第四章「怒発」(15)
「何と!」
ガオリ侯が思わず腰を浮かせた。シェンビィ公は相変わらず鎮座しているが、表情は驚愕に満たされている。
「きゃはは、何という怪異か……」
二人に挟まれるようにして、御簾に囲まれた内側の席から、童子のような笑い声が漏れ出た。
彼らの視線の先、濛々と土煙がたちこめる中で、くっきりと空気が澄んだように分かたれた空間があった。探さずとも、そこに男の姿を認められるほどに。
フェペス家当主がようやく剣を納めたことによって開放されたファルケ・ファルケオロは、間近でそれを見ていた。
(弩発が、避けた……)
クゥが外したのではない。砲口は確かにユマを向いていたし、直前になって軌道を変えたわけではない。ただ、発射の直後から二つに分かたれていたそれの間にユマが居た。
「何て事……」
発射時の衝撃でひしゃげた竜機の砲口を見たとき、ファルケ・ファルケオロは戦慄した。
先ほど自分がクゥに投げかけた光の糸が、砲口の先端に巻きついている。恐らくこれが発射時にクゥの放った弩発を真っ二つに割った。竜機の装甲を両断するような強靭な糸であるから、これは別に驚くほどのことではない。ただ、ユマはこれを知っていて避けなかったのか――と思うと、その発想は狂人に近く、とても悪知恵と呼べるような代物ではない。
(違う。この人は知らなかった)
弩発が放たれる時の目がくらむような光の中で、ユマが砲口を貫いた光の糸を視認していたかはまことに疑わしい。
いや、それ以上に、
――邪魔をするな。
と、ユマの意思は他者の介入を強烈に拒絶していた。ファルケ・ファルケオロがそれに凄みを感じたのは否めない。絶対的な何かに対峙したように、恐怖した――と言い換えてもいい。ただし、それは自分の知る術体系とは全く異なっていて、ただ感情を相手にぶつけるという本質から外れることはなかった。
だとすると、目の前の光景は、まさに偶然の産物である。ファルケ・ファルケオロは化け物を見るような目で、ユマを見た。
ユマは、ファルケ・ファルケオロや、彼の生存を知って歓声を上げながらローファン伯に抱きついたアカアが思っているほどには、特別な人間ではない。彼は非常識なほどに膨らんだ弩発に、ただその身をぶつけた。それだけだった。
竜機が音をたてて崩れ落ちた。辛うじて砲身と操縦席を残すのみで、いつの間にか蠢くことをやめた黒い液体にまみれるようにして、クゥは操縦席の中で意識を失っていた。
それを見届けたユマは、ふらりと脱力して、膝から倒れこみそうになったが、オルベルの宝剣をしっかりと地に突き立て、それに体重を預けることで、辛うじて己が身を大地に対して垂直に打ち付けた。ぜっ、ぜっ――といった、古びた戸板から風が吹き抜けるような呼吸音が、ユマの行動の壮絶さを観衆に知らしめた。
「先生!先生――!」
席に座るローファン伯の顔を抱きこむようにして、アカアは我を忘れて飛び跳ねた。ローファン伯のえらの張った顔が、少女の動きに応じて目まぐるしく伸縮した。
彼女らとは離れた場所から試合を観ていたシャナアークスは、念願だったクゥの敗北を見られたからか、にわか弟子の勝利が嬉しかったのか、唇をにんまりと横に伸ばし、音もなく笑った。ただし、これは彼女の性に合わなかったらしく、次第に肩が震えだし、最後には声を上げて笑った。
ファルケ・ファルケオロを開放したフェペス家当主は、一瞬だけクゥに近づく素振りを見せたが、やがてユマの方を見やると、口をきつく結んで席上に戻った。
彼が自席に戻った頃のガオリ侯といえば、先とは違って肘掛に肘をつき、両手を顎の下で組んだまま、何やら考え込んでいるのか、沈んだように静かだった。彼の政敵であるシェンビィ公は何やら部下を呼びつけ耳打っている。
と、そんな中、
「きゃっ、見事々々――」
と少女のような明るい声が貴賓席に響いた。周囲の貴族や大商人達は驚いたように御簾の張られた特殊な空間――つまりは光王席を見やった。
「静まれ。静まれ。御拝顔なるぞ――」
といって御簾の左右にいた近臣が、厳かに御簾を開ける。
その中から現れたのは、白く尖ったやけに質素な王冠を頭にのせた少年だった。
貴賓席の貴族達は一斉に光王に向かって頭を下げた。
腰まで垂れた長い黒髪に、細く上品な目が印象的な少年である。鼻はやや低いが、少年らしい愛らしさがある。背は低く、白に金縁の付いた王衣がややだぶついている。
「よい、よい。今宵の孤は良い気分じゃ。このような激しい試合は今までになかったぞ」
光王は、恐らく同い年くらいであろう従者の少年達――当然、彼らは童僕ではなく何処かしらの貴族の子弟――に視線を送った。
「まことに、良き試合でありました」
従者が声を合わせて答えると、貴賓席の者達が拍手を始めた。一般席の観客には、つい先ほどまで竜機に砲口を向けられていた者もいるから、多くが興奮を引きずったままであるが、司会者が気づいたように盛大に手を打つと、三々五々それに倣った。
(勝った!)
