第五章「貴人チルーク・ティエル」(9)
宴が終わった後、部屋に戻ってきたユマの前に、クゥがうがい用の食器を持って立っていた。
(やれやれ、ようやくリンから開放されたというのに)
ユマは別にリンを嫌っているわけではない。軽率にも彼女を抱いたことで災厄に見舞われたことが不快だったこともある。ただ、自分にかかった口封じの呪いを解くためには、リンを殺さなければならない。そして、この呪いに正面から立ち向かうということは、ローファン伯に真っ向から刃向かうことを意味する。フェペスとローファンの抗争に首を突っ込んで死ぬ思いをしたばかりのユマに、ローファン伯に嫌がらせをする程度の度胸はあっても、彼と直接対決するほどの勇気は残っていなかった。ユマがリンから出来るだけ遠ざかろうとしているのは、ただ単にローファン伯との対決を避けたいからでもあった。
とはいえ、目の前にクゥがいる。
ユマは無言でクゥの持ったボールから水を汲むと、うがいをした。リンならば「お疲れでしょう」と声をかけるくらいのことはするのに、クゥはひたすらに無言だった。
(無理ねぇな……)
うがいを終えると、ユマは上着を脱ぎ捨ててベッドに突っ伏した。しばらくそうしていると、食器をかたつけ終えたクゥが再び自分の前にいた。
「御主人様、御着替えを……」
そう言われた時、ユマの中で空しい何かが吹き抜けて行った。それは次第に、冬の朝に喉が枯れるのにも似た苦さをともない始めた。
ユマが言われるままに起き上がると、クゥは主人の着ているシャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していった。
「……君の、兄に会った」
何故か、ユマは喋っていた。沈黙に耐え切れなかったのかどうかはわからない。ただ、自然に口をついて出た言葉がこれだった。
「左様ですか」
「君の事を頼むと言われたよ」
「左様ですか」
クゥは黙々とシャツのボタンを外している。外し終わると、後ろに回ってシャツを脱がせる。
「手際が良いな」
「ありがとうございます」
シャツを脱がせ終えると、ベルトを緩め、ズボンを脱がせる。足元までずらせたのだが、何故かユマは足を上げない。
「御主人様、足を上げていただけますでしょうか?」
また、ユマの中で虚しくも烈しい何かが鳴った。
「その呼び方をやめろ」
「えっ?」
驚いたクゥは顔を上げた。ユマは自分でズボンを脱ぎ捨てると、眼下で膝をついていたクゥの胸倉をつかみ、ベッドの上に引きずり倒した。
「クゥ、俺を恨め。俺はお前から全てを奪い取った。お前の言うとおりだ。俺の口から出るのは虚言ばかり。結局は自分を正当化するためにつらつらと喋っていたわけだ。挙句の果てに……はは、笑えるよ。自分用の奴隷なんかつけられてさ。どう思う? お前は今日から俺のものなんだそうだ」
ユマは凄んだ声で言うと、クゥの小さな胸をわしづかみにした。
苦痛に顔をゆがめるものの、それは一瞬の事で、クゥは物怖じもせずに返した。
「では、何とお呼びすれば?」
この時点で、ユマはクゥとの会話の無駄を知った。彼女が自分の人生を捨てたことを知ったのだ。奴隷に落ちたとはいえ、闘士としての気概を失っていなければ、クゥは激怒してユマを殴り倒しただろうし、フェペス家という後ろ盾を失ったにも関わらず、貴族の娘としての自覚を捨てていなければ、ユマの圧力に恐怖しただろう。そのどちらでもない――つまりはただ従順であるということは、クゥが全てを放棄したに等しい。ユマは、自分が一番見たくなかった姿のクゥを見ていた。
クゥの襟元を締め上げていた力が抜けてゆく。やがて彼女を解放したユマはふらふらとベッドの上に腰を下ろした。
「好きにしろ。ただし、御主人様は駄目だ」
クゥは何事もなかったかのように乱れた衣服を整えると、ユマの脱ぎ捨てた服を拾った。
「お休みなさいませ。ユマ様」
そう言われたユマの全身に、言いようのない怒りがこみ上げてきた。
翌朝、予想していたことだが、すぐにクゥと顔をあわせることになった。今まではリンが寝坊しがちなユマを起こしていたが、その仕事がクゥに回った。
「ユマ様、朝です」
言葉使いは丁寧でも、リンと違ってクゥの態度はどこかさっぱりとしている。彼女の感情のあり方も考えるべきだろうが、これは単純に性格の差だろうと、ユマは思った。
「本日はいかがなされますか?」
特に予定など無い。アカアに自分の世界の話をしてやる他には仕事らしい仕事も無い。もとからローファン伯のためにこれ以上働いてやろうという気も起こらない。
「出かける」
ユマが身を起こすと、クゥは心得たように背後に回り、ぴっちりと皺を伸ばしたシャツを後ろから着せる。
「どちらへ行かれますか?」
「オルベル邸へ」
「左様ですか。馬車を手配いたしますのでしばらくお待ちくださいませ。御者に御希望はございますか?」
「ホウを。これからも特別な理由が無ければ彼で頼む」
「かしこまりました」
「何なら君も来るか?」
ユマはクゥの表情を確かめるように後ろを振り返った。真後ろにいたせいか、見えたのは深い青色の髪だけだった。
