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貴く翔べ  作者: 風雷
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第六章「鉄の荊」(6)

 いつものように、もはや泣き叫ぶことも諦めかけたティエリア・ザリを、今夜はどのようにして苛め抜いてやろうかと、女の乳房をもてあそんでいたウォレス・ローファンは、突然ドアがぶち破られる音とともに、この場が地獄に変わったことを知った。

 闇の中での格闘である。

 ローファン男は純粋なオロ人より背丈で遥かに勝る。体躯もがっしりとしており、力で押し負けることはない。ヤムの血筋はオロのものだが、ローファンに腰をすえてからは地元のローファン人と急速に混血した。ウォレス・ローファンはその典型でもあった。

 一人目を投げ飛ばし、二人目の顔面を拳で潰し、三人目の剣を避けざまに体当たりをくらわす。全裸のまま闘い続けるウォレス・ローファンの膂力は悪鬼に近いものがあった。狭い屋内での格闘は二人から三人が限界だから、武具も着けぬ彼が善戦できたのだ。

 やがて、フェペスの手勢が怯み始めるとウォレス・ローファンはティエリア・ザリの手をとって抱きかかえた。彼は、フェペス子爵が妹もろとも自分を葬りに来たと本気で思っていた。

 ティエリア・ザリは、今こそ全力で抵抗すべきであるのに、それをしなかった。彼女もまた、兄が自分を生かすとは思っていなかったのだ。

 少人数でかかってもらちがあかないと思ったフェペス子爵が小屋の壁を壊すように命じると、それを知ったウォレス・ローファンは、壁が壊される前に窓を割って脱出を計った。

 だが、フェペス子爵はそれさえも見越していたのか、飛び出した先に射手をそろえて待っていた。

 フェペス子爵の右手が上がった。これが振り下ろされれば、自分はティエリア・ザリもろとも蜂の巣になる。


「そこまでだ。蛮族め。よくも我が妹を愚弄してくれたな!」


 怒気も過ぎれば人が放つのは怒号ではなく、途方もなく静かな声であるらしい。

 ウォレス・ローファンは会話に応じなかった。何を弁解しても無駄だと思ったし、彼自身、自分が一方的に悪であることを承知していたからだ。


「命が惜しければザリを放せ!」


 フェペス子爵の見え透いた嘘にも男は動じなかった。動じないどころか、抱きかかえたティエリア・ザリの白い乳房に口を吸いつけた。卑猥な音が酷く静かな夜に響いた。

 髪が逆立つほどに怒ったフェペス子爵は、しかし躊躇わずに右手を振り下ろした。部下には事前に妹を傷つけたものには斬刑に処す――と釘を打ってある。だが、二人が重なり合うような今の状況では、それも無理だろう。誰もフェペス子爵の合図に従わなかった。


「何をしている。囲め、囲め!」


 フェペス子爵が配下の兵を怒鳴り付けると同時に、彼の右肩に飛矢が刺さった。


「うぉっ!」


 眼前の草間から矢が放たれた。

 思わぬ方向から攻撃を受けたフェペス子爵配下の兵は、何よりもまず、主を守るために円陣を組んだ。フェペス子爵は軽傷だったが、見た目の出血が激しかったために配下の兵に動揺が走った。

 これを好機とみたウォレス・ローファンは、ティエリア・ザリを抱きかかえたまま、フェペス子爵に背を向けて走り出した。

 だが、彼は選択を誤った。

 フェペス子爵配下の兵は、依然として彼に(やじり)を向けたままなのだ。ティエリア・ザリを傷つけることだけが障害であった彼らは、闇の中で青白い背を向けた男に向かって一斉に矢を放った。

 幾本かがウォレス・ローファンの背に的中した。彼が倒れこむと、抱えられていた女は地面に転落した。

 呻くような声を上げたティエリア・ザリが見たのは、自分に覆い被さるようにして矢を背で受ける男の姿だった。

 ティエリア・ザリは腹の底から、強烈に熱くて苦い何かがこみ上げるのを感じた。それが目元にあふれ出した時、男は口を開いた。


「君にとっては冗談に聞こえるかもしれないがね。こういうことなんだよ。私にとっての君とは、こういうことなんだ……」


 やがて、自分に覆いかぶさっていた男の重みが増した。彼の背が血まみれになり、そこに数本の矢が立っていることを知った時、ティエリア・ザリは獣のように吼える自分を、どこか遠いところで見ているような感覚がした。

