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貴く翔べ  作者: 風雷
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第五章「貴人チルーク・ティエル」(12)

「やあ、クゥ……いや、違うな……」

「何をしておられるのです?」


 先ほどからぶつぶつと独り言を続けるユマを見かねたのか、御者台に乗るホウが話しかけた。


「うわ、聞こえていたか。いやなに、帰ったらクゥにどう声をかけたらいいのか、わからなくてね。俺はホウやリュウにどういっていただろうか?」


 ホウは首を傾げた。奴隷への挨拶に困るような主人など聞いたこともない。


「『なぁ』とか単に名前で呼んだりとか、そんな感じでした。気になさるほどのことでないのでは……」

「他人事だなぁ。ホウは明日からリュウが自分の奴隷になったら、どう声をかけようか迷わないか?」

「それは……」


 それ見たことか――と、ユマは勝ち誇ったような顔をしたが、自分の質問の意地の悪さに気づいたのか、すぐさま取り消した。


「いや、すまん。忘れてくれ」


 帰着した。いつものごとく、夜光が霞むほどの豪邸である。シェンビィ公の屋敷に比べたら随分と控えめに見えるが、それでもシャナアークスの属するオルベル邸に比べれば、ローファン伯の権勢がよくわかる。


「晩餐の用意が出来ております」


 といって、リンが出迎えた。


(今日はひとりか……)


 政務が忙しいのか、ローファン伯の姿は無く、伯爵夫人やアカアもいない。特に帰りが遅くなったわけでもないのだが、何か用事でもあったのだろうか。


(ま、どうでもいいことだ)


 たまには一人でひっそりと食べるのも良い――とは思ってみたものの、数人の使用人が見守る中での食事である。慣れないユマにとってはどうにも居心地が悪い。

 と、そんなことを考えているうちに、ロイオーセンが食卓に加わってきた。


「ユマ殿とゆっくり話をしてみたかったのです」


 以前のごとく、四角張った顔つきに似合わぬ爽やかな笑顔で言う。


(それで、アカアや夫人を抜かしたか)


 一対一で話をされる覚えもないユマだったが、ふと思ったのは、ロイオーセンもまた、アカアのようにユマの持つ文化に興味を示したのではないかということだった。


「車のことですか?」


 ユマがロイオーセンの話を先回る様なことを言うと、蛮族相手では勇猛で知られる貴族青年の顔が、にわかにはにかんだ。


「百里を一瞬で駆け、しかも頑丈であると聞いております。それと同じものが百乗もあれば、ローファン周辺の蛮族相手に悩まされることもなくなります」


 アカアとは違って、ロイオーセンは武人の視点でユマを見た。


(蛮族どころか、戦車でも造れば国がれるというのに……)


 ユマは心中で苦笑した。勿論、そのような物騒な話をしたいとも思わない。

 学者肌のアカアとは違って実務家のロイオーセンは車について細部にわたって質問してきた。運転は出来ても構造などはほとんど知らないユマは、矢のように鋭い質問にたじたじになった。


「そうですか……」


 ユマからこれ以上の知識を得ることは出来ないと知ったロイオーセンは、少々残念そうに言ったが、まだ何か話し足りないといった風に口をもごもごさせている。


(まだ、何か訊きたそうだ。車のことはただの前ふりか……)


 どうやら本題はここかららしい――と思ったユマは、ふと、この場にクゥがいないことに気づいた。


(なるほど、そういうことか……)


 先日のクゥの姿を見たときのロイオーセンの反応を知っているユマは、彼の目的が何なのかをここで理解した。


「まだ何かありますか?」


 クゥについて訊きたいのか――と単刀直入に問わなかったのは、彼がクゥを見ていたときの表情が、いかにも好色の青年そのもので、吐き気を覚えたからだ。もしここでロイオーセンが心情を吐露するのを躊躇すれば、ユマはすぐに晩餐を終えて退席するつもりだった。


「ユマ殿、クゥのことです。ぶしつけですまないが、彼女を私に譲って欲しい。勿論、相応の対価は用意します」


 ユマは既に席を立っていたが、再び着席するつもりなど毛頭ない。

 円卓をぐるりと迂回しながら、ユマはロイオーセンの目を見ずに言った。


「仮にです。私がそれをお受けしたとして、貴方はクゥをどうなさるのですか? 奴隷の身分に落ちたとはいえ、クゥは元はフェペス家の令嬢です。娼婦をやりとりするのとはわけが違います。ローファン伯が貴方や彼自身ではなく、私にクゥをつけた理由をもっとよく考えるべきではないでしょうか?」


 それだけ言って、ユマは退室した。背中に凄まじい怒気が投げかけられたのを感じたが、あえて無視した。



 自分の部屋に戻ったユマを待っていたのは、クゥではなく、他の侍女だった。


「クゥは?」

「体調が悪く、今日は休んでおります」


 今朝自分を起こしたときには、特に体調が悪いようには見えなかったから、ユマは違和感を感じた。


(ふん、あの坊っちゃんか……)


