第四章「怒発」(16)
「おお、東国の王の子孫か。だが何故、それが闘技場に?」
光王が近臣に問う。
「恐らく、嫡流ではないでしょう。あるいは政争に破れ、安住の地を求めて来たのかも知りません」
光王はなるほど――といった風に頷いたが、ここにもしキダがいれば、
――馬鹿か。ありゃただの下郎だよ。
と、ほくそえんだだろう。あるいは、ヌルを通じて最もユマを観察する機会に恵まれたローファン伯の心中もこれに近い。
勿論、この空想はなはだしいユマの出自について疑う者がいないわけではない。ただ、クゥに勝利した新たな闘技場のヒーローにはくが付く分には、ここが娯楽の場である以上、悪いことではなかった。存在するかどうかも疑わしい東国の貴人という肩書きは、オロでの栄達の種にするには、あまりにも胡散臭くて役に立たないだろう。飽くまでこれは、試合前のユマに銘打った「伝説の魔術師」の延長にあるといえば概ね正しい。
「東国の貴き人ユマよ。汝は精霊王に誠(ここでは誓約を守って試合に勝つこと)を示した。汝の主たるローファン伯の欲するところは、一に友人キダの自由、二に闘花クゥの一切の不自由であった。相違ないか?」
ユマはもう、話をする余力などないと見たのか、近臣はローファン伯に向かって言った。
「相違ない」
ローファン伯が太い声を張り上げると、近臣は首を回してフェペス家当主を見た。
「フェペス卿は相違ないか?」
シェンビィ公の顔には相違があふれ出んばかりだが、フェペス家当主は当事者であるだけにそれよりも激しい。彼はじっと竜機の上で失神したままのクゥを見定めていたが、何やら踏ん切りがつかないらしく、
「ファルケ・ファルケオロ殿についてはいかがなさるのですか?」
と、返した。側近はしらけたように口元を歪めた。
ファルケ・ファルケオロが乱入しなければ、試合に勝っていた――というのが、フェペス家当主の主張である。一理あるが、彼の弁解の苦しいところは、クゥの乗る竜機が暴走した時、光王の身を危険にさらす可能性があったということだ。ファルケ・ファルケオロは光王を守るために動いたのだから、それを否定するフェペス家当主の主張は、ややもすれば危険である。また、会場の雰囲気が、ファルケ・ファルケオロの介入を口実にした無効試合を口に出すことを許さない。シェンビィ公はこれを知っているから黙っているということに、彼の冷たく醒めた視線にさらされて初めて、フェペス家当主は気づいた。
会場ぐるみの、無言の恫喝である。恫喝しているのは、主にローファン伯の勢力と、敗北を受け入れないフェペス家当主を白い目で見る光王の側近達である。
光王自身もこれに属していたことに、フェペス家の不幸があった。
(我が祖先は何のために光王に尽くしたのか……)
百数十年前の内乱期に王国が真っ二つに割れたことがあった。フェペス家はその頃に興ったのだが、初代当主は今の光王の先祖の側につき、大いに武勲を立て、ついには正統な血統が王都に返り咲いた。だが、しばらくもすれば光王の方が部下の恩に報いることを忘れ、十年前はローファン伯に攻め込まれた当時のフェペス子爵を見殺しにした。
今のフェペス家ほど辛酸をなめ尽くした貴族は他にいないだろう。有名どころで探すとなれば、共和制となった隣国のペイルから放逐された王家の子孫であるファルケオロ公爵家だが、彼らはオロでも大いに権勢を築き上げ、三大貴族の一に数えられている点で、現在のフェペス家からみてまことに遥かである。
フェペス家当主がうなだれたということは、言葉にせずとも、無言の恫喝に屈したということになる。それを見た光王は満足そうに、微笑んだ。
「大慶、大慶……」
少年の王にはわかるはずもないが、必要以上にローファン伯を祝福するかのような彼の発言は、周囲の貴族達の耳に違う意味で届いた。恐らくは光王を除いた会場の誰もが、この試合が十年以上続くローファン伯爵家とフェペス家の因縁の対決である以上に、既存勢力のシェンビィ公と新興貴族のガオリ侯の政争であることを理解していた。だからこそ、光王がガオリ侯の勝利を祝うような発言は、王宮内部の力関係が微妙に変化を始めているという証として受け取られたのだ。
――シェンビィ公の時代は終わるのかな。嫡子がうつけであるとも聞くし……
などといった、ガオリ侯の台頭以前には口に出すのもはばかられるような軽口が飛ぶようになったということだ。
