第五章「貴人チルーク・ティエル」(7)
「……ちょっと、聞こえてらして?」
突然、声をかけられたユマは首を上げた。夕日を遮って小さな影が三つ、前の路地に並んでいる。声は中心の影かららしい。
「先ほどからずっとお呼びでしてよ」
左手の影が喋る。どこかで聞いた声だと思ったユマは、逆光を防ごうと、手をかざした。
光を浴びるほどに踊るような変化を見せる青色の髪、夕日に照らされてもなお純白を保つ肌、細く滑らかな眉に、大きな瞳と、十三という年齢からはかけ離れた美貌がそこにあった。
「何だ、クララか。親父さんは元気かい?」
親父ではなく、糞親父と罵りたい気分はあったが、何分陰謀とは無縁の場所にいる少女の眼前で、義理ではあっても父を侮辱することはあるまい――と思い直して台詞を選んだのは、ユマの性格を考えると奇跡に近い。あるいは、ファルケ・ファルケオロと比べて淑女という言葉からは程遠い――年齢も遠いが――クララヤーナを見ると、さすがのユマも自分の行動を鑑みて思うところがあるのだろう。特定の人間に対しているときだけ自省が発揮されるというのは、この男だけの欠点ではあるまい。
「何でそこで御父様が出てくるのよ。貴方が脱走したおかげで大目玉だったんだから」
「そりゃあ、悪いことをしたね」
「ふん、貴族の仲間入りをしたくらいで随分な口の利き方じゃない。貴方、わかってらして? 私は光王の次に偉いシェンビィ公の娘なのよ。次に生意気な台詞を吐いたら容赦しないわ」
クララヤーナが、細く可愛らしい声に精一杯凄みをきかせて言うと、彼女を取り巻く二人の表情が、片方は怯えるように、もう片方はユマを蔑むようなそれに変わった。
(はは、学生は耳が早い……)
ファルケ・ファルケオロが光王の使者となってユマに男爵位を与えようとしたことは、既に精霊台の噂になっているのだろう。思えばユマは時の人である。
滞在を始めて一月も経たないが、街の雰囲気が変わったことに驚かされた。
どうやらクゥを負かして以来、東国の術士ユマは相当に有名になったらしく、街を歩いているだけでも、
――やあ、伝説の魔導師!
と、街を歩く人に声をかけられたりする。数日前までは女達がクゥを真似てつけた闘花冠が道々を彩っていたのだが、今はそれもないことに、ユマは寂しさを超えて腹立たしさを感じる。
「貴族はね、やめたよ」
ユマがこぼした台詞を、クララヤーナは理解できないようだった。
「やめた? 断ったの? 何で?」
「さあね。とにかく、やめたんだ」
そういうと、ユマは相も変わらず馬の毛並を整えていたホウに声をかけた。
「じゃあね。今度会ったときは、精霊台の中でも案内してくれ」
自分がクゥを奴隷に落としめた張本人であるという引け目からか、ユマはクゥの従姉妹であるクララヤーナとどう接すれば良いのかわからない。これ以上、話をしても良いことはないだろう。
「ちょ……ちょっと、まだ話が……」
どういうわけか慌てるクララヤーナをよそに、ユマが彼女の連れを見渡すと、先日、クララヤーナに肘打ちを喰らわされた少女がいた。
――ご無事で、何よりです。
とでも言いたそうに――恐らくクララヤーナを憚ってだろうが――無言で頭を下げた彼女を見ると、ユマは少しだけ救われたような気分になった。
(一人でも、こういう子がいると救われる)
クゥが奴隷身分に落ちて以後、ユマは自分が戦った意味がわからなくなった。助けるはずのキダはどこかへと消え、勝利によって利益を得たのは、自分を陰謀に巻き込んだローファン伯だったからだ。
ひかれてきた馬車に乗る途上、ユマは何かを思い出したようにクララヤーナの方を見た。
「クララ、全ての術を解析できるという君に聞きたい。あの日、あの場所で何が起こった?」