ローファン伯はアカアより大分遅れて勝利を実感した。光王の御墨付きならば、もはやシェンビィ公がどうあがこうとも試合の結果はひっくり返らず、つまりはユマが手元に帰ってくる。いくらシェンビィ公でも、光王の機嫌を損じてでもユマの抑留を主張するほど、愚かではあるまい。叩いても叩いても蠅の様に湧いて出るフェペス家との戦いは、一家の顔と言うべきクゥを失うことにより、終焉となるだろう。ユマの拘束、キダの失踪、ヌルの敗北と、予想外の事態に何度も見舞われたローファン伯だったが、最後の最後はユマに助けられた。
「早く、先生を!」
ユマのわき腹から血が噴出すのを見たアカアは、ローファン伯の従者の中から老いた医術士を呼びつけると、闘技場に蹴り落とすように送り出した。医術士はユマの元に駆け寄ると、
「見た目ほど傷は深くありません。まずは止血を……」
といってユマのわき腹に杖をかざした。それまで止め処なく噴出していた血が勢いを弱めた。
「ローファンの医術士は中々優秀ですな」
と、光王の側近が言うと、ローファン伯は小さく頭を下げた。
光王が傍立つ近臣に耳打ちすると、近臣は威厳ある声でもって言った。
「闘士ユマよ、面を上げい」
観衆の視線が、闘場の中心――剣を杖にして立つユマに集まった。
ユマは、息をきらしながらも、やっとのことで顔を上げた。顔色が真っ青で、今にも貧血で倒れそうだが、やはり目元だけは強大な暴走竜機と対峙していた時と変わらないままだ。
「只今の試合、見事であった。汝は試合の前に誓ったな。『自分は誰も望まないことをする』と。会場の誰もが汝の勝利を信じていなかった。だが、汝は強敵クゥを打ち倒し、闘場の覇者となった。泉の御子(光王の敬称)は、汝がさぞかし名のある武門の生まれであるとお思いである。汝が家名を答えよ」
ユマは沈黙している。いや、何かを言おうとしているのだが、出てくるのは喘息にも似た気ぜわしい息だけだった。
観衆が見守る中、突然、貴賓席にいたアカアがすっくと立ち、
「東国の果て、十の太陽に祝福されし邑。太陽の王の子孫!」
と声高々に叫んだ。
「おおっ!」
大げさが過ぎるほどに近臣が驚くと、席上の光王はきゃっきゃっと楽しそうに笑った。会場もそれに倣うようにして大いに沸いた。
――東の王、あの伝説の?
――どうりで、気骨があるわけだ。
――よく見なすって。あの殿方の衣服、砂さえ払えばきっと光り輝いて見えるはずよ。
すぐ傍にいたローファン伯は驚いたが、アカア自身は虚妄を吐いているつもりはない。
オロの伝説にある東の国は、オロにないものを全て溜め込んだ理想郷のように扱われていて、髪は黒く、背は高く、ゆったりとした謡い(喋り)方をする民族が住むとされている。アカアはユマの容姿と彼の持つオロとは違った思想体系だけでも、精霊台や王宮の文官たちさえも納得させるに足ると思っている。彼女自身、歴史学の教養があり、
――ローファンのお嬢様は埃くさいのがお好き。
と巷で語られるほどである。