種に分け、それぞれに名をつけていたことをユマはどこかで読んだ記憶がある。
――そのような遠方から何のために?
伯爵夫人の目がそう問うている。
「西方のことを知るべく、旅をしておられるとのことで、しかし道中、自動車が故障し、立ち往生されていたところを私が通りかかったのです」
この後、アカアが自動車について力説したために、妙に長い立ち話となった。伯爵夫人もこれには興味を示し、すぐに回収に当たらせることを約束した。
ようやく、ユマは屋敷に入ることが出来た。
(会話の手ごたえ次第では俺を追い出すつもりだったらしい……)
アカアの客人であれば食事時にでも問えば済む話だろう。それをわざわざ邸宅の前で行ったところに、伯爵夫人のユマに対する警戒感があったことは確かだ。伯爵夫人本人がユマとの会話を行ったことから、アカアが自分に対して好意的に解釈した情報を夫人に与えたことは間違いない。彼女を警戒させる何かは、これはユマの直感だがヌルが吹き込んだものかもしれない。
――あの者は他国の間者かもしれませぬぞ。
くらいのことは言ったかもしれない。だが、同時にヌルはユマがあまりにも旅慣れていないことに疑問を持っただろう。それから導き出される答えは一つしかない。
「車か……」
乗り物と言えば馬車しか知らない人々を驚愕させるには十分だろう。
(車が見つかれば、とりあえずは安泰かな……)
ユマはそう楽観した。
後で知らされたが、どうやらローファン伯は留守のようで、自分の安全を確保するにあたって最大の難関をひとまずは回避することが出来た。ローファン伯がどのような人間か、ユマは知らない。アカアの人物評はあてにならず、だが伯爵位についている以上、愚鈍でもあるまい。彼が異邦人に対して寛容であるかどうかは、使用人には聞けない。嗅ぎ回っているという事実がマイナスに働くことを恐れたのだから、ユマの臆病さはどこか的を外していて滑稽ですらある。
「車は重い。馬車の三倍は考えたほうが良いですよ」
食事に招かれたユマは、伯爵夫人に忠告した。ユマが車を乗り捨てた場所は他の領主の支配下であるようで、伯爵夫人がそれを警戒したからだ。
「それに、鍵がなければ動かない」
ユマはキーケースから出した鍵を見せびらかした。ちなみにユマは伯爵夫人が人をやったとしても車を回収できないと思っている。何より故障している上に燃料の問題で後数キロ走ればがらくたとなることと、視覚的な印象を与えるだけでよいと思ったからだ。
「それが鍵なのですか? 装飾だとばかり思ってました」
自分の知らないことがまだあったことに対して、アカアが恨めしそうに言った。
ユマは長方形に近い円卓の端の席についている。逆端に伯爵夫人が座り、横向かいにアカアがいる。それなりに声を張らなければ会話にならない。
ユマが閉口したのは、二人とも素手で食事を行っていることだった。
(そりゃあ、西洋では結構な時代まで素手で食っていたような話を聞くが……)
箸もなく、それを必要とする料理もない。羹ばかりはレンゲのような底の深いスプーンですくうことが出来るが、他が壊滅的に不慣れだ。左横でメイドが手洗い用の水を汲んだボールを持っているが、ユマは肉切れを一つ口に運ぶごとに、神経質に手を洗った。メイドはよく教育されているようで、不満を顔に出すようなことはなかった。
メイドの美しさはアカアには劣るが、目元にアカアには無い強さが見える。自我の強さである。誇り高いというわけでもなく、職務を忠実に行うというまっすぐな気持ちがあらわれている。背は少し高く、髪は黒い。体を引き締めるような衣服が、彼女の体が引き締まってしかも豊かであることを強調している。
(こいつを伽につけられたら抱いてしまいそうだ……)
と、ユマはメイドの顔をしげしげと眺めながら思った。メイドはユマの視線に気づくと、ユマにしかわからないような微かなはにかみを見せてから、目を伏せた。
例のごとく、蒸風呂に入ったとき、同じメイドがユマの垢を擦りに来た。
「リンと申します。至らぬところがございましたら、何なりとお言いつけ下さいませ」
垢を擦られて良い気分に浸りながら、ユマはふと、今の自分が奇跡的に生き残っているに過ぎないことを思い出した。
(あの時、アカアと出会っていなければ……)
この後、ユマはあらゆる場面で同じ台詞を心中で吐くことになる。それが自分にとって足かせになるとは知らずに。
――ローファン伯はどういう人かな?
喉まででかかった言葉を、ユマは飲み込んだ。使用人が主人を批評するわけがない。
「君も車を見たいのかな?」
あえて違う話題を切り出した。
「はい、馬もなしに自力で走る車というものには興味がございます」
「乗ってみたいか?」
「いいえ、わたくしなどは……」
「そうか……」
この言葉を最後にユマが黙ってしまったので、リンは彼が機嫌を損ねてしまったのかと不安になったが、少しすると寝息が聞こえてきたので、胸を撫で下ろした。
寝ぼけ眼のまま、寝室へとたどり着いたユマだったが、アカアと出会った幸運がこの日の内についえていたことには気づかなかった。
一章「原初の声」了
二章「闘士衝冠」へ続く