第四章「怒発」(13)
「いけない!」
離れたところで同時に声を上げたのは、名門貴族ファルケオロ公の孫娘ファルケ・ファルケオロと、同じくシェンビィ公の娘のクララヤーナだった。
「クゥ! 駄目よ、駄目! 誰か、誰かクゥを助けて!」
もはや自分の正体がばれようがかまっている暇はない。クララヤーナは人のひしめく一般席で、場内の沈黙を破るかのように悲鳴を上げた。
それに呼応したわけではないだろうが、ファルケ・ファルケオロも席を立った。
「光王を場外へ――」
シェンビィ公やトグス公代理の意見を聞くまでもなく、ファルケ・ファルケオロは独断で光王を退場させようとした。
「何をなさるのです」
驚いたガオリ侯がファルケ・ファルケオロの袖をつかむ。
「卿こそ、何をおっしゃるのです。先ほど申したではありませんか。王を御護りすると」
「試合が危険なのはわかります。ですが、光王の権威というものもあります。闘技場の観客は試合が荒れて、闘士の放った術が客席に及んでも、一興くらいにしか思っていません。そのような中で、せっかくの王覧試合から退出されることがあれば、民草の笑いものです」
苦しい言い訳だった。光王がこの場から去ってしまうと、ガオリ侯単独でシェンビィ公に対することになる。いくらトグス公の支援を受けているとはいえ、三公の中で公爵が直々に臨席しているのは、シェンビィ公だけなのだ。この期に及んで彼に悪あがきをされてもらっては困るというのが、ガオリ侯の心情だった。
三公の中では比較的政争の外に身を置いているファルケオロ公爵家の人間であるから、ファルケ・ファルケオロには、ガオリ侯の立場になって考える必要がない。彼女にはこの若い切れ者――といってもファルケよりは遥かに年上だが――が駄々をこねているようにしか見えなかった。
「では、わたくしが試合を止めます」
そう言って、ファルケ・ファルケオロは、その身に羽織った白いガーブを脱ぎ捨てた。
それを横から見ていたフェペス家当主は、事態がそれほど逼迫しているようには見えなかった。確かにクゥの弩発を生身で防いだユマは超人じみているが、光王が退出するほど危険な試合には見えない。せいぜい、先ほどのように観客席に竜機の破片が飛んでくるくらいだろう。次に何かが飛ぶとすれば、それはユマの肉塊を意味しているが。
ローファン伯やアカアを含めた闘技場の他の観客も、気分ではフェペス家当主と似たようなものだった。
だが、弱小貴族のクゥ・フェペスを包み込んだ精霊は、まるでそれを嘲笑うかのように、怪異へと変貌した。
「ティエレン」
一時はオロ王国の首都だったこともある、名誉ある都だが、規模としては大きくはない。王都から百公里しか離れないというのに、どこか田舎然としていて、産業も少ない。ただ、過去の栄光の残り香とも言うべき古風な宮殿が、かつてのフェペス家の居城だった。
クゥは、この地で生まれ、育った。
彼女が物心ついたころ、フェペス家は没落した。それからの一家は悲惨だった。ローファン伯に領地を掠め取られ、明らかに非は向こうにあるというのに、子爵位を剥奪され、騎士の身分に落とされた。最悪の時期に当主を継いだ兄と共に、クゥは肉片に群がる蠅のような連中を片目に幼少期を過ごした。
フェペス家の念願はひとつ、故地の奪回しかない。
それが今、手を伸ばせばつかめる位置にある。
まるで瓢箪から駒だった。まさかローファン伯の方から争いの火種を起こしてくれるとは思わなかった。フェペス家は幸運なことに、闘技という弱小貴族が強大な伯爵に対抗する唯一の手段を手にした。
しかも、対戦相手はローファン伯に忠誠を誓う家臣ではなく、武勲名高い伯爵の息子でもなかった。学者を自称して伯爵の娘アカアに寄生するユマという名の流れ者と知った時は、何かの罠ではないかと疑った。
蓋を開けてみれば、あっけないものだった。ユマは確かにクゥの予想を遥かに上回る活躍をしたが、竜機を破壊された時点で、勝負はついたも同然だった。
――ティエレンに帰れる!