今度は車上からユマに声をかけられたクララヤーナは、彼の無礼を咎めるより前に、彼の唐突な質問に対して怒ったように声を荒げた。
「何よ、それ。貴方、自分が何をしたか理解していないの?」
「君にはわかるのか?」
その問いに、クララヤーナの言葉が詰まった。どうやら術研究の天才にもわからぬことがあるらしい。
「なるほど、よくわかった」
まるで自分の反応見たさに話しかけられたように感じて、クララヤーナは自分がユマに侮辱されたものだと思い込んだ。羞恥と怒りで、オロの三大美女に数えられる少女の頬が真っ赤に染まった。
何か罵詈を飛ばそうと膨らんだ頬が見えないのか、ユマは話を続けた。
「もうひとつ問いたい。君には伝説の魔導師とか呼ばれる今の俺がどう見える?」
「ただのオッサンがそこにいるわ。貴方が魔導師なんて悪い冗談よ」
クララヤーナが彼女にしては柔らかい言葉でユマを罵ったのは、二人の姿を見止めた生徒達が集まり始めたからだ。闘技場の花とも言うべき不敗のクゥを負かしたユマがそこにいるとわかれば、たとえ学徒であっても若者なら興味を持たないはずがない。
「そうか。君が言うなら、そうなんだろう……」
ユマはそれだけ言うと、馬車に乗り込んだ。人ごみを縫うようにして、ホウの御する馬車はだだっ広い道を進んだ。
ローファン伯爵邸に帰り着くと、見慣れぬ馬車が邸内にあった。
「おや、また客人かな?」
フェペス家当主、ファルケオロ家の御令嬢と来て、今度はシェンビィ公でも来たかと想像したユマだが、実は違った。
いつものごとく、リンが門前で待ち構えていた。彼女はユマに声をかけられるのを待っているように、邸内に入った後も付き従ってきた。
(こういうところが鬱陶しい)
ユマは、リンを媒体にして呪いをかけられたことを後悔している。だからといって、自業自得である以上、リンに復讐する気など毛頭ない。であるのに、彼女はユマから何らかの罰を受けることを望んでいるように見える。
ユマは、リンのすがるような視線を一切無視した。自分が彼女にしてやれることはないし、彼女に助けを請うようなこともない。
そんな、やりとりをしないというやりとりの中で、リンは客人の正体を告げた。
「ロイ様が帰着なされました。晩餐に出席なさるようにと、御館様が仰っておりました」
「ロイ? ああ、ロイオーセンか……」
途端に、ユマの脳裏に、純潔を汚されて泣き叫ぶ花嫁と、燃え上がる民家が闇夜を明るく照らす光景が映った。フェペス家当主バトゥの話が本当ならば――恐らく本当だろうが――現在のユマが最も警戒すべき相手である。
思えばローファン伯を交えての食卓はこれで三回目である。最初はクゥの決闘を安請け合いした日、二度目はファルケ・ファルケオロが光王の勅使として来た日、そして三度目が今日である。どれも食事を楽しんだ記憶のないユマにとっては、気鬱になっても仕方のないことだった。
「ということは、ヌルも帰ってきたのか?」
「はい、何か御用ですか?」
「いや、いい。あの怪我でよく迎えに行けたな」
「我が家の医術士は優秀ですから」
優秀な医術士とやらがいても、ホウの怪我は長い間放置された。ユマは、やはりこの家に違和感を感じる。オロが異文明だということは十分に承知しているが、ファルケ・ファルケオロのように身分の差を歯牙にもかけない人がきわめて珍しいことに、一抹の寂しさを感じる。
雄大な体躯、大きな顔、黒く長い顎鬚と、ローファン伯の若返った姿そのもののように見えるのが、ローファン伯爵家の嫡子ロイ・ヤム・ローファンである。ロイオーセンというのはあだ名で、ローファン地方の方言で屈強な戦士を意味する。ただし、蛮族のことをオーセンと呼んだりするから、あまり良い意味ではない。
