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貴く翔べ  作者: 風雷
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第六章「鉄の荊」(2)

 ティエリア・ザリという女は、己の残酷さに気づいていないようだった。それは幼い子供が楽しんで羽虫を八つ裂きにするのにも似ていた。

 最初こそ、風のように現れ悪党を斬り捨てては消えてゆく「黒男爵」に、領民達は目に憧れの光をともしながら噂しあったものだが、徐々に黒男爵の目的がただの決闘と殺人であることに気づき始めた。

 ティエレンの郊外には城壁の外で固まるようにして集落を作って住む人々がいる。村の女達は、日が白むより少し前に近くの山に登り、川の水を汲みに行く。朝と夕の二度、それを行うのだが、後者はあるいは命がけになる場合もあった。山の禽獣に襲われる心配もあったし、それ以上に人攫いが待ち伏せているという噂がたつこともあった。フェペス子爵は決して堕落した人間ではないが、領民を守るということに全てを傾けられる性質ではなかった。もっとも、治安に関して言えば、他の貴族の領地も似たようなものだった。

 ある村娘が、貧乏くじを引いた。

 とりわけ美しくもないその娘が出くわしたのは人攫いではなく、同じ村に住む青年だった。普段は寡黙に牛を鞭打っている彼が、山道で出くわしたところで豹変した。人は、集団の中にいる時だけ、人でいられるのだ。その輪から外れてしまえば、それは野獣と変わらない。

 恐怖と破瓜の痛みに娘が金きり声を上げた時、悪鬼のような顔をした男は突然、声もなく倒れた。

 娘の額に暖かい液体が降りかかった。

 背中を斬りつけられて倒れた青年の背後には、噂で聞いたとおりの黒服の騎士が立っていた。

 娘は泣きじゃくりながら黒男爵に感謝したが、どうやら黒男爵は娘に興味がないらしく、倒れた青年を凝視していた。

 しばらくそうした後、まだ娘がこの場にいることにようやく気づいたらしく、


「行かれよ。この者は私が処分しておこう」


 と、黒男爵は言った。

 娘は礼を言ってその場を走り去った。だが、この山道は帰りは二手に分かれており、誤った方を選ぶと禽獣に怯えながら一夜を過ごす羽目になる。心優しい娘は、せめてもう一度黒男爵の姿を拝見したいという下心とともに、来た道を引き返した。

 山猫が鳴いたような声がした。

 木の枝の間から、黒くすらりとした影が見えた。黒男爵の姿を認めた娘は、しかし思わず草むらに身を潜めた。

 黒男爵は、その長細い剣先で、男を(もてあそ)んでいた。山猫の鳴き声だと思ったのは、男の絶叫だった。

 皮膚を、一枚一枚剥がすようにして、丁寧に斬りつけながら、黒男爵は愉悦に浸っていた。男は全身を裸にされ、手足を縛られていた。

 剣先がもんどりうつ男の股の間に入り、成熟したばかりのそれを何度も転がした。その度に男の一物は切れてずたずたになり、男の絶叫と入れ替わるように、愉悦に浸った女の笑い声が聞こえた。

 娘は恐怖のあまり、手にかけていた枝をへし折ってしまった。その音に黒男爵が気づいたのかどうかはわからない。ただ、娘は一目散に走った。村に帰った彼女は、


「悪魔が……悪魔が……」


 と、号泣しながら両親に語った。

 この話がティエレンの街に広がる頃、子爵夫人の顔に(しわ)が目だって増え始めた。



 王都に出かけていたフェペス子爵が帰還した。

 予定よりかなり早い到着だった。黒男爵の姿のまま夜の街をうろついていたティエリア・ザリは、城門付近で家紋入りの馬車を見かけると、狂ったように馬を走らせて屋敷に戻った。

