第五章「貴人チルーク・ティエル」(17)
「や、ユマ」
シェンビィ公爵邸の門前で待っていた少年の挨拶は酷く簡素だったが、あどけない少女のような顔造りが幸いしたのか、可愛げのあるものになった。
「エイミー、何だか久しぶりに会う気がするぞ」
「主がユマに会いたがってる」
「一応聞いておくけど、君の言う主はガオリ侯のことだろうね」
「うん」
「他にも主はいる?」
「うん、光王様……」
何故、このようなことを問われるのかわからないエイミーは、ユマを不思議そうに見ながら答えた。
「いいよ、案内してくれ」
ユマは御者席に座るホウにガオリ侯爵邸行きを告げた。土地鑑の無いホウの案内に、ヌルが御者席に座ることになった。
車中、ユマと二人きりになったクゥが口を開いた。
「何故、私に治療を?」
ユマはクゥの方をちらりと見やると、幌の隙間からわずかに見える景色に目を移して、答えた。
「その方が良いと思ったんだ。別に感謝して欲しくてやったわけじゃないから、気にするな」
「ロイオーセンと何があったのですか?」
「(あの男のことは様付けしないんだな……)何も無い。ちょいとからかってやっただけだよ」
ローファン伯爵邸に戻ればすぐに明らかになることだが、ユマはここであえて話そうとも思わない。クゥに気を使ったというよりも、ロイオーセンのことを思い出すだけで不愉快になるからだ。
坂を下っているのだろうか。馬車が傾いたので、ユマは内壁に取り付けられた手すりをつかんだ。
「そんなに不思議か?」
「えっ……」
「俺が君にしていることは、そんなにも理解し辛いかな?」
「……はい。貴方は私に何を望んでおられるのです?」
ユマはもう、外の景色を眺めることをやめていた。対角に座るクゥの蒼い瞳をじっと見たまま言った。
「ロイオーセンは、手に入れてしまいさえすえば、きっと君のことを大事に扱うだろう。あの熊男は自分の手に届かない高みにあるものを憎悪するだけで、一度支配下に入ったものには寛容になる。だから、あんなぶっ壊れた性格でも人がついてくる。ローファン伯だって同じさ。あるいはシェンビィ公やガオリ侯も程度が違うだけで皆そうなのかも知れない。実のところ、俺にも自分のやっていることがよくわからない。でもね、彼らと同じは嫌なんだ。低俗というか、何というか。その反対になりたいんだよ。多分だけど……」
「高貴ということですか?」
「そう、それだ。貴き人とはよく言ったものだ」
影が濃くなると同時に、幌の隙間から漏れてくる光が強くなった。いつの間にやら、日が中天に達していた。ユマは道行く人が日陰に避難するのを確かめるように幌を捲った。
「……外は暑そうだ」
すぐ近くで風が擦り切れるような声を聞いたような気がしたが、ユマはあえて気づかぬ風に、外の景色に目を移した。
黒い屋敷がある――とユマは好奇の目でそれを見た。貴族の家を名乗る分には不足しない造りだが、いかにも装飾に欠けていて、光王の右腕が住むにしては彩が足りない。ローファン伯爵邸とあまり変わり映えしない規模の敷地に、ぽつりと屋敷が建っているのだ。ただし、邸内は豪奢ではなくとも明るい空気に満ちており、気品を損なわない程度には活気があった。
正門前で待っていたのは、意外にもガオリ侯本人だった。
「ウルツェウェンド・ガオリだ。直接話すのは初めてだったな。ユマ・カケル殿」
光王を抱え込んでシェンビィ公のような大貴族と対立するくらいであるから、どんな強面が来るのかと思って身構えていたユマだったが、すがすがしいほどの美男に迎えられてあっけにとられた。
よく整った黒髭に、肩にかかる程度の黒髪がわずかに波打っている。眉は意志の強さを秘めたように凛々しいが、目元は穏やかで口元は余裕に満ちており、いかにも貴族的である。ロイオーセンに会った時も、貴族青年とはこんなものかと圧倒されたユマだったが、ガオリ侯と比べれば彼がただの田舎上がりにしか見えなくなる。
