第五章「貴人チルーク・ティエル」(5)
ローファン伯爵邸に帰り着いた頃には、既に日が暮れかけていた。
ユマの表情は晴れない。
オルベル邸のシャナアークスを訪ね、ロイオーセンについて訊いたのだが、フェペス家当主と同じ話を聞かされただけだった。それに、ユマはもう興味を失いかけていたが、闘技場に入る直前に襲ってきたホルオースの行方についても大した情報は得られなかった。
――ねじ伏せはしたのだが、上手く逃げられた。警備の者が駆けつけるのが遅かったせいもあるが。
と、シャナアークスは不愉快そうに言ったが、彼女は賊の正体がホルオースであることまでは知らない。それでも良い――と、ユマは思った。シェンビィ公の家臣暗殺はローファン伯の陰謀に違いないのだが、この期に及んでそれが明るみに出てしまうと、ユマ自身が無用の災難に見舞われることになる。
(奴らはどっちもクズさ……)
シェンビィ公とローファン伯――あるいはそれにガオリ侯も足して良い――のどちらかに正義があるわけではない。シェンビィ公がフェペス家を陰助するためにティエレンの民を煽動しようと企んでいたことをユマは知らないが、そうでなくともローファン伯を陥れるために、ユマの無実を知りながら濡れ衣を着せようとするような男を喜ばせることはない。ローファン伯に至っては、リンを利用して客分の男に呪いをかけた彼の意図はいまだに理解できないが、キダを救おうというユマの目的を自分の野心に置き換えた彼には殺意すら覚える。
(俺は、本当にこの家にいるべきか?)
先のフェペス家当主の話ではないが、ユマ自身、例えばシャナアークスから声がかかれば、今すぐにでも彼女の客分になりたい。他の大貴族とは比較的に距離を置いているらしいファルケオロ公爵家などは願ったりだ。
出迎えに来たリンが門に手をかけた時、ユマは思い出したように振り返り、庭の向こう側にある厩舎に馬を引いてゆくホウに声をかけた。
「ホウ。見事だったぞ。フェペス卿が褒めていた」
ホウの表情が見る間に明るくなり、頬が赤くなった。彼は、脚を折ってからというもの、大した仕事にもつけずに空しく日々を過ごしていた。主であるアカアは彼のことをほとんど忘れたようだったが、周囲の者達から随分と白い目を向けられただろうことは彼の表情を見れば少しは想像できる。リュウはヌルに気に入られたのか、彼の下で働くことが多く――ホウを見捨てようとした人間の下で働くという精神がユマには理解しがたいが――リュウより一歳年長のホウにしてみれば、悔しい思いをしたのかもしれない。ユマが、出迎えに現れたアカアやリン、そして他の使用人達に聞こえる声でホウを褒めたのは、ここ数日は自分に降りかかった災難に対処するのが精一杯で、彼に声もかけてやれなかったことへの、一種の償いなのかもしれない。
「あら、彼に御をさせたのですか?」
ユマの帰着を知り、扉から顔を出したのはアカアだった。
「ああ、久々に気持ちよく馬車に乗れたよ」
そう言ったユマの表情は、必ずしも晴れていない。
屋敷に戻ったユマを待っていた人物がいた。
「今日は客人が多い」
ユマは一笑したが、客人の名を聞くなり首をかしげた。
ローファン伯夫妻とアカアを交えて、ユマは晩餐会に出席した。客席に腰を下ろしたのは、オロ王国三大貴族の一、ファルケオロ公爵家の令嬢ファルケである。
「わたくし、あの御方があまり好きではありませんの。だって、あまりに美人なんですもの……」
と、アカアが耳打ってきたときは思わず噴出しそうになった。
言われずとも、天女が如き美貌である。クゥやアカアも確かに美しいが、ファルケは冠絶している。美とは完成しないからこそ、言い換えれば何かがかけているからこそ人はそれに惹きつけられるのだが、その言葉が空しく響くほどに、完全な美貌が目の前にあった。ユマは、他の男にすれば贅沢この上ないことだが、もう一人、完璧に近い美貌を知っている。シェンビィ公の養女クララヤーナである。幼さに不釣合いな妖しさを伴う彼女とは違って、ファルケは一点の汚れなき白絹にも似た清々しさを感じさせる。それゆえに常人には近寄りがたいが。
ユマは、彼女と最初に出会ったのが非常時であったせいか、改めてファルケ・ファルケオロという女の美しさに忽然となった。それに、彼女の声である。乳児の頃に飲んだ母の乳が黄金色に輝いていたのではないかと思うほどに、潤いを持った澄みのある声である。たとえ盲人でも、ファルケという女と相対すれば、一声で心奪われるに違いない。
とはいえ、リンやクゥといった美女とうかつに関わったおかげで大変な目に遭った――自業自得であることは言うまでもないが――ユマとしては、いたずらに美貌に酔いしれる気分にはなれない。
「それで、何のお話かな?」
このような場合は、まずは家長であるローファン伯が最初に発言するべきだろうが、ユマはそれを無視した。驚いた伯爵夫人が大きな目を見開いたが、ユマは意に介さなかった。
ファルケ・ファルケオロとて、王国第一級の品位とあの美貌であるから、ユマが多少ひょうきんな行動をとったとしても、動じない。彼女は手にしていた杯を涼やかにテーブルに置くと、ローファン伯ではなく、ユマの方を見て言った。
「ご機嫌麗しゅう、ユマ様。この度は貴殿に伝えることがあって参りました」
「そりゃあ、そうだろうさ。三大貴族のお嬢様が、好きこのんで伯爵風情の家に一人で来るかよ」
ローファン伯はユマの不遜な態度が急に悪化を始めたのを見ると顔を紅潮させたが、何かを飲み込むようにどっしりと腕を組みなおした。
「ご推察の通り、泉の御子の御言葉を承っております」
