第五章「貴人チルーク・ティエル」(13)
真相を全て聞いたユマは、自分の顔が熱っぽく膨れ上がるのを感じた。
(この家に、これ以上クゥを置いておくべきじゃない)
ロイオーセンは表面上はユマを敬愛しているように見せているが、留守中にクゥに手を出したように、ただの擬態であることは明らかだ。ユマが恐れているのは、彼が父の目を盗んでクゥや自分に嫌がらせをする分にはまだ耐えられるが、表立ってそれを行うようになると、あるいは自分達の命にも関わるということである。
(クゥは、俺の所有物じゃない。でも、今の彼女にはそれしか生き残る術がない……)
ユマにとっての救いは、どうやらローファン伯にはクゥをただの使用人として酷使するつもりがないらしいことだった。彼の領地であるティエレンは元はフェペス家の所領である。住民達の中には今でもフェペス家を慕う者たちが多く、クゥの扱い如何によっては彼らを無闇に刺激することになる。これは全てシャナアークスの受け売りなのだが、ユマが自分で考えてみても納得の行く理由である。
「クゥ、悪いが君は今日からここで寝るんだ。明日も外出するが、君を同伴する」
クゥは、一瞬だけユマと目を合わせた後、すぐに視線を逸らした。よく見ると、両手はわずかに拳をつくり、スカートをつかんだまま震えている。
「しかし、ユマ様。御館様からクゥの外出は禁止されております」
予期せぬユマの台詞に驚いた侍女が口を挟む。クゥは相変わらず黙ったままだ。
「そうだな。じゃあヌルも一緒に連れてゆこう。それで許可をとれるだろう」
「どちらへ行かれるのですか?」
「オルベル邸へ」
侍女はそれでも承知できないといった風に、首を縦に振らない。
「とにかくだ。明日、クゥをつれて外出すると伝えてくれ。ローファン伯か、伯爵夫人に伝えれば十分だろう。それよりも、彼女の寝床を準備してくれ」
今度はクゥの目も明らかに驚いていた。侍女は更に混乱したようで、
「えっ、あれ……別々でよろしいのでしょうか?」
と、とぼけたことを言った。
(まさか、同衾とはね……)
侍女は当然至極なことを口にしたつもりだったが、意外なことを言われたと思ったユマは、眉をひそめた。ロイオーセンを非難している最中に彼と同類であると宣言されたに等しいからだ。
ユマの不快を見て取った侍女は慌てて、
「か……畏まりました。直ちに用意いたします」
といって、部屋から駆け出した。
部屋にはユマとクゥだけが残った。
ユマはむっつりした表情のまま立ち尽くすクゥに近寄ると、
「ちょっと見せてくれ」
と、青く腫れた頬に手を当てた。
「歯は折れてないか?」
ユマの指先が、クゥの唇に触れた瞬間、女の手がそれを振り叩いた。つながったばかりの右腕であったので、傷痕に激痛が走った。
「あっ……」
あまりの痛さに顔をしかめるユマを見てそれに気づいたのだろうが、クゥは思わず声を上げた。
「いてぇ……一応、元気そうだが、医術士には診てもらったのか?」
クゥの表情がわずかに暗くなった。彼女が答えないので、ユマは自分が予想したことを言った。
「主人に反抗的な奴隷は、治療を受けられない……か」
スカートの上に作った拳がわずかに硬くなったのを見て、不幸にもユマの予想は確信に変わった。
――この女性はユマ様に不幸をもたらします。そういう性にあるのです。
ユマの頭の中に、先ほど路上で出くわした占い師の言葉が浮かんできた。だが、占い師ポヌティフは、女にとってのユマは大吉であるとも言った。自分と共にいる限り、災厄に見舞われても死ぬことはないと。
(クゥは、俺がいなければ死ぬか?)
仮に今、ユマがクゥを手放したとして、彼女を待ち受ける運命は何であるのか。昼は奴隷として生き、夜はロイオーセンに娼婦の真似事をさせられ、数年後には病に斃れるのが目に見えている。
他に何らかの手段を講じて、彼女がフェペス家に戻れたとしよう。そこには既にクゥの居場所など無いのではないか。他にも彼女が三男と婚約していたシェンビィ公爵家に引き渡すという手もあるが、政略結婚とは家格と血筋による関係構築に価値を見出すのであって、一度奴隷の身分に落ちた女などは一顧だにされないに違いない。フェペス家当主バトゥが言っていた、クゥのことを頼む――というのは、これらを全て踏まえてのことなのだろう。
ユマが見捨てた途端に、クゥは死ぬ。これが疑いようのない現実だった。
(畜生、重い……)
自分の手の内に、他人の一生がある。そのような重みに慣れている他の連中が、ユマには化け物のように感じられた。
(慣れてるんじゃない。あいつらは麻痺しているだけだ)
クゥのための寝具が運ばれてきた。ある程度予想はしていたが、ただの薄布一枚を見せられた時には、声を失った。
やがて夜も八時を回り、屋敷内の蝋燭も消え始めた。
「クゥ、俺はそこのソファーで寝るから、君はベッドで寝――」
ユマの言うことなどわかっていたのだろうか、あるいは予想すらしていなかったのか、クゥは床に置かれた薄布を拾い上げると、長いソファーに腰を下ろし、横になった。
(まあ、夏場だからな。風邪はひかないかな)
あまりに優遇しすぎても、向こうが辛いだけだろうと思い直し、ユマは甘んじてベッドで横になった。
眠りが浅かったのか、すぐに目が醒めた。
(トイレ、トイレ……)
用を足すために部屋を出ると、通路の向こうに蝋燭の灯りが見えた。それに照らされる白い顔がこちらを向いたとき、ユマは思わず立ち止まった。
(あれは、リンか?)
リンはユマの姿に気づいたはずだったが、こちらを一瞥しただけで通路の角を曲がって消えていった。
(向こうはロイオーセンの部屋か……)
ユマは一瞬だけ目が合ったリンの表情を、信じられないほど鮮明に覚えている自分を不思議に思った。女の瞳は、ユマが視界に入るや否や、その姿を視界から消したようにも見えた。