第五章「貴人チルーク・ティエル」(11)
今から一年ほど前、バトゥ・フェペスは不思議な夢を見た。
森林に囲まれた美しい泉の畔で、一人の老婆が髪を洗っている。バトゥ・フェペスは後ろからそれを眺めていた。
「おいで、坊や」
と、老婆が手招きすると、バトゥ・フェペスは何の疑いも無く、老婆に近づいた。
「かわいい子だねぇ」
そう言われて、バトゥ・フェペスは自分が小さな少女を引き連れていることを思い出した。
少女はバトゥとつないでいた手を離し、老婆へと駆け寄った。
「あ、待って……」
少女の名を呼んだのだが、それが何であったのかは今でも思い出せない。
老婆は少女を抱き寄せると、胸元から小さな宝石を取り出して言った。
「これを、あなたに貸してあげる。でもすぐに奪われてしまうわ。それでも欲しいというのなら、持っていきなさい」
少女は首を傾げたが、やがて老婆から碧く光る宝石を受け取った。老婆は少女の頭を撫でると、優しく地面に下ろした。
ふと、対岸に人影があった。
黒衣の男である。
男は泉に足を踏み入れた。すると、男の足を避けるように水が引いた。
男が進むたびに、泉の水が枯れてゆく。やがて、老婆の前に立った頃には、そこは一面の荒野に変わっていた。
いつの間にか、少女は男の傍にいた。
男は老婆の顔を見ている。老婆もまた、男の顔を見ていたのだが、目元から光の筋が頬に伝った。
黒いマントが翻ると、男は泉の向こう側へ歩き出した。
「あっ、連れて行くな。その子を置いてゆけ!」
バトゥ・フェペスは慌てて男の後を追った。だが、踏み出したはずの足から力が抜けてゆく。どんなに走っても男に追いつかない。
「放っておきなさい。雲雀のように高く飛ばなければ、あの人には追いつけないわ」
天空から、鳥の声が落ちてきた。
気づけば、枯野だけがあった。老婆も、男も、自分が手を引いていた少女さえもいなかった。
何故か、胸が張り裂けるように痛く、熱かった。心臓をえぐるようにかきむしると、いつの間にか手の内に碧く光輝く宝石があった。
そこで目が醒めた。
「吉です。しかも大吉!」
亡父のつてをたどって知り合った占い師の女が言った。
西隣のペイル共和国の出身で、名をポヌティフと言った。いつもフードを深くかぶっているせいで、年齢もわからない。声は若々しいものの、十年前に死んだ父と懇意であったというから、十代とは考えられない。
「吉ですか?」
バトゥ・フェペスは不思議そうに言った。どこか寂しさの漂う夢で、自分の手の内にあった少女が連れ去られてゆくのだから、不吉を感じたのだ。そこで、かつての父が夢占いに熱心であったことを思い出し、ポヌティフに行き着いたわけだ。
「言うならば、泉はこの王国です。老婆は恐らく貴方の家にゆかりがある人でしょう。あるいは御先祖様かも知れません。対岸にやってきた黒衣の男は、王国との縁が薄く、しかし大人物です。何せ、彼が足を踏み入れた泉が干上がってしまったのですから。私はオロの政局に詳しくありませんが、どなたか心当たりはありますでしょうか?」
そういわれたバトゥ・フェペスの脳裏に、ひとりの男の姿が浮かび上がった。
南蛮の深い森林を映すような黒髪に、優しげに涼む目元、口元は優雅な気品を保っており、しかし容姿そのものは光を放つように鋭い。
「蛮侯か……」
南蛮渡来の新興貴族の長、ウルツェウェンド・ガオリは、当人の人当たりの良さと半比例するように宮中で絶大な権力を手中にしつつある。
バトゥ・フェペスは嫌な顔をした。ガオリ侯は嫌いではないが、何せ彼はフェペス家の宿敵であるローファン伯を与党に引き入れている。ローファン伯爵家の者にパンの一切れでも奪われることを恥とするのが、フェペス家の家訓だった。父と比べて大人しい性格のバトゥでさえこれであるから、活発で家族を愛する心の強いクゥに至っては推して知るべきだろう。
