第五章「貴人チルーク・ティエル」(1)
■四章までの主な登場人物
・ユマ
本編の主人公。突然、異世界に迷い込むも、ローファン伯爵の娘アカアによって保護される。女闘士クゥの奴隷となったキダを救うために、竜機戦を受け、陰謀に巻き込まれるも、これに勝利する。
・キダ
ユマの悪友。ユマと同じく、オロ王国に飛ばされるが、不運に見舞われ奴隷の身分に落とされる。闘技試合の直前に姿を晦ます。
・クゥ・フェペス
闘花とあだ名される女闘士。ヤム家(ローファン伯爵家)に強い怨恨を持つ。闘技試合にてユマに敗れる。
・アカア・ヤム・ローファン
ローファン伯爵の娘。礼儀正しく、穏やかな性格だが、時々、貴族特有の酷薄な一面を見せる。
・リン
ユマにつけられたローファン伯爵家の使用人。ローファン伯の陰謀に利用され、ユマを呪うための媒体となる。
・シャナアークス・オルベル
ユマとキダに竜機の操作を教えた元王宮名誉闘士。
・ヌル
アカアの護衛。ユマを目の敵にしている。
・ローファン伯
ヤム家の当主でアカアの父。近年、勢力を拡張しているガオリ侯に接近している。
・シェンビィ公
三大貴族の一、シェンビィ公爵家の当主でフェペス家のかたを持ち、ガオリ侯と対立する。
・ガオリ侯
シェンビィ公と対立する新興貴族。ローファン伯と交誼がある。
・エイミー
白髪赤眼の美少年で新興貴族のガオリ侯に仕える。不思議な言動が多い。
・クララヤーナ・シェンビィ
クゥの従姉妹でシェンビィ公の養女。精霊台における術法研究の天才。
・ファルケ・ファルケオロ
シェンビィ、トグスと並び称されるファルケオロ家当主の孫娘。オロ王国でも屈指の実力者で、魔術全般に通じる。
・リュウ、ホウ
ローファン伯爵家の奴隷。ホウは死にかけたところをユマに救出される。
・光王
オロ王国を統べる少年王。
・謎の声
ある日、ユマの脳内で言葉を発するようになった謎の声。闘争を忌むような台詞が多い。
最初、クゥにとってのフェペス家は、自分という液体を受け止める器そのものだった。器が壊れれば、液体は流れ出し飛散する。
自分の中にフェペス家の家宝が眠っていると信じ始めた頃、クゥの中での二者の関係が逆になった。クゥという小さな器に、フェペス家という液体が目一杯注がれた。器としてのクゥは、日に日に重量を増す液体に比べて、あまりに小器だった。それを、彩の異なる別の器――ローファン伯爵家が、大いに揺らし、液体をかき乱し、溢れ出た。
クゥが泣きたくなったのは、溢れ出たフェペス家という液体が、真っ黒に淀み、腐臭を放っていたことだった。先祖が自分に残したのは、ローファン伯への憎悪以外になかったのか――と、叫び狂った。
兄であるフェペス家当主は、試合に負けた場合にクゥをローファン伯爵家の奴隷とすることをあっさりと許可した。フェペス家発祥の地であるティエレンは、多分に一族の娘一人の命と比べられるようなものではなかったが、それにしても、腐臭に満ちたフェペス家の怨念に当てられたような気がしたのは、錯覚でもなんでもない。
クゥもまた、ヤム(ローファン伯爵家の姓)滅ぶべし――という煙毒のような感情を、むき出しにこそしないまでも、共有していた。そして熱に魘されるような心のどこかで、静かにその様を見守っている自分もあることに気づいていた。
(私は幻に潰される……)
言葉にしないまでも、クゥはそう感じていた。フェペス家のローファン伯に対する悪感情は、十年前のティエリア・ザリ事件以前からあり、もはや家訓のようにさえなっていた。悪意や憎しみが生活に染み込むということは、やがてはそれが自立し、個人の中で増幅されることを意味する。クゥが家長の許可も得ずにローファン伯の客人に手袋を投げつけたのは、あるいはこの表れでもあった。
ユマは、不思議な男だった。
理屈ぶっているが、よくよく考えてみるに、言動が一致していない。学者を名乗るにしては、あまりに直情が過ぎ、その割には行動があやふやで、他者の理解を得られない。
卑小で、賢しらぶっていて、何かを気負っている。空の器から液体を汲もうとするような不毛さが、彼にはあった。それを見ていると、自分自身を見せ付けられているような気分になった。フェペス家は意地でも強大なローファン伯に逆らいぬくという、一種の矜持は、実はただの幻想であるという事実を見せ付けられているような気がして、胸が悪くなった。
クゥはユマを憎悪すると同時に、自分自身をも嫌悪した。ローファン伯はフェペス家に千年消えぬ深い傷をつけたが、個人に立ち返って考えれば、自分自身が、ローファン伯とフェペス家の間に生まれた軋轢の中で、まるで人形遊びにはまった子どもが短期間に人形をすり減らしてしまうように、ただうずもれて行くだけの存在であることが、苦痛となった。この瞬間、クゥの中でローファン伯爵家とフェペス家が、好悪を別にすれば、完全に等価となった。
クゥは崩れ行く竜機の中で、自分という器が音を立てて壊れるのを感じた。
器の中は、空だった。
月光の眩しさに、驚いた。
瞼が、重い。だが、いつまでも身をゆだねたいと思うような、甘い眠りではなかった。
