第五章「貴人チルーク・ティエル」(16)
「摩天楼とは、ぜひ見てみたいものですわ!」
広大な敷地を持つシェンビィ公爵邸の中庭に、ぽつりと白いテーブルが置かれ、数人の少女達に挟まれた形で、ユマは座っていた。
底が若干細い、白いカップに注がれた液体は、太陽の光を浴びて黄金色に輝いている。それを口に含んだユマは、思わず吐き出しそうになった。
(何だこれは……砂糖水か?)
黒い色からは想像も出来ない強烈な甘味である。これでは余計に喉が渇くのだろう。御茶会にも関わらず、娘たちは黒い甘水を注いだカップの他に、まるで喉を潤すのはこちらで、といった風に水を注いだグラスを傍らに置いている。
意外にも、クララヤーナの取り巻き達は、ユマを嫌悪の視線で迎えなかった。最初こそクララヤーナの気分に乗せられていたこともあったのだろうが、元からして噂話が大好きな年頃の娘達でもある。出自を問われたユマが故郷の話を始めると、とたんに興味を持ち、まるで吟遊詩人の謡う戦記譚にでも聴き惚れるかのように変わった。
「それ、嘘ではなくて?」
と、問われれば、ユマは持ち歩いていた携帯電話をテーブルの上にことりと置き、
「これはね、遠くに離れた人と話すための機械なんだ。今は燃料が切れていて、使えないけどね。他にもあるよ。その内、ローファン伯の使いがどうにかして王都に運んでくると思うけど、自動車という乗り物がある。馬も無しに走るんだ。竜機みたいに酔いもしないし、ずっと速い」
先日、クララヤーナに顔面を殴られた痕がまだ残っている少女が、嬉しそうに声を上げた。どうやら彼女は最初に会ったときからユマのことを好意的にとらえているようで、終始目を輝かせていた。
この場に、クララヤーナはいない。ユマの連れてきた面子では、少し離れた場所で無表情のまま突っ立っているヌルと、馬車につないだ馬の毛に丁寧にブラシを通しているホウが遠くに見えるだけで、クゥの姿もない。
馬車を降りるなりクゥの顔見たさに走りよってきたクララヤーナは、従姉妹の青くはれた頬を見るや否や、声を失った。
クゥは、できれば会いたくなかった――とでも言うように目を逸らしたが、クララヤーナは無言で彼女の手を取ると、引きずるようにして屋敷の中に消えていった。
「勝手なことを。ただでは済まんぞ!」
ヌルが言ったが、ユマはどこ吹く風だった。
「俺がやったことが勝手なら、お前が俺を止めないのも勝手だろう」
さて、クララヤーナよりは格下に違いない貴族の娘達との戯れにも飽き始めた頃、クララヤーナがクゥを連れて現れた。
「お待たせしましたわ」
つん――と、鼻先をを尖らせるような仕草で、クララヤーナが椅子に座った途端、あたりの空気が変わった。彼女の後ろに立つ、クゥに視線が向かったからだ。
餅を口に食んだ様に、青黒く腫れていた頬は、わずかに残ったかさぶたの様な赤い痕を除けばすっかりと元通りになり、服の上からはわからないが、痛めていたであろう脇腹も今は気にならないようだった。
「ファルケオロの御嬢様も大したものだったが、この家の医術士も中々優秀なようだ」
ユマの言葉に反応したクララヤーナが刺すようにこちらを見てきた。
(いや、お前の親父への嫌味じゃないんだが……)
クゥとの試合の二日前、ユマはシェンビィ公に殺人犯と勘違いされ、拷問を受けた。あの時はただ、壊されるばかりで医術士などどこにもいなかった――と、皮肉ったように、クララヤーナには聞こえたのだろう。彼女に当たるようなことは、ユマの本意ではない。
「あ、あの……先日の試合についてお聞かせくださいまし」
沈黙を嫌ったのか、先日クララヤーナに殴られた娘が口を開いた。
(いきなり凄いことを聞いてきたな……)
クゥがいる前で話すには、少々内容が重い。とはいえ、それを気にしているのはどうやらユマだけのようで、
「いいわね。私も興味がありましてよ」
と、クララヤーナも言い出す始末。
ユマはちらりとクゥの方を見たが、彼女は臍を曲げたように、そっぽを向いた。好きにすれば――と言わんばかりだが、どうしてかあまり不機嫌そうには見えなかった。
「わかった。可能な範囲で質問に答えよう。ただし、触れてはならない話題には触れないように……」
シェンビィ公家臣暗殺事件について、ユマは念を押した。下手な質問が飛べば、それだけで呪いによって舌が痺れ、無様にも気絶するはめになるからだ。
「何故、闘花に挑まれたのですか?」
と、ハンカチの少女が口火を切った。
「友人がフェペス家の奴隷になっていたんだ。彼を救うためには試合を受けるしかなかった」
予備知識がなかったのか、それとも誤情報を与えられていたのか、娘たちは感心するように互いの顔を見合わせていた。
(やれやれ、伝説の魔導師とやらはどういう設定になってたんだ?)
