第一章「原初の声」(7)
道中、雨に遭ったために予定より少々遅れての下山となった。
下山してからは石畳で舗装された道路が目に付き、車上の旅は快適になった。もっとも、ユマが乗るはずの荷馬車は負傷したホウが占領しているから、ユマは歩いての旅になる。
一行が歩を進めるのは早朝から日が暮れるまでの間に過ぎない。それでも歩きなれないユマには辛く、靴擦れと血豆が何度も潰れてほとんど歩けなくなった。アカアに呼ばれる場合も多いから、実際にユマが歩く時間は日に四時間程度だが、それでも三日目には苦痛と疲労で顔面が蒼白になり、共に歩くリュウを慌てさせた。
足が棒になるというが、悪路を歩いている間は棒になった足が磨り減るような、あるいは砕けるような感覚しかなく、いくつかの街や村を通り過ぎてもユマの目には何も映らなくなった。
「旅をされたことはないのですか?」
アカアはユマの軟弱さをあざ笑うわけでもなく、ただ、下々の者が出来ることを術士であるユマがこなせないのが不思議で仕方がないらしい。
「俺の故郷では、遠出をするのにわざわざ歩く奴なんていなかった」
ユマはつい、本音を漏らした。
「馬車にお乗りになるんですか?」
アカアは少し驚いた後に、何かを理解したような顔をした。なるほど言動は少々雑なところがあるものの、ユマの持つ知識は明らかに異質であり、更には姓を持っているということはどこかの地の豪族である可能性が高く、確証はないものの、これらの想像はアカアを楽しませるには十分だった。
「馬車がこんなにうるさい乗り物だとは思わなかった」
ただ蹄の音と馬が鳴く分だけうるさいと思っていたが、車輪や車体が衝撃を吸収するような構造を持っておらず、激しく揺れた。それに、日中でもカーテンを閉めてしまえば車内は暗く、とても乗れたものではない。
「今まで酔わなかったのが不思議なくらいだ」
気分が悪くなればアカアに断って歩いた。光るような風が気持ちよかったのは最初だけで、次第に足が潰れるような激痛との格闘になる。
「初めて馬車にお乗りになりましたの?」
「ああ、車があればよかったのにな……」
ユマはアカアと会話をしているが、人の話を聞かない性格もあいまって、一人ごちるような口調になった。アカアの目が鋭くなったことに、気づくわけもない。
(こういう時、先生は面白い話をしてくださる)
数日の付き合いではあるが、アカアはユマの人格の面白さに気づいてきた。
「牛車ですの? それとも犬とか。まさか……竜?」
「違う。違う。あんな(竜は知らないけど)鈍いのと一緒にするな。燃料で動く車だ」
アカアが理解できなそうな顔をしたので、ユマは自動車について簡単に説明した。
「先生は火術を扱われますの?」
アカアは驚きを込めて言った。
「そうじゃない。あれは機械だ」
話が弾んで、次第に電車や飛行機の話になった。アカアは半信半疑の上にほとんど理解できないようだったが、最後にユマが言った言葉を聞いて、瞠目した。
「乗り捨ててくるんじゃあ、なかったな……」
馬車が一瞬だけ浮いたような感覚がした。車輪が小石を踏んだらしい。
「あるのですか。その……自動車というのが?」
「あるよ。君と会ったところから少し離れた場所に置いてきた」
「野ざらしですか?」
「砂が少し気になるが、一月も放っておかなければ、まあ大丈夫だろう。完全に壊れたわけじゃあないだろうし」
アカアの目が爛々と輝いた。
――戻りましょう!
と、いいかねない顔つきだったが、どうやらすんでで飲み込んだらしく、
「取りに行けるように、父上に相談してみます」
と言った。
アカアと出会ってから八日目に広い盆地に出た。途中でユマが熱を出したため、立ち寄った街に二日ほど滞在した。
(便所とベッドがあるのがこんなに有難いと思ったのは初めてだ……)
道中、用を足す時も集団から離れすぎないように気をつけねばならず、たとえ離れたとしても、見晴らしのよい平野でしゃがみ込んでいる姿が丸見えなのは羞恥の極みだった。アカアはどうしているのか、そのような姿を一度も見かけなかったが、侍女が朝方に小型の甕を馬車から持ち出すのをみて納得した。
(なるほど、道理で香を焚くわけだ……)
ユマは甕に跨っているアカアを想像して――下卑た想像だが――小さく嗤うと同時に、妙なところで感心した。さらに単純な興味と切実さもあいまって、
(みんなどうやって拭いてるんだろう?)