一方、これらのやりとりを傍観するしかない観客席の中で、クゥの敗北に意気消沈するクララヤーナの手をつかんだ者がいた。
「わっ、何?」
と、クララヤーナは驚いたが、見たことのある顔に気づき、舌打ちした。
「お嬢様」
手をつかんだのは、シェンビィ公爵家の家人だった。
「お父様のお小言なら、聞きたくないわ」
「違います。御館様がお呼びです」
「同じじゃない。お説教は嫌いなの」
むすっと顔をしかめたクララヤーナは、家人と目をあわそうともしない。
「今、闘技場に立つユマを見よ――とのことです。しかも至急に……」
クララヤーナが思わず男の顔を見たと言うことは、彼女にはシェンビィ公の妙な命令について、心当たりがあるということだ。
「わかったわ。でもこの格好じゃ上にあがれないでしょう? 馬車で待っているわ」
「いえ、ですから至急にと……」
食い下がろうとする家人を、クララヤーナは睨みつけて言った。
「下郎にはわからないことでしょうけど、これはもう、早いか遅いかの問題じゃないのよ。増してや下品な連中が聞き耳を立てる貴賓席なんかで、おいそれとは話せないわ。そう、父上に伝えなさい。さあ、行け!」
家人が去ったのを見届けた後、クララヤーナもまた、闘技場を後にするつもりだった。だが、彼女の視線はそのままユマに釘付けにされたように動かなかった。
「貴き人――」
と、光王はユマのことをそう呼びつけた。王が他者に呼びかけるにしては、最上級のものだろう。しかも、近臣を介してではなく、光王直々に声をかけたのだから、異例と言ってよい。
「汝の戦いぶり、まことに見事であった。これに免じて、汝が罪を許し、自由市民の権利を与えよう」
それを聞いたシェンビィ公は思わず腰を浮かせたが、これはガオリ侯とて同じだった。
(やり過ぎだ……)
ガオリ侯にとってのこの試合は、確かにシェンビィ公の鼻をあかすという目的もあり、それは十分に達成した。だが、光王がこれ以上ローファン伯――つまりはその背後に立つガオリ侯の肩を持つようになると、それは好悪の域を超え、ガオリ侯が光王を私有しているという図が出来上がる。シェンビィ公をあまり追い込むと、両者の対立に深く関わっていないファルケオロ公爵家や、今こそガオリ侯の後援をしているトグス公爵家との距離を縮めようとはかる可能性がある。三公が組んだとすれば、いかに光王が手中にあるとはいえ、ガオリ侯は一晩で王都から放逐されるだろう。
シェンビィ公を追い込むには、まだ自分の勢力はそれほど強くない――というのが、飽くまで自分の力量を過信しないガオリ侯らしい判断だった。
光王は近臣に羊皮紙を持ってこさせ、何やら書かせた。それが出来上がると、未だに闘場の隅に立ったままのファルケ・ファルケオロを呼びつけ、ユマに与えるように命じた。
(私が、小間使いのような……)
三公の中でも最も血筋尊きファルケオロ公の孫娘にこのような無体な命令を与えたのは、別に光王の悪意ではない。
少年は、他の人間にとっては信じられないことだが、先に出たユマが東国の尊貴な血筋であると言う話を、真に受けた。光王としては、それほどの貴人ならば、こちらも下賤な者を使いに出すわけには行くまい――と気を使ったのだ。
(あれは、何処か気負っておる)
と、少年にしてはませた見方をした。ユマは何処か他の人間より自分を上位に置いている。普通の人間でも大抵はそうだが、ユマの場合、彼の自己が超越していると言ってよい。そしてその誇り高さは、一体どこから来るのか。光王にとっての誇りの源は、血筋であった。
さて、ファルケ・ファルケオロを顎で使ったことに悪意はなかった証拠に、光王は、気鬱そうな表情で使命を果たそうとする彼女を制止し、先ほど脱ぎ捨てたガーブを着るように命じた。陽が高ければ、日傘を持たせた奴隷を傍につけることくらいはしただろう。とにかくファルケは、不可解な命令の正体が実は光王の悪意ではないことを知って、わずかながらも安堵した。
ユマはファルケ・ファルケオロの動きを知ると、息を切らしながら懸命にわき腹の治療を続ける医術士に向かって、
「もういい。下がれ」
と、がらがらに枯れた声で言った。老医術士はまだ治療が終わっていないと言いたそうだったが、とりあえずは止血は完了したことで死ぬことはないと見たのか、退いた。
正装した金髪の淑女は、皮肉を感じるほどに優雅な足取りでユマの前に立った。