次いで、他の娘が質問を浴びせてくる。
「ユマ様は火術士ですの?」
「いや、火術も何も、術なんて習ってもいない」
「えっ……ではあの火尖はどうやって?」
クゥの弩発と激突する際に、ユマは確かに火尖を体現した。彼女はそのことを言っているのだが、ユマにはうまく説明できない。
「わからない。気づけばああなってた」
おお――と、娘達が嘆息すると同時に、屋敷の方から使用人らしき男が走り寄ってきた。
「御嬢様。来客です」
会話に加わっていなかったクララヤーナは、どういうわけか不機嫌そうだ。
「今日はそんな予定は入っていなかったはずよ」
「それが、ガオリ侯の使いでして……何でもユマ殿にお話があるとか……」
全員の視線がユマに向かった。会話の内容はどうやらヌルにも聞こえたらしく、
――ちょうどいい。さあ、この不愉快な屋敷から出るぞ。
とでも言いたそうにユマに近づいてきた。
「その使いの名は?」
「エイミーという、銀髪の童僕です」
「エイミー……確か光王のお世話係にそんなのがいたわね」
使者の名を聞いた途端、ユマは席を立った。
「すまない。どうやら急な用事のようだ。出来ればもう少し話をしたかったが、このあたりでお暇させていただくよ。クララには楽しい御茶会への招待を感謝したい」
それだけ言って、ユマは勝手に席を離れた。ヌルの言う通り、確かに長居は無用なのだが、
(ガオリ侯が焦って使者をよこしたか?)
と、ユマは自惚れてもいた。ユマが、ローファン伯に愛想をつかして自動車をシェンビィ公に譲ろうとしているようにも見えたのかもしれない。それ以上に、ガオリ侯も一枚かんでいること確実なシェンビィ公家臣暗殺事件の真相が漏れるのを恐れたのだろう。あらゆる魔術の分析に天才を持つクララヤーナならば、ユマにかけられた呪いに気づくのは時間の問題だからだ。
「あら、残念ですわね。是非ともまた御一緒願いますわ」
と、手を振る娘達を尻目にユマは歩き出したのだが、とてとてと小走りで自分を追う音に気づき、振り返った。
ユマよりもふたまわりは小さな少女、齢十三にしてオロ王国最高の美女に数えられるクララヤーナ・シェンビィがそこにいた。
「待ちなさい、貴方」
「どうした?」
「そのままだと、喰われるわよ……」
「喰われる? 何に?」
「言わなくてもわかってるでしょう?」
「……『これ』はそんなに物騒なものか?」
「本来はそうじゃなかった。でも今は違う。『それ』は人を喰い殺す呪い。貴方が穢した。貴方が呪ったのよ……」
何を――と聞こうとしたところで、右腕をつかまれた。鋭い痛みが全身を駆け巡った。
「貴方が死ぬと、クゥが迷惑するのよ。いい? 今度クゥをあんな目に遭わせたら、必ず殺してやるわ!」
痛みから解放されたと思ったとき、クララヤーナは既に背を向けていた。それとすれ違うようにして、クゥが横に並んだ。
「君の従姉妹はいい子だな」
クゥに聞こえたかどうかはわからないが、ユマはぽつりと呟くと、エイミーの待つ正門に向かった。