第一章「原初の声」(5)
アカアに同乗しての旅は続く。
「ユマ先生は、面白い謡い方をされますね」
と、アカアが大真面目な顔をしたので、ユマは首を傾げた。
(歌を謡ったおぼえはないけど……)
思わず口に出そうとしたところで、心当たりがあることに気づいた。
アカアの放つ言葉だ。
ユマの放つそれと比べて抑揚が大きく、アカアのお喋りは鳥の囀りのようにも聞こえる。彼女が謡っているように感じたことのあるユマは、この国の人間が持つ言語観が歌と称される程度のものであると考えた。
あの奇妙な妖精――とユマは断定している――のおかげで言葉が通じなくとも意は通じるのだ。故に言葉は個性であり、歌曲のように華やかさを伴う文化なのだろう。
――ユマ先生は珍しい言語で話されますね。
と、言われたに等しい。
「そうか、俺の故郷でも(他と比べると)珍しい歌だそうだ」
ユマがわざとらしくそう言うと、アカアは決まったように手を叩く。もはやこのような問答は日課ですらある。
(可愛い娘だ……)
垢抜けない、筋金入りのお嬢様だ。清水を何度浄化すればこのような透明な液体が出来上がるのかと思うほどに、彼女の人格はまっすぐで、穢れがなかった。
(ちょっとお惚けさんらしい)
ユマの話に聞き入っているときは別として、時々、愚鈍とも思えるほどに鈍くなる。あえてそういう風に教育されたのかもしれないとも、ユマは思った。
そんな彼女に苛立ちを覚えなくもなかったが、ユマは彼女に聞いておかなければならないことがある。
――夜中、光の群れがやってきて、俺に何かを授けて行った。あれは何だ?
という、直接な表現を用いることをしないのは、この男の奇妙さといえる。
「この辺りには蛍でもいるのか?」
ユマは妖精についてさりげなく訊いた。
「蛍……ああ、源精のことですね」
「源精?」
アカアが聞きなれないことを言ったので、ユマは脳内でそれを上手く訳すことができなかった。
(性能の悪い翻訳機みたいだな……)
源精と呼ばれるものから授かった神秘は、ユマがアカアの言葉を理解することを可能にした。だが、オロと呼ばれるこの王国にはユマの持つ語彙を越えた概念や現象が存在しており、それらは生の音としてユマの脳に伝達される。「ゲンセイ」と、生の音で飛び込んできたそれは、ユマが本来の能力でもって翻訳したに過ぎない。ワープロが辞書にない言葉を打ち込まれて誤変換するのと似ていると、ユマは思った。
(あるいは言精か……)
ユマは目でアカアに説明を請うた。
「源精は雷精より発し、人の意思を司ります。常は風精と混ざっていますが、人気を好み、人を介して彼らは増殖と衰退を繰り返します。ちなみに、風精は火精より発します」
つまり、源精とやらが人の意思疎通を援けるのは自らが繁殖を行うためであって、厚意でやっているわけではないらしい。繁殖を行うということは源精は生物の一種ということになる。
アカアの話は続くが、それをユマなりに要約してみた。
風精とは風を起こす精であり、源精は普段それに紛れている。風に飛ばされて遠くに行く様は、あるいは蒲公英の種が風に乗る様を想像すると近いかもしれない。源精は意思を原料として動く。しかも、動物のような単調なものではなく、人間のように複雑怪奇なものを好む。
源精は群れで行動するが、一つの群体で繁殖を行えるのは一個体のみである。というより、アカアが言うには繁殖を行う際に、選ばれた個体は同群体内の他の個体を食い尽くすらしい。寿命は長く、取り付いた人間が意思活動を行う限り、彼らは生き続ける。一種の共生ともいえる。
(道理で団体さんでやってきたわけだ)
このような荒野では人も滅多に通るまい。妖精さんも子孫を作るのに必死だったらしい――と、ユマは小さなおかしみを感じた。自分の体内に何かが宿っているのは多少不愉快だが、害がなく、むしろ有益であれば我慢もしよう。
まだ、問うべきことがある。
「この国では、俺のような変わり者が、突然現れたりすることがあるかな?」
哀れにも自分のように神隠しに遭ってしまう人間がどれだけいるのか。それは現在のユマにとって最大の関心事だ。もっとも、アカアがユマの服装を見慣れない時点で半分諦めているが。
予想通り、アカアはかぶりを振った。
「そうか……」
ユマが持っていたほのかな希望は、一瞬にしてかき消えた。知らないというのは、ユマのいた世界に戻る方法もわからないということだ。
(器用に生きなきゃいけない……)
ふと、思い出したのは、捨ててきた車のことだった。ユマのような奇人を受け入れるくらいだから、信仰や文化の差異によって人を廃絶するような険しさはオロ王国にはないのだろう。
ユマはオロ王国について、数々の文化が花火のように炸裂する地に栄える国であると予想した。案の定、東西の大陸のほとんど中間に位置するらしく、東大陸の西端がオロ王国の領土であるらしかった。