「泉の御子?」
はて――と、ユマは首を傾げた。どこかで聞いた言葉だ。
「光王陛下のことですわ」
と、隣席のアカアがつぶやいてくれた。そういえば、とユマは闘技場でいやに偉そうに振舞う青っ白い少年のことを思い出した。
(先の試合について褒詞でも与えるつもりなのか。それとも、俺の無礼に怒って、市民権を剥奪するか、牢に放り込むか。ファルケよ。お前のその小さな口から、どんなえぐい言葉が聞けることやら……)
もはや斜に構えることが癖になりそうなほどに、ユマという男は散々に痛めつけられた。シェンビィ公の拷問のことは思い出したくもないが、それより後に起こったことの方が後味の悪さで勝っている。
ファルケ・ファルケオロはユマに想像遊びの時間を与えなかった。彼女は、ユマが予想だにしないことを言った。
「優秀な術士はそれに相応しい位に就き、蒙昧な民を導かねばならない。孤は、闘花クゥを破りし、東国の郷士ユマに男爵位を与える――これが、光王陛下のお言葉です。封地が決まればすぐにでもそちらに赴いていただきます。その際は王宮にて、陛下に忠誠を誓っていただけますよう……」
唖然――とは、今のユマのようなことを言うのだろう。何がどう転べば、そのような破格の待遇を得られるか想像もつかない。男爵位である。ローファン伯より二階級も下ながら、シャナアークスやフェペス家当主より高貴な身分である。封地の収入は領主の懐に入るから、食い扶持も得られる。ユマは、随分前の話に感じられるが、アカアと出会った当初の目標を、十段飛びに超えた褒賞に身震いがした。
「これは、大慶!」
と、手を打ったのは他でもない。ローファン伯である。ユマが貴族の仲間入りするという事実に対する利益を計算する必要が無いアカアでさえ、まだ目をぱちくりさせている。伯爵夫人だけは、貴婦人のたしなみだろうか、涼やかな表情を保ったまま、ユマに祝いの言葉をかけた。
これほどの幸運があるのだろうか。貴族にもなれば、フェペス家当主のようにいらぬ苦労を背負うことになるかもしれないが、いつ喰いっぱぐれるかわからない生活に比べることなど出来ない。ファルケ・ファルケオロは光王に忠誠を誓えなどと言っていたが、そのようなことが当然のように無視されるのが現状であるのは、王国を訪れて日の浅いユマでもわかる。いわば、棚から牡丹餅なのだが、ユマにはローファン伯の態度が妙に気になった。
彼はどうにも、ファルケ・ファルケオロが伝えたことを、事前に知っていたようである。彼女が来訪するまでの間に使者の往復くらいはあっただろうから、知っていること自体は別に不思議でもないが、問題は彼の態度である。
シャナアークスなどから仕入れた情報を元に、この度の一件を一望すると、ユマという人物は、結果的にはローファン伯に益したものの、それは最後の最後にクゥを破ったからのことで、それ以前は、明らかに不安材料だった。大体、客分に過ぎない男に口封じの呪いをかけた時点で、ローファン伯がユマに制御の必要性を認めたことを意味している。ローファン伯のような陰謀家が、特にシェンビィ公家臣暗殺事件の真実を知る男を、簡単に手放すだろうか。彼が自らすすんでユマを手放すとすれば、必ず裏があると見なければならない。
ここで、先ほどフェペス家当主が言っていたことを思い出した。
――ローファン伯は、これ以上貴方を手元に置かないでしょう。
何故――と問えば、それが利益にならないから――という答え以外に無い。ローファン伯が他人の出世を心から喜ぶようなお人よしでないことは十分に理解している。
(シェンビィ公の圧力を嫌がったか。光王の封じた貴族は三公でも手が出せないのなら、一応筋が通るが。どうにせよ、きな臭い……)
簡単に受けてしまうと、また痛い目に遭いそうだ――というのがユマの結論だった。
――二、三日考えさせてください。
そう返答するのも悪くはないのだが――と思っていたところで、ローファン伯と目が合った。
冷雨に背を打たれたような気分になった。威圧しているわけではない。ただ単に、彼はユマの言動を観察している。ローファン伯がユマに一定の行動を望むのならば、己の意識しない範囲で、必ず威圧的になるはずである。今の彼にはそれがない。もう既に決したことに対して、ユマがどう出るかだけをただの好奇心で見ている。あるいは、見定めている。これ以上、この男が何かに使えるのかという、醒めた視線、ユマにはそう思えた。
大の男がこのような視線を投げかけられて、不快でないはずが無い。だが、ユマの愚かさは、相手の肉を切りたいがために、自分の骨を断ってしまうようなところにあり、つまりは後先を考えずに発言した。同時に、彼の実に器用とも不器用ともつかない生き方の一例として、自らが断った骨そのものを大いに誇ってしまう。
「いらないよ。ファルケさん」
天井が盛り上がったのだろうか、急に周囲が広く感じられた。次の瞬間、その場の全員の顔が眼前にあった。そう思うほどに、彼らの驚きは大きかった。特に、光王の使者として来たファルケ・ファルケオロは息を忘れたように数瞬の間止まった。
「男爵位なんざ、いらないと言ったんだ。もちろん、領地もね。青っ白い陛下にそう伝えてくれ……」
ユマは、一切の反論を拒絶するように席を立ち、その場から退場した。
部屋に戻ると、リンがうがい用の水を汲んだボールを持って来た。
「何故、断られたのですか?」
と、あの場で誰も問えなかったことを言った。
「黙れ」
それからユマは無言でうがいを終えると、部屋からリンをしめ出して一人になった。アカアがたずねて来ても、通さなかった。