穏やかながらも威厳ある容姿とよく通る声色は気品に満ち溢れていて、ユマがこれまで会った中でガオリ侯のそれに対抗できそうなのは、なるほどシェンビィ公しかいない。
「なるほど、こいつは食わせ者だ――という顔をしている」
ガオリ侯にそういわれて、ユマは一瞬で背筋が寒くなった。ガオリ侯の年齢は三十の半ばで、ユマより一回り上の世代だ。それでもこの若さで光王の重臣なのだから、感嘆もしよう。
「実のところ、既に一杯食わされたのではないかと……」
「いえ、我が家の美食を堪能頂くには、まだ早い」
直接の恨みがあるわけではないが、ガオリ侯の陰謀の一端に巻き込まれたといっても過言ではないユマとしては、何とか鼻っ柱を折ってみたい相手ではあるのだが、自分より遥かに美しく、頭が回り、権威も財産も築き上げた男が相手だと、恨みも嫉妬もどこかへ飛んでゆくものらしい。
「冷静沈着と評判の侯爵にしては、焦ったように見えるのですがどうでしょう」
ユマは別にガオリ侯を挑発するつもりはない。むしろ逆だった。彼に興味を覚えたからこそ、どう反応するかを見たかった。オロ王国に来て最初に出会ったアカア、ローファン伯、その僕のヌル、長男のロイオーセンと、出会う人の尽くに相性の悪さを感じていた。最初は険悪な関係にあったが、今は唯一の相談相手であるシャナアークスは異性であり、何でも気軽に話せるような相手ではなかった。
「それはどういう意味かな?」
「エイミーが来るのが早すぎます。貴方は、私がシェンビィ公に会いに行ったと勘違いをされたのですね」
小気味良い笑声が響いた。なるほど、貴族とはこう笑うのかという手本を見せられたような気がした。ローファン伯爵家が他の貴族から田舎者扱いされるのは、アカアには気の毒だが、仕方の無いことにも思えてきた。
「その通りだ、ユマ殿。シェンビィ公に卿を取られると、私は大損をすることになる」
(面白いことを言う)
ユマは、ガオリ侯と話しているうちに、何だか楽しくなってきた自分に驚いた。格の違いとでも言うべきだろうか、ローファン伯には感じなかった頼もしさを、彼よりも若いガオリ侯に感じる。ガオリ侯の方が、ローファン伯より格上であることも、ユマには好材料に映った。ロイオーセンに暴力を働いて屋敷を飛び出した都合、このままローファン伯爵邸に戻ればただでは済まないと思い、シャナアークスか、出来ればファルケ・ファルケオロに仲介を頼もうとしたのだが、ガオリ侯であれば十分にその役が務まる。
政務に忙しいのだろう。会話はそこで途切れ、続きは晩餐にてということになった。その間、ユマはエイミーの案内の元に、屋敷内の一室をあてがわれた。
「そう言えば、君に貸した金貨はどうなった?」
自分から言い出すべきことなのだが、元来が小心者のユマは相手に気を使うという建前で、それを恥じる傾向があった。それでもあえて口にしたのは、エイミーのことだから忘れているのではないのだろうか――という本人にしてみれば失礼な心配からだった。
「えっ? 返したよ」
「おや、ローファン伯が預かっているのかな」
まさか伯爵ともあろう者が、金貨数枚を袖にしまいこむことはあるまいと思って首をひねった。
「キダに返してくれって、言ったじゃない」
ユマは目を丸くした。確かにシェンビィ公の屋敷を脱出する際に、あまりの警備の重厚さに観念したユマは、キダに金貨を返すようにエイミーに伝えた。だが、エイミーはその後、キダに金貨を返したという。ユマが闘技場にたどり着いた頃には、キダの姿はなかったから、エイミーは失踪後のキダに会ったことになる。
「あ……話しちゃいけなかった」
と、少年はうなだれた。それだけでユマは、キダの失踪が実はガオリ侯の手引きによるものであることを理解した。
「いいよ。晩餐が楽しみだ」
面白い男に出会った。そう思ったユマは、ローファン伯の陰謀は憎悪しても、ガオリ侯にまで同じ感情をぶつけることが出来ない自分に気づいていた。