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貴く翔べ  作者: 風雷
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第六章「鉄の荊」(4)

 ウォレス・ローファンは十歳は年下のウルツェウェンド・ガオリに心酔していた。

 田舎領主に過ぎないガオリ子爵の息子にしては、魔術の素質がないために王都の最高学府である精霊台には通えないものの、学者顔負けの知識を誇り、流行にも敏感で、王都の娘達の憧れにすらなっていた。そんな彼を、ウォレス・ローファンは妬むでもなく、羨むでもなく、ただ単に尊敬した。恐らく彼が、この後のガオリ家の台頭を予感した最初の人だったろう。

 逢いたくてたまらないティエリア・ザリを想って、悶々と日々を送っていたウォレス・ローファンは、これまでの彼の人生で最大の秘事を、思いきって友人に打ち明けた。勿論、ティエリア・ザリが黒男爵であるという事実は隠して。

 すらりと伸びた鼻先。薄い唇に優雅な顎鬚。二重の目は時に穏やかであり、それだけでは済ませないぎらつきを常に秘めている。己の鋭さを持て余している頃のウルツェウェンド・ガオリはこのような若者だった。どうしてこうも違うのだろう――と、彼と会う男達がため息をつくような中で、「ウルツ。やあ、ウルツ!」と気軽に声をかけるウォレス・ローファンも大した男だった。


「えっ、白薔薇のティエリアに会われたのですか?」


 伯爵家と子爵家という格の違いもあって、ウルツェウェンド・ガオリは常にウォレス・ローファンに対して敬意を払うことを忘れない若者だった。


「なあ、ウルツ。私はどうすればいい。忘れようにも、どうにも彼女の印象が強すぎて駄目なんだ。この頃は特に酷い。妻を抱いている時にさえ彼女の顔を思い出して、つい名前を呼びそうになるんだ」

「それは重症ですね……」


 二人とも、ウォレス夫人に悪いなどとは露ほどにも想わない。浮いた噂が尾をつけて歩いているというのが二人の持つ唯一の共通点だったからだ。もっとも、女達の大半は美男であるウルツェウェンドに傾くのだが。


「どうすればいいのだろう、私は。このままでは気が狂ってしまいそうだよ」


 気に入った村娘がいれば、その場で拉致るような男とは思えない発言だった。だが、ウルツェウェンド・ガオリも、蛮族出身だけあって、都会の貴族ならば、たとえ行っても絶対口にはしないような言葉でウォレス・ローファンを元気付けた。


「いっそ、奪ってしまったらどうです? ローファンとフェペスで婚姻を結ぶのなら、何も貴方の娘である必要はないのですから……」


 フェペス子爵の妹への溺愛ぶりを王都で知らぬ者はいない。単純にウォレス・ローファンが今の妻と別れて彼女に求婚したとしても、全て子爵に握りつぶされるだろう。ウルツェウェンド・ガオリが、その顔つきからはとても想像も出来ないような強引なアイディアを口にしたのは、彼が友人の話を聞く内に、ティエリア・ザリに脈が全くないというわけではないということに気づいたからだ。


「最大の難関は、恋文を彼女だけに読ませることです。彼女が屋敷を抜け出すほどに貴方を愛していれば、必ず成就するでしょう……」


 恋文を渡すのにも、仲介の相手を選ばねばならない。そこで、ウォレス・ローファンはティエリア・ザリが黒男爵であるという事実を踏まえて、彼女の正体を知っているに違いない二人を特定した。

 この前あった感想から、フェペス子爵がそうでないのは明らかだ。候補に挙がったのは、ティエリア・ザリの侍女と、フェペス子爵夫人だ。

 そして事情を知らなくとも仲介を引き受けてくれそうなのは、娘のアカアの婚約者であるバトゥ・フェペスだ。

 三人のうちで、自分に好感を持っており、かつティエリア・ザリと自分の仲を取り持ってくれそうなのはバトゥくらいのものだが、彼は王都に留学中でティエレンには当分帰らないだろう。

 そう考えると、ティエリア・ザリの蛮行を黙認していたフェペス子爵夫人に目をつけるのが当然だろう。ティエリア・ザリの侍女は常に主と行動をともにしており、それならば本人に会う機会を待った方が良い。

 ウォレス・ローファンは彼にしては念入りに、フェペス子爵夫人の身辺を洗った。そして彼女がどうやら黒男爵の起こした凄惨な事件の火消しを行っていたことを突き止めた。

 もはや少壮に達しようとしていた男は、我慢をしなかった。彼は贈り物と称して多量の金品を子爵夫人に届けると、挨拶を書いた文面に次の文を紛れ込ませた。


――……以前、とある貴人から帽子をお預かりしたのですが、返す機会のないまま、今に至っています。向日葵の(うるさ)くなる頃に、最初にお会いした場所で待つつもりですが、もしも現れない場合は、子爵殿に帽子を預けることにします。


 真相を知らぬフェペス子爵ならば全く理解できないだろうが、黒男爵=ティエリア・ザリという事実を知っている子爵夫人は、ウォレス・ローファンが自分を脅していると知って、驚愕した。向日葵の煩くなる頃――というのはオロ王国での夏至を指す。