また、貨幣経済もそれなりに発達しているらしく、車を珍品奇物として売りに出せば中々の値で売れるのではないかとも思った。他にもユマが持ってきた毛布はアカアが大絶賛したほどで、残念なことに彼女がものの値打ちには無頓着なせいで、どれくらいの価値があるかは分からないが、今のユマにとって捨ててきた車に数多くの財産があったと言える。それを捨ててきた事実を猛烈に後悔しないのは、現在のユマがアカアによって保護されている安心感による。
ちなみに、今現在ユマの持つ財産は以下である。衣服は除く。
腕時計、銀色で無地のジッポライター、煙草二箱、絆創膏と消毒薬、胃薬、毛布、発炎筒、キーケース、手帳、ボールペン一本、携帯電話、ペットボトル、工具数種、ショルダーバッグ、携帯ティッシュ三つ、ハンカチ、手提げ鞄、乾電池四つ。
発炎筒などは獣に襲われた時に焚こうと思い持ってきたものだが、キーケースや乾電池に至っては何の役にも立たない。ユマの面白いところは荒野のど真ん中に車を捨て置くとき、きちんと鍵を抜いて来たことだ。習慣が抜けきらないのか、それとも狼や野鼠が車上荒らしのような真似をするとでも考えたのか、当の本人にもよくわからない。
四日目に人里が見えた。ここまで来ると、人に踏みならされた平坦な地面が顔を見せ始め、この地方の人は焼畑をするのか、時々禿げた山も見えた。
藁葺きの屋根が居並ぶ寂れた村で、険しい顔つきをした子供が牛を鞭打って畑を耕していた。
ユマはオロ王国の文明について期待が外れたと落胆したが、アカアの一言でどうにか持ち直した。
「ここは田舎です。王都まではあと十日ほどです……」
この日は村長らしき人の屋敷で泊まった。晩餐は粥の様なものを出されたが、アカアを接待するためか、牛の肉も出てきた。
(まさか畑を耕していた牛じゃないだろうな……)
家産を傾けるほどの接待には見えないが、村長が地に額をつけてアカアを歓待する様を見て、ユマは不思議な気分になった。
「先生、お酒はいかがですか?」
村長の懐具合が心配になってきたので、ユマは一度断った。すると、村長の目に怨の色が見えた。
(ははぁ、もっと金を落としてゆけということか。それとも、貴族が浮かぬ顔で帰ったとなれば、後に響くのか……)
アカアが村長に支払う対価は、牛一頭より遥かに勝るのだろう。村長がローファン伯の娘をもてなす労苦は、対価を得て自らを潤す楽しみでもあるようだ。
「いや、いただこう」
ユマがそう言うと、村長の表情が晴れた。
村長の娘らしき少女が酒を注いだ。甘ったるくて、不味い。とても酒とはいえない代物だった。それ以上に、村長の娘がひどい不細工だったことが、酒を楽しもうとする者にはこたえた。鼻が臍を曲げたように上を向いていて、両の目がやや離れている。他の部分は目だって崩れてはいないが、その二つの要素が強烈に彼女を形作っていた。
風呂もあった。ユマの期待は外れて蒸風呂だったが、旅の垢を落としながら自分が生まれ変わったような気持ちになった。三日目あたりから頭が、昨日からは体の所々が痒くなっていたから、ユマはそれも含めて入念に体を洗った。勿論、石鹸など無く、軽石でこするのだ。
突然、娘が入ってきた。さもありなん――と思ったユマだったが、黙って彼女の思うがままにさせた。石で垢を擦るのが上手で、思わず寝息を立てそうになった。
(不細工だが、中々悪くない)
勿論、閨を共にするのだけはお断りしたいが。
「お着替えをここにおいておきます」
村長の娘が言ったところで、ユマははっと我に返った。
「俺の服は、捨てたり、洗ったりしないでくれ」
少女たちが、川辺で石を打ちつけて洗濯を行っていた光景を思い出して、ユマはひやりとした。あんな手荒い真似をされてはスーツがずたずたになってしまう。
娘がいぶかったので、ユマは答えに窮し、適当なことを言った。
「正しいやり方で洗わないと、呪いが解けてしまうんだ」
「まあ!」
驚いた娘はまるで天衣を授かったかのように仰々しい仕草で、スーツをたたみ、奥へと消えていった。ユマは代わりに黒服たちと同じ服を着せられた。
一室をあてがわれて寝ようとすると、村長の娘がついて入ってきたが、
「眠い」
といって退けた。娘は静かに泣きながら村長の元へと帰った。
(それに病気をうつされそうだ)
何の根拠もなく失礼きわまりないことを考えたユマだったが、見知らぬ土地に放り出される前の暮らしが病的に清潔であったことを考えれば、彼が田舎娘に偏見を持ったとしても責められないだろう。
村長のため息が耳元で聞こえてきそうだったが、十分に稼がせてやったと思ったユマは、疲れが溜まっていたのか、泥のように眠った。