幼い頃、父親に連れられて鹿を狩った山野をまた、走り回れると思うと、胸から熱い何かがこみ上げて来た。
だが、目の前にいる男は屈さない。
生身になっても、敗北を認めない。そればかりか、怪しげな術を使い、自慢の弩発を両断した。しかも、この男は自分をこれでもかというほどに、愚弄する。
殺すなだとか、公平ではないとか、およそローファン伯に聞かせてやりたいことばかり並べる。十年前はフェペス家が何を叫ぼうが、ローファン伯は黙殺し、ティエレンの民を殺戮したではないか。
クゥは、次第に自分が何に怒っているのか、わからなくなった。言うなれば、今自分を取り巻いているこの世界が全て疎ましくなった。
その時、何かが自分の背に触れた。ヌルと闘った時と同じ、痺れにも似たあの感覚。
(死ね、ユマ。お前が死ねば、全てが終わる……)
心の中で、そう唱えた時、視界が真っ赤に燃え上がり、やがて黒ずんだ。
今宵、幾度も繰り返された奇跡、それらが全て無かったことにでもなったように、彼らの網膜に串刺された光景は、常軌を逸していた。
フェペス家当主は座席から転がり落ち、腰を抜かした。他の者も、動けるのならばそうしただろう。彼らはまるで、幼児が大虎に出会してしまったように、その場で棒立ちになった。
クゥの乗る竜機は、いつのまにか黒い粘液に覆われていた。観客の中で最初からこれが見えていたのはクララヤーナだけで、他の者達にすれば、それは突然だった。
黒い粘液は、やがて形を成した。竜機の口の部分が大きく盛り上がり、砲台のようになった。それは竜の顎にも似ていて、操縦席の部分も黒い塊に覆われ、壊れた傘のように所々破れた羽根を作った。クゥは完全にその怪異の中に塗りつぶされた。
これも術なのだろうか――と、暢気な者ならばそう考えただろうが、正常な思考を持つ人間ならば、パニックを起こして当然だった。会場が爆竹が爆ぜたように混乱したのも無理は無い。高位の術者とて、これほどの怪異に遭ったのは始めてである。光王を護っていた宮廷術士たちは狼狽しないながらも、王国一の術士であるファルケ・ファルケオロに指示を請うた。
「結界を張りなさい。わたくしはあの竜機を止めます」
ファルケ・ファルケオロがそう叫んだ次の瞬間、地が鳴動するような轟音があたりに響いた。
竜機の顎部に光の粒子が集まる。会場の空気が渦を巻いて竜機に吸い寄せられているようでもあった。
「いけない。光王陛下!」
ファルケ・ファルケオロは手に持った短刀ほどの長さの杖を振りかざした。頭が丁字に割れていて、片端が太く、逆の端は鋭い。どこか小ぶりのつるはしを想像させるそれを目の前にかざし、精霊王に祈った。
光王の前に、淡く光る膜が作られた。その直後、竜機から大火球と見まごうほどに圧縮された空気の塊が、ユマに向かって発射された。
砲台を向けられていた観衆はわっと声を上げて散った。
ユマは、今度こそは何か小細工をする余裕はなかった。だが幸運なことに、もはや魔術の域を超えた威力をもった弩発は、ユマの頭上に大きく逸れ、無人となった観客席の一角に着弾した。
まるで土石流のように、闘技場の一部が音を立てて崩れた。いや、吹き飛ばされたと言った方が正しい。それは闘士の聖地を破壊しただけでは飽き足らず、その外の路地にまで及び、トーラを埋葬した丘へ至り、林立する墓標をなぎ倒しても止まらず、空の彼方へと飛んでいった。
貴賓席にも瓦礫が飛来したが、ファルケ・ファルケオロの張った淡く光る膜に包み込まれるように勢いを落とし、空中で止まり、やがて落ちた。幾人かの間の抜けた貴族はそれを呆然と眺めていた。
獣の咆哮にも似た音が、弩発を発射した後の竜機からこぼれた。
(このままだと、次を撃つ!)