 辛うじて息を整えて兄を出迎えたティエリア・ザリは、再会するなり兄に抱擁されて、子爵夫人の顔をひきつらせた。


「近いうちにローファン伯と交誼を結ぶことになった。バトゥもようやく嫁をとれそうだ」


 晩餐の席で、フェペス子爵はこともなげに言い放ったが、ローファン伯爵家を心底軽蔑することが常態だった他の者達は、あまりにも意外な言葉に思わず目を剥いた。

 この頃のオロ宮廷には大きく分けて三つの勢力があった。一つ目が光王と当時の宰相でペイル王家の後裔でもあるファルケオロ公の勢力。二つ目が名門中の名門であるトグス公の勢力。最後が、これも名門だが、三公の中で最大の勢力を誇るシェンビィ公だ。特にシェンビィ公爵家は王国が東西に分裂した際に敵方の西オロ王に肩入れしたにも関わらず、東オロ王による王国統一後も粛清の網を逃れ――というよりシェンビィ公の与党が多すぎて光王にすら粛清は不可能だったのだが――絶大な権勢を誇り続けた大貴族である。

 この三者は時に対立し、時に協力して国家の難事にあたってきた。主に平時に前者が行われ、有事に後者が行われた。

 フェペス家は長らく中立に近い立場をとってきたが、最近では完全にシェンビィ公派と見られていた。対して、ローファン伯爵家はトグス公派だった。

 シェンビィ公派のフェペス家と、トグス公側のローファン伯爵家が血の繋がりを求めるようになったのは、隣国であるペイル共和国が大陸の西岸一帯の制覇を完了しつつあることで、自国内の権力闘争にかまけていられなくなったせいもあるが、実際はローファン伯がトグス公を見限ったのだ。当時、トグス家は代替わりしたばかりで、新たに立ったトグス公は暗愚な上に重い病を患っていた。このままではトグス公の勢力は衰退するとみた当時のローファン伯は、シェンビィ公に歩み寄る動きを見せ始めた。シェンビィ公はシェンビィ公で、近年台頭してきたファルケオロ公を牽制するためにトグス家の勢力と結んでおく必要があった。ローファン伯はトグス家を見限ったが、シェンビィ公はローファン伯の向こうにいるトグス家を飽くまでみていた。

 とはいえローファン伯爵家のように旧主を踏み台にしてのし上がってきた家を、シェンビィ公が信じるはずがない。彼は老獪なローファン伯に、あえて仇敵であるフェペス家と和解を条件に出した。当時二歳だったローファン伯の孫娘アカアと、フェペス家の長男でクゥの兄でもあるバトゥとの婚約が決まった。

 フェペス子爵は愚者ではなく、家訓とも言えるヤムの血への嫌悪から醒めていた。彼は彼で、近隣のローファン伯爵家と対立を続ける無謀さに気づいていたのだ。もはやフェペス家が独立不羈でいられる時代はとうに去っていた。

 家臣や一族からの反発を予想したフェペス家当主は、彼らの説得のために王都から帰還したのである。

 ティエリア・ザリは、懇々と自家の行く末を語る兄の話を、表面は興味深げに聞いていたが、彼女の興味は政治にはない。ティエレン付近の長老達を集めた兄が、議場にこもるのを確認した彼女は、いつものごとく馬を駆って屋敷を抜け出した。

 だが、ティエリア・ザリは忘れていた。晩餐の席で父が言った――近日、ローファン伯の嫡子がティエレンを訪れるということを、忘れていたのだ。ローファン伯の嫡子は飛びぬけて武技に優れており、ティエレンを訪れたあかつきには黒男爵を捕えてみせると豪語していることを、フェペス家ではティエリア・ザリだけが知らなかった。



 雨脚の強い、誰も外出したがらないような日だった。

 空は厚い雲に覆われていて、昼間なのに夜明け前くらいの明るさしかなかった。

 そんな中で鬱屈を晴らすように馬を駆って行くのは、もちろんティエリア・ザリが扮する黒男爵である。彼女はここ最近、街のはずれで人攫いが多発していることを知っていた。彼らを狩るためには雨の日も彼女には関係なかった。