 飛矢はまだ止んでいない。そしてそれらはもう、自分達に向けられているのではなかった。

 突然、草間から五、六人の男が現れ、フェペス子爵の手勢と交戦していた。

 その中の一人がティエリア・ザリの元に走り寄ってきた。


「若様!」


 どこか、見覚えのある男だったが、ティエリア・ザリはたった一度会ったきりの、ウォレス・ローファンの従者の顔など憶えていなかった。

 意識を取り戻したウォレス・ローファンの肩を担いだヌルの傍に、さらに数人の仲間が駆け寄る。


「ヌルよ。彼女を忘れるなよ……」


 この期に及んでティエリア・ザリを連れ去ろうとする主人にヌルは呆れる思いだったが、彼の仕事は飽くまでウォレス・ローファンの救出である。彼女にかまっている暇はなかったが、二人の部下をティエリア・ザリにつけた。

 名誉ある伯爵家の息子は、全裸で血まみれのまま馬にくくりつけられて夜の道を爆走した。

 ティエリア・ザリが連れ去られるのを見たホルオースは、部下から弓矢を取り上げると、彼女を乗せて走る馬に向かって射た。

 矢は、ティエリア・ザリの乗る馬ではなく、女を守るようにして走っていた殿(しんがり)の男に当たった。男は声もなく落馬した。

 妹に向かって矢が放たれたのを見たフェペス子爵は、凄まじい勢いでホルオースを罵ったが、彼の判断が正しかったことを誰もが知っていた。

 ヌルの率いてきた配下は夜目に優れていて、松明もない中を軽快に疾駆した。フェペス子爵の手勢は量では遥かに勝りながら、彼らを取り逃がした。



 規模でいえば小競り合いと呼ぶのも大げさなものだったが、フェペス子爵の手勢とヌルが交戦した地域は、ちょうど両家の領地の境界にあたる場所で、妹を連れ去られたフェペス子爵がいかに激怒しようとも、軽々と多数の兵を送り込むことは不可能だった。今や力関係でフェペス家を凌駕するローファン伯爵家に、領地侵攻に対する軍事報復の名目を与えてしまうからだ。

 だが、ウォレス・ローファンによるティエリア・ザリの誘拐は堂々たる事実である。

 フェペス子爵は、直ちにティエリア・ザリの返還とウォレス・ローファンの処刑を行わなければ、ことを王宮にまで持ち込むといってローファン伯を脅す方法をとった。すぐさま報復のための軍旅を催しても、現在のフェペス家の武力ではローファン伯爵家にとても及ばない。

 本来はフェペス家とローファン伯爵家だけの問題のはずだったが、ローファン伯がシェンビィ公の仲介でフェペス家との交誼を回復しようとしていた矢先にこの事件が起こったことで、ローファン伯爵家側がシェンビィ公の顔に泥を塗る形になった。

 ウォレス・ローファンは父が相当に怒っていることは当然わかっていたし、廃嫡はいちゃくも覚悟した。だが、彼はティエリア・ザリをフェペス家から奪い取ったという一事に満足してしまったのだ。

 数本の矢を背に受け、重傷を負ったウォレス・ローファンを見舞ったローファン伯は、息子の顔を見るなりうつ伏せになった彼の背を鞭打って怒鳴った。


「よくもやってくれたな。お前は今、自分が城下の下民どもに何と呼ばれているかを知っているか?」


 ウォレス・ローファンは怒り狂う父に向かって言った。


「父上、よくわかっております。私はもう、父上の跡を継ごうなどとは思っておりません。ただ、あの女とローファンのはずれでひっそりと暮らすことだけは、どうかお許しください……」


 この台詞でローファン伯が余計に怒ったのは言うまでもない。


(廃嫡も、罵声も、甘んじて受ける。彼女さえいればそれでよいのだ)


 ウォレス・ローファンは念願のティエリア・ザリを手に入れたが、ついに彼女との再会を果たすことはなかった。

 シェンビィ公から見放されることを危惧したローファン伯が、フェペス子爵の要求の半分を呑んだからだ。彼は息子に断ることもなく――その必要もなかったが――ティエリア・ザリをフェペス家に返した。ウォレス・ローファンについては、廃嫡することでフェペス家の怒りを解こうとした。

 フェペス子爵は多少不服だったが、これに応じる。ウォレス・ローファンの娘アカアとバトゥ・フェペスの婚約も解消されなかった。ローファン伯はシェンビィ公に向けても多量の(まいない)を贈り、今回の一件はただの事故であることを宣言させた。

 ティエリア・ザリの返還を知ったウォレス・ローファンは、自分の悪行を脇において、父を憎悪した。

 一方のティエリア・ザリは、完全に被害者として扱われた都合、兄から何の咎も背負わされなかった。

 これで全ては元の鞘に戻るはずだった。

 だが、もう既に新たな事件――過去の事件から誘発したそれは起こっていた。


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