気づけば、どこかの屋敷の一室に自分がいた。
「目が醒めたか、クゥ・フェペス」
声のした方を振り向くと、全身を疲労感が襲った。体が鉛のように重い。
寝台に寝かされたクゥの隣で、椅子に腰掛けていたのは、元王宮名誉闘士シャナアークス・オルベルだった。彼女は暗い部屋で灯りもつけずに、静かに座っていた。
クゥが何か喋ろうとするのを塞ぐようにして、シャナアークスは口を開いた。
「クゥ、君が受け入れるかどうかはどうでもいいが、理解はしたまえ。君がそうやって寝こけている間、フェペス卿はローファン伯に対して敗北を公式に宣言した。よって、君は既にローファン伯爵家の財産だ。見せしめに処刑されるか、他の奴隷のように扱われるかは、彼の気分次第だが、まあ情婦が良いところだろう。閨に呼びつけられる前に、娼婦の真似事くらいは覚えておくがいい」
シャナアークスの言葉は、悪感情丸出しのようだったが、クゥはそれを静かに聴いていた。
「そう……」
といった彼女の返事には、諦観というよりは溶け消えてしまいそうな儚さがあった。
「用件は伝えた」
シャナアークスは陰気を嫌がるように立った。愚痴を聞いてやるような仲でもない。
クゥは去り行くシャナアークスの方を見ずに、窓の外を見やった。やけに自己主張する月を見上げることなく、闇の中に点々とある雑草がなびくさまを眺めていた。
シャナアークスは扉の前でふと立ち止まり、言った。
「クゥ・フェペス。ひとつだけ助言をしてやろう。泥にまみれても、まだ希望を失いたくないと思うのなら、ユマを頼れ」
クゥはそれには応えなかった。シャナアークスもまた、言い捨てるとすぐさまその場を去った。
ローファン伯は、フェペス家は勿論のこと、彼らを後援するシェンビィ公爵家の者に対しても、自家の奴隷となったクゥへの面会を拒否した。シャナアークスがこれを許されたのは、彼女がいわば王宮に命じられてユマの闘士教育を一任されていたからで、その他に理由はない。
唯一の例外はフェペス家当主で、しかし彼でも屋敷を訪ねる分には問題ないが、ローファン伯は彼の直訴に付き合わないことを明言した。交渉でクゥを取り戻すことは、不可能となった。
クゥの従姉妹であるクララヤーナは、これをローファン伯の悪意としてとらえて激怒した。実際にそうだろう。
夜中、シェンビィ公爵家へと向かう馬車の中、クララヤーナは同乗している義父シェンビィ公の視線を嫌うように、窓の外に映る夜景を眺めていた。
「なるほどな……」
と、シェンビィ公が呟くと、少女は小さく鼻を鳴らし、仕方がないといった風に居住まいを正した。
「おわかりになりました?」
「……少なくとも、あの男の言う『持っていない』という言葉の意味はな」
「御機嫌がよろしくないようですが……」
「当たり前だ! ユマのせいで蛮侯めに一杯食わされたのだぞ。もとよりクララヤーナ、お前がユマの監視を怠らなければ、この様な事態にはならなかった」
シェンビィ公に一喝されたクララヤーナは、しかし物怖じすることなく答えた。
「まあ! その件については先ほど、不問に処すと仰ったじゃないですか」
義理の娘とはいえ、王国最高の貴門の当主に口答えをして許されるはずがないのだが、シェンビィ公はクララヤーナの屁理屈にこだわりを見せず、何やら考え込んでしまった。
(ユマが単独で脱出できるわけがない。蛮侯が何者かを屋敷に送り込んだのは事実だ。彼奴はあれの価値にいつ気づいた? あるいは最初から知っていたのか……)
シェンビィ公はちらりとクララヤーナを見やった。少女は先の無礼など気にも留めていないように小さく首を傾げた。菱形の耳飾が、心得たように凛と煌いた。
(フェペスはまるで何かに呪われているようだ。クゥが「盲のエメラルド」を持っていないのであれば、これ以上こだわるのは無益か……)
シェンビィ公の中でひとつの結論が出かけた頃、クララヤーナは小さくはにかみ、
「御父様!」
といって義父に抱きついた。驚いたシェンビィ公が顔を覗き込むと、クララヤーナは伏せ目がちに義父の胸に頬を擦りながら言った。シェンビィ公は思わず娘の頭を撫でてやりたくなったが、一家の長としての威厳がそれを止めた。
「ひとつ、お願いがございます……」
――何だ? 言ってみよ。
とは、シェンビィ公は言わない。クゥを取り戻すように懇願されても、断るつもりだったからだ。自家の勢力に属するフェペス家の娘――しかもシェンビィ家の三男と婚約している!――が、敵対するガオリ侯の勢力の奴隷になるなどと、シェンビィ公の自負心が許さなかったが、彼女を取り戻すための労力と、取り戻した場合の損益を計算してみると、情けなくなるほどに採算が合わない。フェペス家に同情する民衆は多いが、クゥが闘技場に返り咲いたとしても、以前ほどの人気を集めるには至るまい。闘技場は一度でも敗北したものにはきわめて冷淡であることを、シェンビィ公は知っている。
だが、クララヤーナは、彼女自身賢しいことを言ったつもりなのだろうが、それがシェンビィ公の意表を突いた。
「フェペスの宝は、フェペスの故地に返すべきだとは、思いませんか?」
と、少女が言った時、シェンビィ公は突然笑い出した。