という、子供じみた疑問をアカアの前で口に出しそうになったことがある。後でさりげなくリュウに聞くと、
「その辺に落ちてる石や葉っぱですが……」
と、当然のように答えられたので閉口した。ユマが体調を崩したのは、やはり野宿が原因だろう。
熱を出したユマはアカアの厚意がうれしかったが、ヌルにますます軽く見られるようになった自分に嫌悪を感じている。
(どこもさびれた街だ……)
千人程度が暮らしているに過ぎない、小さな集落に着いた。
聞くところによると、ここはそれなりに賑わっているらしい。その証拠にリュウは目を輝かせながら街を見てまわり、逆にホウは萎縮している感じだった。行商人が小さな天幕を張って地方から仕入れた品を開いている。さすがに街の中央を突っ切る路地は人で埋め尽くされて馬車も通れない感じだったが、それでもユマの目を圧倒するほどの厚みはない。
陳列された品々も、確かにユマの目には奇妙に映るものが多かったが、光沢や清潔感に欠けていて、どれも埃をかぶっているようにしか見えない。
(田舎者ではないらしい……)
露天に並ぶ品々には目もくれず、人ごみを無表情に見下ろすユマを、ヌルはじっと観察していた。アカアの護衛が彼の任務である以上、ユマという人間を見定めなければならない。
「退屈か?」
珍しく自分に話しかけてきたヌルを見て、ユマは少し驚いたようだったが、あえて感情を殺した声で答えた。
「そうでもない。王都はここより大きいのか?」
「無論」
「そうか。王都の人口はどれくらいだ?」
「詳しくは知らないが、二、三十万はいるはずだ……」
ヌルは言葉を濁した。ユマの質問はどこか的が外れているような気がする。
(まあまあだな)
百万都市に住んでいたユマの中では、数十万と言う人口を大都市と言い切ってしまうには少し寂しい。もっとも、王国の規模がどの程度なのかすら知らない以上、感覚としてそう捉えたに過ぎない。
「市にあまり興味がないようだが」
「無くもない。ほら、あれだ……」
ユマが指差したのは、家屋の屋根や天幕に飾られている紋章だ。波を意識したようなうねりの中で一人の女性が鎮座している。
――あれは何かな?
とまでは言わずに、ヌルの言葉を待った。
「精泉の紋のことか?」
「精霊の泉なのか? 泉の精霊ではなく?」
「何を言っている。泉に精霊などいるわけなかろう」
ユマにしてみればヌルの言ったことは理解できなかったが、この男と会話を続けることに抵抗を感じたのですぐに切り上げた。
「ええ、確かに精泉の紋ですが……ご存知ありません?」
と、街を出発した後にアカアに問うても同じような反応をされた。
「知らないな。俺、異国人だし。神なのか?」
最初こそアカアを警戒したユマだったが、この頃は忌憚なく彼女に問うようになった。
「違います。王都の一角に精霊が湧くといわれる泉があります。今は水ばかりが湧いていますが。上古、泉を訪れた旅人に光の精霊が宿り、王者となったという伝説があります」
「それがオロ王か……」
「そうです。オロとは光と同義です。今でも王のことを光王と呼びます」
アカアの話によると、オロ王家の初代は女性だったようで、紋章は初代光王が光精に祝福される様を描いているらしい。ここまでは理解したユマだったが、ヌルとの会話を思い出し、重ねてアカアに問うた。
「光の精霊は泉の精霊とは違うのか?」
「泉の精霊……とはいかようなものでしょう?」
「そうだな。俺の故郷では(といっても故郷からもちょっと遠いが)泉を訪れた者を試し、答えを得たものを祝福するといったところかな。ある日、正直な樵が誤って泉に斧を落とした……」
といって、ユマは自分の知る物語をアカアに話した。
「それは精霊ではなく、妖怪です。精霊が人を試すだなんて聞いたことがありませんわ」
アカアが笑うのをみて、ユマは彼女のいう精霊というのが、意思を持たない現象であるような気がした。風が吹く、火が燃えるといった現象は精霊と呼べるが、悪人に雷を落としたり、たたりをおこしたりするものを精霊とは呼ばないらしい。
(精霊だの術だのと言っているが、この世界も中々に醒めてる)
迷信に支配されていないという醒めがある。科学とは違った方向に人類が進化し、このような世界ができあがったのか。ユマにとってアカアを含めるオロ王国の住民は、奴隷制度をはじめとしてまるで未開であり、古風にも見えたが、その考えを改めるべきかもしれない。
「それに――」
アカアの話が続いていたことをすっかり忘れていたユマは、驚いたように彼女の顔を見た。
「水に宿る精霊はありません」
これについては何故かを問うても無駄だった。水に干渉する精霊はいないというのが、アカアの持つ常識のようだ。