第四章「怒発」(14)
ユマの表情をどう表現すればよいだろう。
半目で、どこを見ているのかもわからず、ただ身体はクゥの方を向いているのに、ファルケ・ファルケオロは自分が彼に話しかけられているのを直感で理解した。ユマの意識だけが、彼女に向けられていた。
ユマの口元がもぞもぞと動いた。ほんの呟き程度だったのか、ファルケ・ファルケオロには声すら聞こえない。
――珍しい謡いかたをされますね。
と、アカアに言わせるくらいだから、ユマの持つ言語体系はオロ王国の言葉と全くの別種である。だが、ファルケ・ファルケオロは彼が何を言っているのか、理解した。声も聞こえない。読唇も出来ない。だというのに、意識だけが語りかけてくる。
――邪魔をするな。
言語ではなく、恐らくユマが抱いていたであろう強烈な不快感が、ファルケ・ファルケオロの脳内に直に流れ込んだ。
「うぅ……」
耳元で大声で叫ばれたように、瞬間、頭が重くなった。次いで、背なや脇の下から滝の様に汗が噴出した。貴婦人は公共の場では汗などかかないという常識が、ここではあまりにも滑稽だった。
ファルケ・ファルケオロは、悪意としかとれないユマの意思に対して懸命に逆らったが、ついに膝を屈した。
(これは……術? いえ、違うわ。この荊に抱かれるような感覚、どこかで……)
ユマが何らかの術を使ったようには見えない。この試合で、ユマが術を使ったと断言できるのは、先にクゥの弩発を火尖で弾いたことだけで、他はファルケ・ファルケオロの理解を超えていた。そして今のユマはただ、呟いただけである。人の脳に干渉して幻惑を見せるような術は希少ながらも確かに存在するが、ユマはそれとは完全に性質が異なっている。このようなことを言えば、精霊台の教授に赤点をつけられそうだが、今、ユマが発しているのは術ではなく、ただの暴力である。ただ単に、相手に意思を伝えるという源精の働きが異常に活発になっている――という言い方も出来る。人と意思疎通するという行為を、これほど激烈に行った人など、ファルケ・ファルケオロの記憶には存在しない。
(頭が……痛い)
気が付けば、竜機を束縛していた光の糸が全て切れていた。竜機は黒く淀んだ装甲を剥がされたことなど意に介さないのか、片膝をついたまま、再びユマに砲口を向けた。
その瞬間、体にのしかかっていた圧力が解けた。ファルケ・ファルケオロは杖を手にして立ち上がった。
「ファルケ!」
シャナアークスの呼びかけと同時に、ファルケ・ファルケオロは喉もとに突きつけられている剣刃に気づいた。細い顎から汗の粒が滴り、鋭利な刃物の腹に落ちた。
「フェペス卿……」
クゥの兄のフェペス家当主が、いつの間にか闘場に下り、どういうわけか女の首元に剣を当てている。
「貴様、何を……」
と離れた場所にいるシャナアークスが言いかけたところで、剣がより強く押し当てられた。ファルケ・ファルケオロもシャナアークスも黙るしかなかった。
「ファルケオロ公の孫娘殿。何一つ苦労を知らない貴女に言っても無駄かもしれませんが、私はこの試合に家運を賭しているのです。貴女があれを殺し、再びティエレンから我が家を遠ざけるのなら、相応の報いを覚悟していただきたい」
目がすわっている。指一本動かしたとしても、この男は自分の喉を躊躇わずに掻き切るだろう。ファルケ・ファルケオロは妄執にとらわれたフェペス家の怨念に直に接したような気分になり、嘔吐感すらおぼえた。
――光王を御護りするために、わたくしはここにいるのです。貴方達の因縁など知りません!
と、喉元まで出かかった言葉を飲み込まざるを得なかった。それほどの迫力が、今のフェペス家当主にはあった。
会場の視線は、三人のやりとりに構っている暇もないのか、竜機とそれに砲口を向けられたユマに注がれている。
「さあ、見せろ。見せてみろ……」
左右の貴人らが席を立ち、ぽつりととり残された感のあるガオリ侯が、呟いた。彼と同調するように、シェンビィ公もまた、光王を置き去りにしての脱出を薦める部下を杖で打ち、静かに成り行きを見守っていた。
ユマが立っている。
負傷が激しいせいか、どこかふらふらとしていて、今にも倒れそうなのに、視線だけはしっかりと竜機を見定めている。
「クゥよ。クゥ・フェペス……」
最初と同じように、ユマはもはや跡形もないクゥに語りかけた。
クゥがその答えを拒絶することで、この試合は始まった。だからというわけではないが、このやり取りが終焉を意味していることを、どういうわけか観衆の方も嗅ぎ取った。
轟――という音と共に、そこいらにある精霊を吸い尽くさんばかりに、あたりの空気が竜機の砲口に収束する。
(もう、撃てない……)
ファルケ・ファルケオロが思ったように、竜機は激しく裂壊を始めていた。圧縮した空気が熱を帯び、それに耐えられなくなったのか装甲が次々と剥がれ、音を立てて地面に落ちてゆく。
「先生、避けてください。避けて!」
喉が裂けんばかりにアカアの絶叫が響く。
(避ける?)
ユマは正気を失っているわけではない。アカアの言うことも十分に理解している。
(避けてどうなる。じゃあ、先頃みたいに斬るか。そうじゃないだろう?)
それでは意味がない。ともユマは思う。
今のクゥは、何であるのか。術を使う人がただ怒っただけで、皆このようになるのだとすれば、オロ王国はとうの昔に崩壊している。名だたる術士らしいファルケ・ファルケオロが慌てて飛び出したように、これはオロの術士にとって見ても異常事態には違いない。
では、何故――とユマはこの現象に意味を見出したくなる。いや、最初からこの現象は一つの意味しか持っていなかった。
崩壊する竜機の中から、クゥの顔が見えた。狂ったように眉間に皺を寄せ、ユマを睨みつけている。
「撃てよ……」
放たれた。
オルベルの宝剣に覚えたての火尖があれば、いかに巨大といえども弩発は防げる。その結論は、この試合の早い段階からユマの中で出ていたし、実証もした。
だが、それではこの試合は終わらない。ローファン伯に一家の宝クゥを奪われることでフェペス家の妄執はさらに深まり、それは末代に至るまで継承されて、当事者とは血筋以外に全く縁のない子孫に泥の中でもがくような苦しみを味わわせることだろう。
では、自分が死ねばどうか。ユマが死ねば、キダは一生フェペス家の奴隷である。それに、ユマの気分では、自分を陰謀に利用したローファン伯と、拷問によって地獄の責め苦を味わわせたシェンビィ公のどちらにも利益を与えてやることなど何一つない。
そして、自分の頭の中に響く声と、ティエリア・ザリという怨念は、ユマに何かを望んでいる。
それは何なのか。
(俺は荊だ……)
背に激痛が走る。鉄の荊が、確かに自分の肉に食い込んでいるのを感じた。
ユマは、頭の中の声が何を自分に訴えていたのか、自分なりの答えを見つけた。
この期に及んで、ユマが選んだこと――
それは、ただ立っていること。
抗わず、剣をふるわず、ただ復讐者に真向かう。
「……馬鹿野郎。そこは、屍者の居るところだろうが!」
知らぬ間に口走った言葉は、大地が削られる音と共に掻き消えた。
光の中に包まれた自分を感じた頃、ユマはふと、眼前に立つ蒼い髪の少女を見た。
直後に世界が反転し、何もかもが視界から消えた。