第六章「鉄の荊」(3)
屋敷に戻ったティエリア・ザリは目を真っ赤に泣きはらした。兄や従者が心配して彼女の部屋の前まで来ても、決して近づけなかった。子爵夫人だけが、彼女が黒男爵であることと何らかの関連性があるということに気づいていたが、何かを夫に伝えることも出来なかった。
ティエリア・ザリがようやく部屋から顔を出した数日後、ウォレス・ローファンがフェペス家の屋敷を訪れていた。
彼は歓待したフェペス子爵に、黒男爵から奪い取った帽子を自慢気に見せびらかした。
「ほう、あの黒男爵をねぇ……」
民を守ることにはあまり熱心でないフェペス子爵は、物珍しげに帽子を眺めていたが、やがて彼の膝元に一人の少女が駆けてきて帽子を触ったので、思わず口元を緩めた。
「おや、可愛らしい」
口いっぱいに鶏肉をほおばりながら、ウォレス・ローファンが言った。
「末娘のクゥです」
「ああ、ご息女でしたか。なんとも可愛らしい」
「さあ、クゥ。ご挨拶しておいで……」
青い髪の少女はとてとてとウォレス・ローファンの元に駆け寄り、丁寧にお辞儀した。
「アカアと、良い友達になっておくれ」
ウォレス・ローファンはたまらないといった風に、可愛らしい少女の頭を撫でた。彼もまた、幼い娘を持っているからその視線には澄みのある愛情がこもっていた。ローファン伯爵家を悪鬼か何かと思い込んでいるフェペス家の者達は、彼のこの態度をみて心のどこかを緩めた。偶然ではない。クゥを食卓に呼びつけたのはフェペス子爵本人だったから、彼の計算だった。それに気づいたウォレス・ローファンがフェペス子爵の期待に応えたに過ぎない。
両家の因縁など露ほどにも知らない少女は、部屋の隅で立っている彼の従者の前まで行くと、同じようにお辞儀をした。
「はは……ヌル、無理をするな。顔がひきつっているぞ!」
食卓に笑いがこぼれた。
ローファン伯爵家と和解するというフェペス子爵のもくろみは、この時点ではそれなりに成功していた。だが、彼がティエリア・ザリをローファンの後継者に紹介したことで、結果的にフェペス子爵は棺桶に片足をつっこむことになった。
兄に呼び出されたティエリア・ザリは、しかし聡明なティエリアと呼ばれる自分に誇りを持っていた。彼女の不幸は、ローファン伯爵家の跡取りが来訪していることを知らなかったことだ。
ウォレス・ローファンは好色家でも有名だった。フェペス子爵は彼の目から妹のザリを守らなくてはならなかったが、ローファンの話をする際に、彼がローファン女の美しさを自慢しだしたので、つい反論してしまった。ウォレス・ローファンがティエレンを訪れた理由の一つがティエリア・ザリを一目見ることだったのだが、彼はそれをフェペス子爵からうまく引き出したのだ。
フェペス子爵は彼の方で、妹のザリが突然へそを曲げては困ると思い、ウォレス・ローファンの来訪を告げていなかった。彼女は表面上はアンチ・ローファンを装っていたからだが、このこともあって、ティエリア・ザリはとある貴族に目通りするという妙な情報だけ与えられてめかしこむ事になった。
食堂で最後のデザートが出された頃、三十路を超えているのに落ち着きを知らないウォレス・ローファンは、自分の身なりを整えるのに必死だった。
「ヌル、これで大丈夫かな? ウルツみたいにカッコよくきまってるかい?」
「大丈夫です、若様。堂々となさいませ。ウルツェウェンド様もそうなさいましょう」
王都からわずか百公里しか離れていないティエレンは、寂れた街の住民は別として、そこに住む貴族達だけは王都の流行に敏感で、相当に垢抜けていた。対してローファンの本拠は王国の東辺というべきで、フェペス家からみれば彼らは田舎物にしか見えない。
「はて、ウルツェウェンド……とはどこかで聞いた名ですな」
前髪が思うように整ってくれないのを気にしながら、ウォレス・ローファンはフェペス子爵の問いに答えた。