「その御方によって、貴方の血族が大いに栄えます」
「うーん……」
バトゥ・フェペスが唸ったのは先の理由もあるが、彼自身、ガオリ侯の台頭に乗じるべきではないか――という考えを持っていた。シェンビィ公派の傘下にあるとはいっても、ガオリ侯とバトゥ・フェペスはかつては王都で共に学んだ学友でもある。それだけでガオリ侯がフェペス家を自分の勢力に組み入れる理由にはならないが、きっかけには十分である。シェンビィ公の与党を一つでも減らしたいというのが、ガオリ侯の心情であろうから、喜んでフェペス家を受け入れるだろう。それに、ガオリ侯が自分の名目で、フェペスとローファンの抗争を終結させるという大役を果たすことになる。両家の因縁は王都でも有名であるから、ガオリ侯はたやすく名声を得ることが出来る。
ローファン伯との和解は、何もバトゥ・フェペスの独創ではない。彼の父である先代のフェペス子爵の頃に、両家の歩み寄りを試みていたのだ。だが、それはティエリア・ザリの事件によって破綻した。
「ホルオースに話してみるか」
ユマはホルオースを小間使いくらいにしか思っていなかったが、先代の頃からフェペス家に使える重鎮である。でなければ、仇敵であるローファン伯爵家との交渉役に選ばれるはずがない。
バトゥ・フェペスの話を聞いたホルオースは、眉を逆立てて怒った。
「主よ、何を仰います。夢に出たというくらいで、長年続くシェンビィ公との交友を反故になされるおつもりか?」
こうやって詰め寄られると、バトゥ・フェペスは弱い。
「それだけではない。シェンビィの跡取りはうつけだと言うではないか」
「当主がうつけでも、補佐が優れていれば一家は揺るがぬものです。三男のルルア様は文武に秀で、優れた人格をお持ちです。そのためにクゥ御嬢様との婚約をとりつけたのではないのですか?」
バトゥ・フェペスは黙ってしまった。ホルオースの言う通りなのだ。夢占いなど、古代では政策を決定するほどの力を持っていたが、現代では乙女の恋占いくらいにしか使われない。錆びた習慣なのだ。亡父が何故、このようなものにはまったのかはわからないが、それでもバトゥ・フェペスは気にかかった。
ホルオースから小言を散々に聞かされた後、バトゥ・フェペスは賓客としてもてなしていたポヌティフに会った。
「料金はお支払いしますが、どうやら、占いは役に立ちそうにありません」
と、事の顛末を正直に話してしまうあたり、彼の人の良さと、ホルオースやクゥが案じるような危うさがあった。だが、ポヌティフはそんな彼の性格が愛らしいとでも言わんばかりに、優しげな口調で言った。
「今、すぐに役に立つものは、人にとってほんの一握りしかありません。ほとんどのものは、人生を歩んでゆく上で、いずれ役目を果たすものです。ですから、今は必要が無くとも、心に留め置く事が人生の秘訣です」
ポヌティフの言葉に、バトゥ・フェペスはあやふやな笑みで返した。
それから一年が過ぎようとしたある日、クゥに伴って闘技場に行っていたはずのホルオースが、慌てて帰着した。
「主よ。夢の意味がわかりました」
「夢? 何のことだ」
バトゥ・フェペスはすっかり忘れていたが、ホルオースに言われてようやく思い出した。
「それで、その夢がどうかしたのか?」
一年前、夢占いによって自家の行く末を決めようとしたバトゥ・フェペスを、ホルオースは強く諫めた。だというのに、今更このようなことを言いだして何になるのかと、バトゥ・フェペスは思ったのだ。
「ヤムです……」
と、ホルオースは不敵に笑った。冷静沈着な彼にしては珍しく興奮している。
ホルオースの口から、クゥがローファン伯爵家の者相手に闘技試合を申し込んだことを知ったバトゥ・フェペスは激怒した。
「お前がついていながら、何という軽挙だ!」
バトゥ・フェペスが唇を震わせて言うと、ホルオースは全く悪びれもせずに答えた。