 知恵の浅い彼女はこの手紙をそのままティエリア・ザリに渡した。彼女は自分に任せておくように――と、命令口調で兄嫁に言いつけると、しばらくの間部屋にこもったまま出てこなかった。

 夏至の日、ティエリア・ザリはしばらくぶりに男装して、屋敷を抜け出した。



 むせ返るような暑さの中、ウォレス・ローファンは供も連れずに町外れの道に馬を止めていた。

 蝉の鳴き声がけたたましいが、道端の木々は風一つない中で深々とそびえ立っていた。

 細めた目に、陽炎に揺らめく人の姿が映った。

 ローファンの跡取りは、この瞬間、死を覚悟した。ティエリア・ザリが自分の脅しに屈しないのであれば、あれはローファンの不届き者を殺すために雇われた刺客に違いないからだ。自分がティエリア・ザリなら必ずそうする――と、ウォレス・ローファンは確信する自分をおかしく感じた。それでも彼女に逢いに来てしまった己の若さに驚いたのだ。

 見えた。

 赤茶の毛色をした良馬に跨った、黒衣の麗人である。

 ウォレス・ローファンは手に持った黒帽子を思わず握り締めていた。

 黒男爵はつばの広いことまでは以前と同じだが、衣装に全くそぐわない白い帽子をつけていた。白の生地に白い刺繍で薔薇模様を浮かび上がらせたものだ。

 男はそれが、白薔薇のティエリアとまで異名されるほどの、彼女のトレードマークであることを知っている。

 ティエリア・ザリは自分を脅迫した男から二十歩ほどの距離まで来ると、荒々しく馬を止めた。

 ウォレス・ローファンはそれでも動かなかった。彼女が白薔薇のティエリアであることは間違いない。だが、自分は黒男爵と会うと宣言してしまった以上、黒男爵として現れた彼女の真意を知る必要があるのではないか――と、彼はこの期に及んで、悪く言えば尻込みした。

 男装の麗人が馬を下りるのを見て、ウォレス・ローファンはそれに倣った。

 すらりと剣を抜く音が聞こえた。

 振り返ると、白薔薇をまぶしたような帽子が、はたりと地面に落ちるのが見えた。軍靴を履いた女の細い足と、地に向けられた剣先が視界を横切った。

 ティエリア・ザリは自分を殺しに来た。

 それを確信した時、ウォレス・ローファンは静かに剣を抜いた。



 いかな女だてらに剣を学んでいようとも、蛮族相手の戦で鍛え上げたローファン男の膂力に敵うはずがない。

 幾度か打ち合った末に、剣を弾かれたティエリア・ザリは、既に覚悟を決めていたのか、力なく座り込んだ。


「殺しなさい……」


 進むも退くも破滅しかない彼女には、この選択肢しかなかった。誇り高い白薔薇のティエリアは、二度も敗北して生きながらえるようなしぶとさは持っていなかった。

 ウォレス・ローファンは、極薄のガラス細工にも似たこの女を押し倒すことに、もはや何の躊躇もなかった。

 肩をつかまれて押し倒されたティエリア・ザリの目の前に、野獣にも似た男の顔があった。そこから目をそむければ、先ほどまで青々と広がっていた空がねずみ色の雲に覆われてゆくのが酷く鮮明に映るだけだった。

 驟雨(しゅうう)に襲われても、ウォレス・ローファンは呼吸を忘れたように、目の前の薔薇をひたすらに貪った。悪名高い黒男爵の衣装を破り捨て、女の腿が泥だらけになっても、貪るのをやめなかった。やがてそれが四度に及んだ頃、声も枯れ果てた女の喉下に、玉粒のような汗が一滴落ちた。雨はもう、止んでいた。

 自分の半生の中で、今が最も満たされた時間であることに気づいた時、男は得も知れぬ悲しみに襲われた。目も虚ろに空を見上げる白薔薇のティエリアは、以前見た彼女と比べても、格段に美しかったからだ。


「この道を少し登ると、旅人が使う小屋がある。十日後にそこで逢おう。私が手紙に書いたことをゆめゆめ忘れぬように……」


 男はティエリア・ザリが自分に従う以外の選択肢を見つけられないことを知っていた。黒男爵の正体を子爵に告げれば、いかな溺愛する妹でも無事ではすまず、誇り高い彼女は自分が穢された事実を誰にも語らぬだろう。高潔な白薔薇のティエリアという肩書きは、もはや彼女の存在意義ですらあったからだ。

 慈悲の欠片もない男の台詞が聞こえたのかどうか。ようやく我に返ったティエリア・ザリが破り捨てられた衣服に手をかけた頃、ウォレス・ローファンは馬の鞍に手をかけた。

 男は去り際に高らかに嗤ったが、下卑た快楽に耽溺(たんでき)したわりには、酷く高潔な張りが声にあらわれていて、自分でも不思議がった。

 これは紛れもなく、ティエリア・ザリにとって人生最悪の体験だった。だが、彼女の心は怒りで沸騰することもなく、悲しみに嗚咽することもなかった。ただ、どういうわけか、彼女はもう、人の肉を裂きたいとか、そこから血のにじみ出るところを見たいという衝動に駆られなくなった。

 十日後、蒸し暑く、空気の重い密会の場に、ティエリア・ザリは赴くのである。


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