 ユマが苦々しい顔をしたのは、つい先頃、ロイオーセンにクゥの譲渡を頼まれたことを思い出したからだ。あの表層は紳士でも、内実はただの乱暴者でしかない男のことだから、ユマが帰宅する前にクゥに話を通していてもおかしくは無い。


「クゥはロイ殿と何かあったのか?」


 侍女は驚いたようにユマの顔を見た。それだけで大体の予想はつく。


「悪いが、クゥを連れて来てくれ」


 数分後、クゥを部屋に迎え入れた時、ユマは自分のこめかみに熱気が溜まるのを確かに感じた。

 左の頬を真っ赤に腫らしたクゥがそこにいた。彼女を連れてきた侍女は恐ろしげにユマの顔を見ている。自分の表情などうかがいようもないユマは、声が震えるのを必死に抑えながら、二人を部屋に招きいれた。

 クゥの額に玉のような汗が浮かんでいる。よく見ると、かすかにだが左半身の動きがぎこちない。


「脇腹か。やったのはロイオーセンだな?」


 あまりのも激しい憤りが、ひとつ言葉を吐くたびに哀哭にも似た声になって外界に放たれ、それと同時に涙があふれそうになった。すんででそれに気づき、懸命にこらえなければ、ユマは無様にも泣いていただろう。

 クゥもまた、ユマと似たような静けさの中にあった。だが、彼女は自ら喋ろうとしなかったため、ユマはそばにいた侍女に話を促した。

 ローファン伯の一人息子は、ユマの留守を良いことにクゥに手を出した。



 クゥはユマの帰着を待つ間、リンの指示の元に大広間の掃除を行っていたのだが、そこにロイオーセンが現れた。彼は壁にもたれかけた姿勢のまま、陶器を丁寧に拭くクゥの姿を見ながら、声をかけた。


「フェペスのじゃじゃ馬も、ローファンに敗北した今となっては、可愛いものだ」


 真横にいたクゥにそれが聞こえないはずもないのだが、彼女は仕事に熱中しているふりをして、ロイオーセンの台詞を聞き流した。

 ちっ――と舌打ちが聞こえたと思ったとき、背後から肩をつかまれた。ローファン男は自慢の怪力で両腕をつかみ上げた女の顔を、何度も舐め回すように見た。


「他の女なら、あの不愉快な金切り声を上げるところだが、さすがは元闘花といったところか。だがな、クゥよ。君は敗者であり、我が家の奴隷であることを忘れていないだろうか?」


 傍でそれを見ていたリンに、ロイオーセンを止める権限はない。彼を制止できるのはこの屋敷の主であるローファン伯か、伯爵夫人、あるいはロイオーセンの教育係くらいなものだが、前二者は屋敷を留守にしており、最後の一者はローファンにて留守を任されている。つまり、現状でのローファン伯爵邸の最高権力者はロイオーセンだった。

 この後にクゥがとった行動に、リンを含めた使用人達は戦慄した。


「お止め下さいまし、若様(・・)。貴方が何か勘違いをしていらっしゃるようなので、お教えしますが、私が敗北したのは闘士ユマにであって、貴方にではありません。この家の主もローファン伯であって、貴方ではありません。垢抜けないローファンの田舎者には親の七光りが通じたかも知れませんが、王都ではそうは行きません。おわかり頂けましたか?」


 クゥが言い終わると、怪力は彼女を束縛することをやめた。自由になったクゥは乱れたスカートを整え始めた。

 次の瞬間、大きな拳がクゥの左頬に激突した。ロイオーセンは、表情こそ涼やかさを保っていたが、明らかに激昂していた。

 足がもつれながらも、クゥは何とか踏みとどまった。頬はまだ腫れ始めてもいなかったが、鼻から滝のように血が流れ出た。自慢の青い髪は乱れ、殴られた頬にかかった。

 それでもクゥは無言でロイオーセンを睨み返した。ここでようやくリンが事態の重大さに気づき、ロイオーセンの制止に動き始めた。というのも、ロイオーセンの視線が壁にかけてあった装飾剣に向かったからだ。


「フェペスの娼婦が、粋がった事を言う!」


 反抗的な態度を崩さないクゥの脇腹を、ロイオーセンは巨体を支える太い足で蹴り飛ばした。さすがのクゥもこれには耐えられず、無様にも床に転倒した。


「お止め下さい! これ以上なさるようでしたら、御館様に報告させていただきます!」


 リンが叫ぶと、ロイオーセンはやれやれといった風に両腕を上げて、


「わかった、わかった。父上には内緒にしてくれよ……」


 と、身を翻した。


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