各々避難を始めていた貴族達を尻目に、ファルケ・ファルケオロは光王の護衛を部下に任せた。こうなればガオリ侯の都合など知ったことではない。
ガオリ侯はといえば、目の前の怪異に恐怖することも忘れて、
「すばらしい!」
と、感嘆の声を上げていた。見る人によっては正気を疑われるかもしれない。ただ、彼とは対極にシェンビィ公は落ち着いたもので、席に座ったまま泰然と闘場を見下ろしていた。
「ファルケだ。ファルケオロが出るぞぉ――!」
混乱で収拾が付かなくなりそうな場内で、突然、声を上げたのは闘技場にユマを送り届けたシャナアークスである。
「ファルケ……ファルケだ!」
混乱の大きさでは、自分達が一切の保護を受けられないと知っている一般席の人々の方が大きかったが、それでも彼らはファルケ・ファルケオロの名に敏感に反応した。王都で知らぬもののいない、オロ王国最高の術士の名は、彼らが正気を取り戻すに十分な重みを持っていた。
白いガーブを脱いだファルケ・ファルケオロは、肌に吸い付くような白色の法衣に、黄金色の長い髪を優雅に垂らしている。彼女は素早い仕草で貴賓達を間を縫って闘場へと降り立つと、今度は竜機に向かって眩く光る金の杖を振りかざした。
「闘花ともあろう人が、精霊に喰われるなんて……」
本来は術士の中から外界の精霊力(魔力と同義)を操るべきなのに、その力の方向が逆転した場合、今のクゥのような姿になる――と、記録マニアの巣窟ともいうべき精霊台の文献にある。ファルケ・ファルケオロがやけにこの事象に詳しいのは、彼女の先祖が百年ほど前にその対策を強いられたからだ。
「竜機を止めます!」
ファルケ・ファルケオロは観客席に背を向けたまま、フェペス家当主に言い放った。彼女は先祖と同じ手法で目の前の問題を解決することを選んだのだ。
「や……や!」
フェペス家当主が慌てて首を振っても、ファルケ・ファルケオロは彼の諾否など吟味するつもりもないらしく、彼女の杖から金色に光る糸のようなものが幾重にも放たれ、クゥの乗る竜機に巻きついた。
「ファルケ殿、お待ちください!」
フェペス家当主は激昂したように声を張り上げるが、周囲の人間はファルケ・ファルケオロの決断に票を投じたようで、彼に同調するような者は皆無だった。砲口は今こそユマを狙っているが、いつ貴賓席側に向けられてもおかしくない。
竜機にからみついた光の糸は、耳を貫くような音を立てて鉄の装甲に食い込み、竜機の身体を削り取ってゆく。
装甲の薄い脚部がそれに耐えられず、竜機は平衡を崩して片膝をついた。砲口が大きく逸れて空を向いた。
観客が逃げることを止めて闘場を眺めていたのは、クゥの乗る竜機が明らかに弱ってゆくのが見えたからだ。もう少し経てば、ファルケ・ファルケオロの魔術によって、竜機が細切れになるのは、誰の目にも明らかだった。クララヤーナただ一人が、狂ったようにクゥの名を呼んでいた。
――ふぅ……
竜機が空気を溜め込むせいで、やたらと耳鳴りがする中、それは聞こえた。
ファルケ・ファルケオロは術に専心しながらも、耳元でするような何者かの溜息に、振り向いてしまった。
居た。
竜機の暴走により、闘技場から完全に存在を忘れ去られた人物――ユマが。