「御館様より、外出を禁じられております。同伴でしたら他の者をお連れ下さいませ」
「……そうか。じゃあ、リュウを頼む」
「リュウでしたら朝早くにヌル様とともに外出してます」
ヌル――と聞いてユマの眉が上がった。
「何だ。あの男まだいたのか」
ユマの独り言に、クゥは何も答えない。ユマとしては、クゥに完敗したヌルを見られたのは一つの幸運だったが、二人の確執を彼女が知るはずもない。
「ホウと二人で行く。準備を頼む」
クゥは昨夜の出来事など忘れた風だった。傲慢だと自分でわかっていながら、ユマはそれが癪だった。
「クゥ」
「はい」
「荊とは何だ?」
「……薔薇の花の荊でしょうか」
ユマの質問の意味がわからないクゥは首を傾げた。だが彼女の表情を見るまでもなく、ユマは自分でも酷な質問をしたことに気づいた。
「いや、良い。忘れてくれ」
ユマを迎えたシャナアークスは、いつになく上機嫌だった。
「聞いたぞ、ユマ。男爵位を蹴ったそうだな」
さすがのユマもドレス姿のシャナアークスを見慣れてきた。貴族の娘にしては豪快な気のある女だが、陰気この上ないリンや今のクゥ、どこか螺子の緩んだアカアに比べれば、会話を楽しむ余地が残されているような気がした。
オルベル邸はローファン伯爵邸に比べると随分狭い。とはいえ、一等地ともいえるリの街の高台にある都合、王都を見下ろす景色が壮観ではある。
庭先にぽつりと置かれたテーブルを囲んで、二人は座っている。今日のような日差しの強い日は淑女ならば敬遠しそうなものだが、シャナアークスはそのようなことを気にかけないようだった。
氷で冷やした果実酒を口に含んだユマは、杯を置くと同時に口を開いた。
「……耳が早いな」
「今日はどうした。勝手に王命をないがしろにして、ローファン伯の怒りを買ったか?」
シャナアークスが豪快に笑う。ここまで男勝りだと逆に清々しさを感じる。
「直属の奴隷にクゥを付けられた。正直に言ってしまうと、どう接していいのかわからない」
「へぇ……」
地獄耳のシャナアークスといえども、これは初耳だったようだ。
「何だ。人のことをまじまじと見て」
シャナアークスの目が薄く笑っている。自分が馬鹿にされているのはわかっているが、それでもあまり怒る気になれない。クゥの扱いに困るというのは、勝者のわがままに過ぎないことをユマは理解している。
「それは酷いぞユマ。クゥは今やローファンに忠誠を誓った身。主人の義務を果たさなければ部下が難儀する」
「そう言われると思ったよ」
溜息をつくユマをみて、シャナアークスは不満そうな声を上げた。
「そういう時は、男連中で集まって狩りをしたり、闘技場に出かけたりして鬱憤を晴らすものだ。だというのにお前ときたら、女の耳に愚痴を詰め込みに来て、情けないとは思わないのか?」
「思えば王都に来て以来、同年代のダチなんていないよ。キダは逃げちまったし、話に付き合ってくれそうなのはシャナアークスくらいしかいないんだ」
シャナアークスは目をぱちくりさせた。確かに、王都に来て数日の旅人があてに出来る友人などどれほどいようか。
「ふっ、ロイオーセンとはウマが合わなかったか?」
「あいつは駄目だ。まるで小さいローファン伯だよ」
「小さいローファン伯。これは傑作だ。だとすると、ティエリア・ザリの悲劇がまた起こることになる」
またこの名前か――と、ユマは呆れたくなった。思えば今回散々な目に遭った遠因は、ティエリア・ザリなる人物にあるような気がしてきた。
「ろくでもないことを言わないでくれ。今度は誰が酷い目に遭うんだ?」
「他の誰でもない。お前の近くにいる」
突然、シャナアークスが刺すような視線を投げかけてきた。それが誰を指すのか、ユマにはすぐにわかった。
(いや、まさか……)
自分が想像したことは、ただの杞憂に過ぎない。そう思わなければ、またもや軽率な行動で災厄に見舞われることになる。ユマは、白昼から酔いつぶれたい気分になった。
「シャナアークス。何か賭けようか」
あえて話題を逸らしたユマだったが、シャナアークスもこれ以上は話を掘り進めるつもりが無かったようだ。
「何だ。藪から棒に」
「キダが帰ってくるかどうかだ」
「生きているかどうかの間違いではないのか?」
シャナアークスが言うことも一理ある。キダの失踪の直後にユマは刺客に襲われたのだから、彼が同じような目に遭っていてもおかしくない。
「いや、あいつは生きている。前の逃走は多分キダの計算だよ。きっと何か考えがあったんだ」
「信用しているのだな」
シャナアークスの目が、先とは違う意味で笑った。
「俺はキダが帰ってこないに金貨一枚だ」
「どういうことだ?」
てっきりキダの帰還に賭けると思っていたのだが、ユマはそうは思わないらしい。
「簡単だ。奴は自分を見捨てないようにわざわざ誓わせたにもかかわらず、俺を見捨てた。のこのこ顔を見せれば、その場で殴り倒してやる」
リの貴族街を金縁で彩られた馬車が通る。
車中のクララヤーナはうとうとと眠りこけていたが、窓の外の大声に体をびくつかせた。
「誰よ。昼間から馬鹿笑いしているのは!」