年齢は二十代の中頃で、ユマと同年代だが、蛮風猛々しい容貌とは違って、眼光に知的な輝きがあり、教養も豊かである。ただし、笑うときにいやらしく口の端が曲がる。
「ユマ殿、お会いしたかった!」
と、爽やかに握手を求めて来た時には、何やら彼の黒い噂が信じられなくなったが、何分ユマも外見で人を判断する危うさを痛感したばかりであるから、軽々しく己の心情を吐露しない。
「初めまして、ロイ殿。貴方の武勇は王都にまで聞こえてきますよ」
「はは、我が都を奪おうとする未開の蛮族を時々追い払っているだけです。王都では未だに田舎者扱いですよ」
ロイオーセンは謙遜したが、相手が文明人――というよりは農耕民族――であるかどうかの違いは、軍事の資質とは関係がない。むしろ、国家というまとまりを持たない――つまりは軍隊としての徹底した指揮系統を持たない集団を相手に戦争をするのは、実は相当な難事である。武器や戦術はローファン側が優れていても、数十にも及ぶ部族から領地を守るのは並大抵のことではないことくらい、ユマにもわかる。
「フェペスの女狐は、手ごわかったでしょう?」
と、ロイオーセンは軽々しく質問してくる。彼の食事の仕方は実に豪快で、豚の丸焼きを素手で引きちぎっては口に放り込むといった具合で、彼がローファン周辺の蛮族であると言われればそのまま信じてしまいそうだ。
「ええ、まあ……」
ユマとしては、あの試合に関しては他人に話すような誇らしいことは何もないと思っている。事実、ユマは己の行動を恥じた。クゥを相手取っての無謀な大立ち回りや、光王に対する数々の無礼も、後から考えれば全く無計画で、何の意味があったのか、自分でもよくわからない。ただひとつ、ユマが正しいことをしたと確信しているのは、暗殺されたシェンビィ公の家臣を除けば一人の死者も出さずにフェペスとローファンの抗争を終結させたということだけだった。それを褒める人など一人もいないにしても。
「兄様、頬に肉切れがついてましてよ」
アカアが陽気な声で言う。年齢相応に快活なお嬢様は、兄のことが大好きなようで、ロイオーセンが何か喋るたびに目を輝かせてそれを聞いている。
(端から見れば、良い家族なんだが……この家は何かを食い尽す度に幸福を手に入れてゆく)
何の権能も持たないアカアにしろ、リュウやホウの命をゴミクズくらいにしか思っていない。それが文化であるといわれれば、ユマは反論できない。闘技場で吠えた時のように、オロ文明を破壊してまで自分の住み良い暮らしを求めようとは思わないからだ。やるとすれば、ユマの故郷が数世紀前に血みどろの戦いの果てに成した革命をこの世界で再現して見せるしかない。そこまでのバイタリティーも夢想も、今のユマには残っていない。
ロイオーセンと話してみると意外に気さくで、実に人の話をよく聴くせいか、つい饒舌になりそうな自分を戒めるのに、ユマは苦労した。表面だけ見れば、ローファンの家を継ぐのに申し分ない人格者である。ただ、ユマは彼の裏面――フェペス家当主が言ったような残酷な性格を常に警戒した。
食後、ローファン伯がいつの間にかユマの後ろに控えていたヌルを呼びつけた。
(おや、残念ながら元気そうで……)
ユマは心中で悪態をついたが、その後にヌルがつれてきた人物を見て我に返った。
「皆、よく聞きなさい」
ローファン伯が手をたたくと、それまで楽しそうに談笑していたアカアとロイオーセンがすぐさま容儀を正す。
「今日から我が家に新しい家族が増える。さあ、出てきなさい」
ローファン伯が再び手を叩くと、リンと同じ黒い装束に、赤い闘花冠をつけたクゥが、皆の前に現れた。