「主よ。これは千載一遇の好機です。どうか私にお任せ下さい」
何か存念があるようなホルオースの口ぶりに、バトゥ・フェペスは首を傾げた。
次いで、両者の沈黙を打ち破るようにクゥが入室した。
「兄上、ホルオースの言う通りです。今こそヤムからティエレンを取り返す時です」
口をきつく結んだクゥの表情を見ると、どういうわけか、バトゥ・フェペスは一年前に見た夢の内容を鮮明に思い出した。
(あの少女は……クゥか)
思えば幼い頃のクゥにそのような面影があった。だとすると、クゥを奪い去った男はガオリ侯か、ローファン伯のどちらかだろう。
その日の内に、王宮からの使者が来た。光王が王覧試合を望むという申し出だった。
(手遅れか……)
ここに来て、バトゥ・フェペスは覚悟を決めた。夢に出てきた少女がクゥなら、この度の試合はフェペス家の敗北に終わる。ポヌティフはクゥを奪い去った男によってフェペス家の血胤が大いに繁栄する様なことを言っていた。ローファン伯がクゥを奪い取り、クゥがその子を生むことであれば憤怒で腹が煮え繰り返るが、それはフェペス家の興隆とは全く違う。フェペス家当主としては、クゥが敗北した後の身の振りを考えておく必要がある。
とはいえ、知略に全く自信のない男である。シェンビィ、ガオリの大貴族に対してはホルオースに一任したといえば聞こえが良いが、バトゥ・フェペスはこれといった方策も思いつかないまま、時間だけが過ぎた。
漠然と不安を感じたためか、ポヌティフに使いをやり、改めてフェペス家を占ってくれるように頼んだ。魔術で栄える王国だけあって、ただの伝書鳩でも驚くほど正確かつ迅速に届く。馬車で十日はかかる旅路の果てにあるペイル共和国からの返事は、わずか三日ほどで届いた。
――沈黙することです。小細工を弄すると、運命の歯車に引きちぎられます。
ポヌティフからの手紙の内容に首を傾げたバトゥ・フェペスだったが、どちらにせよ他に方策もなかった。
そして、試合当日にキダが消えた。
(試合が成り立たない……)
ヌルを相手取っての剣闘に、クゥは勝利した。勝つに越したことはないのだから、バトゥ・フェペスは予想外だった勝利をにわかに喜んだが、クゥの正規の対戦相手であるユマの登場によりそれは掻き消えた。まるで、フェペス家の命運はあらかじめ決まっており、神が予想外の生命力の強さを見せたフェペス家の頭を押さえつけるようにして、世の摂理を捻じ曲げたとしか思えなかった。
(私は……本当にヤムを憎んでいるのか?)
自分自身、クゥや家人の熱にやられたかのように、自ら剣をとってファルケ・ファルケオロを制止した。ポヌティフの占いに心傾くことはあっても、やはり捨てきれぬものがあった。
だが、それではフェペス家の未来は見えない。
(いや、自分が誰を憎んでいるのかなど、明らかにすべきではない……)
憎悪は諸刃の剣である。片方は敵に向き、もう片方は必ず自分に向いている。憎しみのあまり、自らを傷つけるのではない。自らを傷つけるあまり、憎しみが増すこともある。憎悪の対象を明らかにしたところで、人は自分を憎んでいるなどとは露程にも思わない。そして自らを傷つける痛みの矛先を、誰かに向けるのだ。それで何が見えよう――と思った時、脳裏にユマという男の姿が浮かんだ。あの男ほど自分自身を憎んでいる人間を、バトゥ・フェペスは他に知らない。
途端に、バトゥ・フェペスの脳裏にこれからフェペス家が辿るであろう運命が鮮明に映った。
(フェペスの興隆はユマの肩にかかっている)
試合がクゥの敗北に終わっても、バトゥ・フェペスは絶望しなかった。彼は日を改めるとすぐさまシェンビィ公に使いを遣った。
フェペス家の復興、故地ティエレンの奪回の両方が、ローファン伯に再度の敗北を喫した今になって可能になるやも知れないことに気づいたのだ。
臆病な男の、一世一代の賭けだった。