「ああ、ガオリ子爵の一人息子です。中々の美男ですよ、彼は……」
フェペス子爵は口元をかすかに曲げた。
ガオリ子爵といえば、最近になって王国に帰属した南蛮の小部族ではないか。やはり、ローファンのような田舎君主にはお似合いだと思ったのだ。わずか十三年前のガオリ家はこの程度の存在だった。
余談になるが、これから十年後に光王が崩御した時、光王の弟のひとりが叛乱を起こしたのだが、その時には既に子爵位を継いでいたウルツェウェンド・ガオリだけが幼い光王の嫡子を王宮から連れ出し、トグス公爵家に奔った。彼の怜悧さは、次期光王の無事をすぐさま他の二公に知らせて、光王の弟から彼らを引き離したことにある。やがて叛乱の首謀者は殺され、光王は真っ先に自分を助け出したウルツェウェンド・ガオリに侯爵位を与えることになる。
自分より十歳は年下のウルツェウェンド・ガオリを中々の美男と評するウォレス・ローファンだったが、彼自身の顔つきはさほど整っているわけではない。ただ、体躯が雄大で、長く大きい顎には威厳があり、武家の跡取りとしては相応しい顔つきをしている。
(やれやれ、こんな野獣にザリをあわせる羽目になるとは……)
フェペス子爵は己の迂闊さを呪いたくなった。
やがて、王国一の美女と名高いティエリア・ザリが姿を現した。
コツ、コツ――と、底の高い靴が床を叩く。落ち着き払ったその音にまず、男は言い知れぬ期待に胸を膨らまし、やがて途方もなく広い青空が花びらを散らしながら己の視界を通り過ぎてゆくような感覚を味わった時、自分の視線が一人の女に釘付けになっていることを知った。
「若様……若様!」
背後で控えるヌルに袖を引っ張られた時、ウォレス・ローファンは自分が思わず立ち上がってしまったことを知った。
白薔薇のような衣装を纏ったティエリア・ザリは、ウォレス・ローファンの前まで歩み寄ると、丁寧にスカートの端をつまんでお辞儀をした。先ほどの少女が行ったそれとはもはや次元が違った。彼女が何かひとつでも動作する度に、芳しい香りがほのかに立つようだった。
ウォレス・ローファンは、少しの間呆然としていたが、やがて彼女と目が合ったとき、これまで感じていた優雅な体験が全て消し飛ぶほどの衝撃を受けた。
ティエリア・ザリもまた、ウォレス・ローファンと目が合った瞬間、彼の顔に釘付けになった。
ほんの数日前、剣を交したばかりの相手が目の前にいたのだ。動じないはずがなかった。ウォレス・ローファンは事態を飲み込みきれず、ティエリア・ザリに至っては、兄以外で最も正体をばらしてはいけない相手に知られてしまったのだ。己が黒男爵であるということを。
咳払いが聞こえた。停止した二人を訝ったフェペス子爵だった。
「どうかしましたかな?」
彼の方は、妹のザリのあまりの美しさに、ウォレス・ローファンが度肝を抜かれたのだと推測した。確かにそれもあったが、ことの真相をフェペス子爵に悟れというのは酷だろう。
「何でもありませんわ。お兄様……」
ティエリア・ザリはにこやかに席に着いた。
その後、ウォレス・ローファンは自分が何を話したのか憶えていない。ティエリア・ザリが意外にも機知に富み、饒舌に話していたのは憶えているが、自分がそれに空返事だけを返したことを帰りの馬車でヌルに聞かされた時、大いに後悔した。ヌルはティエリア・ザリの正体に気づいていないようだった。王国一の美女は彼のような賤臣には眩しすぎたのだろう。
その後、ティエレンの殺人鬼、黒男爵の噂はぱたりと途絶えた。
ウォレス・ローファンは自分の部屋に飾った黒男爵の帽子を見るたびに、あのティエリア・ザリの容姿を思い出し、溜め息をつく日々を送っていた。日中でも深く考え込むようになった彼の裾を、幼いアカアが引いても全く気づかないくらいに、彼は王国最高の美女に対して夢中になり始めた。