第五章「貴人チルーク・ティエル」(15)
(腕が痛ぇ……)
クゥの弩発によって千切れ飛び、ファルケ・ファルケオロの魔術によって接合した右腕部が、ずきずきと痛んだ。確かに先ほどは無理をしたが、痛みは中々おさまらない。
「どうかしたのか?」
低い声が馬車の中に響いた。ヌルは、ユマが乗り込んだ時にはすでに車内にいた。彼は首から上を紅潮させたまま馬車に飛び込んだユマを訝ったが、邸内で起こった事件については気づいていなかった。
「いや、何でもない」
どういうわけか怪訝そうにユマの表情を見守るクゥの視線すらも避けるように、ユマは幌をめくって外の景色を眺めた。
馬車は、今のユマにとって唯一といってよい友人であるシャナアークスのいるオルベル邸に向かっている。
だが、せっかくオルベル邸についたというのに、シャナアークスは不在だった。
「お嬢様は、ただいま精霊台におられます。お待ちになられますか?」
(考えてみれば、普通は訪ねる前に使いを出すもんだ)
白髪の目立つ老僕に断った後、とりあえずは馬首を精霊台に向けたユマを、ヌルは相変わらず苛立たしそうに見ていた。
(シャナアークスに頼んで、ファルケさんに会いたかったが……)
自分の治療にかこつけて、ホウの骨折を治してもらったのと同じように、クゥの傷も治してもらおうと思ったのだが、あてが外れた。シャナアークスでこれでは、大貴族の令嬢であるファルケ・ファルケオロとは簡単に会えそうにない。
ユマがこのことを誰にも口外しなかったのは、クゥが知れば辞退することを知っていたからだ。自分がクゥでも多分受けない。だが、そのまま放って置くのも我慢がならない。
突然、馬車が大きく揺れた。馬車に慣れているヌルやクゥと違って、ユマは狭い車内を転がるように壁に頭をぶつけた。
「最近、車運が悪い!」
下手な造語で悪態をついたユマだったが、窓から顔を出してみると、正面にどこかで見たような金縁の豪華な馬車があった。
「おい、この犬野郎! 貴方は何度も私の邪魔をしてくれるわね!」
思わずユマがはにかんでしまったのは、口の悪さだけで誰だかわかってしまう少女の声にあったというよりも、お嬢様が無理をして罵声をひねり出しているように思えて、何やら可愛らしさを感じたからだ。
「誰かと思えば、穴姫様じゃないか。天下の公道に落とし穴でも掘っていたのか?」
からかいながらユマが馬車を降りると、突然、対向の馬車が走り出した。轢かれまいと飛びのいたユマが尻餅をついたところで、それは止まった。
幌の向こうから、青く澄んだ髪が風に揺られながら顔を見せた。
「あらあら失礼。でも、犬っころにはその姿の方が、お似合いだわ」
「クララも、その馬鹿でかいだけの馬車が似合っているよ」
「何ですって!」
相変わらず気の短いクララヤーナは、いきり立って馬車から降りようとしたのだが、
「お止めなすって、クララ様。お行儀が悪うございますわ」
と、馬車の中の声に制止された。
(どこかで聞いた声だな)
馬車の中を覗いてみれば、いつもクララヤーナと共にいる少女達だった。激怒したクララヤーナに顔を殴られた少女もいる。
「せっかくの御茶会ですもの。あのような下賎な輩に時間をとられるのは如何かと……あっ、もしかして、あれってユマ様ではなくて?」
華やかな貴族の娘達の会話を聞きながら、ユマは妙案を思いついた。
「なあ、クララ。俺もその御茶会とやらにお誘いいただきたいのだが?」
蒼くつぶらな瞳が、ぱちくりとこちらを見ている。勿論、ユマには彼女の答えも想像の範囲内にあった。
「馬鹿じゃないの?」
「君は嫌がっているみたいだけど、後ろの彼女達はそうでもないようだ」
ユマは、クゥに勝利して以後の自分の立場を、それなりに理解しているつもりだ。先の精霊台での一件を思い出し、自惚れてみたのだ。
彼女達の主導権はクララヤーナにあることを、ユマは十分に知っている。他の少女達が、下賎とはいえ興味を持たずにはいられない闘技場の勇士を御茶会に加えたがったとしても、クララヤーナが否といえばそれまでなのだ。
「伝説の魔導師ユマに闘花クゥ。御茶会の面子としては少々武張っているが、悪くはないと思うね」
ユマの予測通り、クララヤーナはこれに食いついた。シェンビィ公爵家において、彼女にどれほどの権威があるかは甚だ疑問だが、同時に悪くはない考えであるようにも思えてきた。ローファン伯爵家の跡取りとの交友が決裂したユマとしては、自分だけのコネクションを一つくらいは用意しておかなければ、一晩で身を滅ぼしかねない。端から見れば、これは彼の戯れに過ぎなかったが、実のところユマは必死だった。ユマはシェンビィ公を嫌悪しているが、クララヤーナに関しては彼ほどの悪感情は抱いていない。彼女から他のコネクション――できればファルケ・ファルケオロが望ましい――を引き出せれば上々だろう。
「いいわ。ついて来なさい」
クララヤーナにそういわれて初めて、ユマは自分の馬車に戻った。
一部始終を聞いていたヌルが、クゥをフェペスならびにシェンビィ公爵家の者に会わせないというローファン伯の命令を反故にしたユマに対して、顔を真っ赤にして怒った。
「たかが御茶会にとやかく言うな。またアカアにおっさん呼ばわりされるぞ。それに、これは私事だ。外面さえ保てば、大きな問題にはならないよ」
知った風な口をきいたユマを、もうヌルは止めなかった。
(そうやって調子に乗って、いつか破滅しろ)
と、心中で思っていそうな、強い表情のまま黙ってしまった。
(思えば、凄い面子だ)
ほんの一週間近く前に、闘技場で剣を交わした者同士が、同じ馬車でぎゅうぎゅう詰めになっている。ヌルは窓の外に見える御者の後頭部をじっと見たまま黙りこくっており、クゥもまた顔を伏せたまま、一言も発しない。ヌルはわりかしクゥに好意的だと思っていたユマだったが、クゥの方は明らかに彼との接触を避けている。
(これじゃあ、クララヤーナと一緒に乗った方がましだ)
ユマは心中で愚痴ったが、右腕が痛むと、残った左手でそれを押さえ込んで耐えた。