 義賊ぶっているわけではない。もとより正義感など母の腹の中に置き忘れてきたような思考回路を持つティエリア・ザリの残酷は、彼女の教養の高さもあってか養育官でさえ気づかぬほどだった。

 ティエリア・ザリはどういうわけか、肉の切れる音が好きだった。肌が裂けて肉と肉の合間から真っ赤な血がじわりと滲む様が、言いようもないほどに快感だった。最初は子兎あたりを捕まえて試していたそれが、いつしか人相手になった。いわゆる世の悪党が対象となるのは、ただ単に彼らの素性の卑しさもあって、追求の手がゆるくなると考えたに過ぎない。

 国境付近まで出てくることもしばしばだった。フェペス家の領地は狭く、一日もあれば領土を横断できる。東に抜けた先はローファン伯の衛星都市がある。百年前のヤムなどは領地も持たぬ田舎侍に過ぎなかったのに――と、言い聞かせられて育ったものだった。

 馬の走る速度が上がった。ティエリア・ザリが獲物を見つけたのだ。

 思わず彼女が手綱を引き締めたのは、どうやら獲物がただの人攫いではないらしいことに気づいたからだ。

 暗くてよく見えないが、着ている服が上等で、腰に飾りの美しい剣を差していた。何よりも男から少し離れた場所に止めてある馬車がティエリア・ザリの目をひいた。馬車の側面に彫られている家紋が、ヤム家のそれだったからだ。

 従者らしき男二人が、恐らくたまたま通りがかっただけの娘を拘束していた。彼らは嫌がる娘をものともせずに、馬車に引き込もうとしていた。


「よし。離すなよ、ヌル。そのまま馬車に連れ込め」


 幼い頃から長々と聞かせられてきたフェペス家とヤム家の確執。それが、ほんの一瞬だけだけだったが、ティエリア・ザリの頭の中で、怒りを沸騰させた。フェペス家は領民一人、麦一粒でさえ、ヤム家に奪われるのを恥とする。

 ヤム家の男は何者かの接近に気づいたようだった。

 彼はティエリア・ザリの姿を見つけると、一瞬驚いたようだったが、嬉々として口を開いた。


「なるほど、貴様が黒男爵か。逢いたかったぞ!」


 男は剣を抜いた。黒男爵も馬上姿のまま抜剣した。


「我はローファン伯の嫡子、ウォレス・ヤム・ローファン。ティエレンの悪鬼として名高い貴公に決闘を申し込む!」


 相手の答えなど聞くつもりもないらしく、ウォレス・ローファンは名乗るなり斬りかかった。

 馬上の黒男爵が有利なのは平地で戦った場合だが、狭い山道で旋回もきかない中では、小回りのきくウォレス・ローファンの方が有利だった。フェペス家一流の剣技の体得者であるティエリア・ザリに比べて、ローファン伯爵家は同じ武家であるにも関わらず、ウォレス・ローファンの闘い方は力一辺倒だった。

 荒削りで、洗練とは程遠いそれは、しかしウォレス・ローファンの膂力りょりょくが並外れていたからだが、黒男爵の剣を軽々と受け止めた。

 大振りなわりには正確に打ち込まれた剣撃を避けざまに、黒男爵は馬から転落した。ティエリア・ザリは生まれて初めて、剣の師以外の者に一敗地にまみれた。


「さて、首を刎ねる前に……」


 泥まみれになった黒男爵に剣を突きつけたウォレス・ローファンは、剣先で黒男爵のかぶる帽子を跳ね飛ばした。

 漆黒の帽子の下から、白い薔薇の香りが立った。


「女……?」


 あまりにも意外な黒男爵の正体に驚いた一瞬の隙。それは、素性を知られれば破滅しかないティエリア・ザリを行動させるには十分な時間だった。彼女は胸元に潜ませた小さなナイフをウォレス・ローファンに投げつけ、彼が怯んだ隙に馬に乗って駆けた。背走も彼女にとって人生初の体験だった。



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