第四章「怒発」(12)
没落する前のフェペス家は子爵に過ぎなかったが、ひとつだけ三公にも比肩し得る財産を持っていた。「盲のエメラルド」のことだ。ファルケオロ家の「白絹の竜」と並び称されるほどの、いわば一級品だった。
クゥの先祖らがいつ、それを手にしたのかはわからない。ほんの百数十年前の動乱期に、にわかに戦功を立てて興こった時には既に、それはフェペス家の手中にあった。
精霊結晶とも呼ばれるそれは、今のオロ人の手にも余るものだが、それ自体が既に奇跡を内包していた。一族の誰かに宿り、その者が一家に幸運と奇跡をもたらす。だが、十年ほど前のローファン伯との抗争の果てに喪失した。当時のフェペス子爵はほとんど術の素養がなく、妹のティエリア・ザリが継承者と目されていたが、二人とも横死した。フェペス子爵は死ぬ前に何者かに家宝を託したという噂もあってか、それを狙う輩が没落後のフェペス家に接近することさえあった。
フェペス家の輩出した最後の天才はクララヤーナである。彼女ですらが、精霊結晶をその身に宿していなかった。シェンビィ公はクララヤーナを養女にしたが、クゥには彼がフェペスの家宝を盗もうと企んでいるようにも見えた。
クゥには、クララヤーナや当主である兄にも言っていない秘密がある。
幼い頃に大病を患ったことがあった。
没落前のフェペス家にて、フェペス子爵は寝台にぐったりと寝ていたクゥを抱き起こし、屋敷の一室へと連れて行った。今から思い返してみれば、ローファン伯との対立が激化する直前であったから、この記憶は、時宜としてもこれから述べるクゥの想像を逞しくした。
薄暗い地下の一室、先祖代々封印されていたと言われる石の壁で区切られた部屋――もっとも、幼いクララヤーナを連れ立って、秘密危地にして遊んでいた場所だが――に連れられたクゥは、そこで父に洗礼を受けた。
光精の泉から汲んだ水を頭にかけられ、床には塩で描かれた魔法陣があり、その中央に立たされた。やがて、言われるままに目を閉じていると、父の手のひらが胸元に当てられ、
「父上ぇ、くすぐったいよ!」
と、騒いでいる間に、異常に熱い何かが体の芯を通過していった。
それから嘘のように快癒したが、この儀式はクゥに思わぬ副産物をもたらした。彼女は幼くして術の才能が開花したのだ。
あの時、自分に「盲のエメラルド」が宿ったのではないか――と、クゥはいつからか信じるようになった。
その後、クゥは術士の卵として精霊台に通ったが、クララヤーナやファルケ・ファルケオロのような天才達と肩を並べるには至らなかった。自らを「盲のエメラルド」の後継者であると密かに思っているだけに、クゥは技量ではなく、独創でもって対抗しようと考えた。
独自の術理論を展開し、空術という新たな分野を切り開くことで、クゥはそれなりに自尊心を満たすことができた。だが、独創をした人にとってはつきものともいえる、既存の学派による攻撃にさらされた。強烈なオリジナリティを持つ人は、独自の理論武装を行うことが多いが、得てしてそれは既存の理論とはかみ合わず、物量に押しつぶされるように掻き消えることがままある。クゥはこの点、常識家だったが、精霊台に異端視されるくらいなら、新たな空術理論を外に持ち出すことを選んだ。
彼女が唯一実践に成功した空術である弩発は、クゥにとっては自分の半生そのものともいえた。そして、その原動力となっているのがフェペス家の家宝であるということを、彼女は疑わなかった。
クララヤーナに術士としての限界を告げられた時、クゥは家宝が自分の中から消え失せようとしているのではないかと、危惧した。それは彼女にとって自己崩壊に至ってもおかしくないほどの苦しみでもあった。だが、いずれシェンビィ家に嫁ぐ身である以上、「盲のエメラルド」はフェペス家を離れるように運命付けられているような気がして、クゥは悲しみのやり場を失った。
クゥの見ている光景は、ユマやクララヤーナが見ているそれとは別世界であるほどに違う。だが、今自分の周りに満ち溢れている魔力が、先のヌルとの対戦で背後に感じた頼もしい何かと同一であることを、クゥは感覚で理解した。
(フェペスの魂が私を護っている……)
彼女が信ずる「盲のエメラルド」はまだ、死んでいない。そして、クゥの中で熱くたぎる魔力は、眼前の一人に向けられていた。
「ヤムにくれてやるくらいなら……」
そう呟いたクゥは竜機の腰を深く沈めた。自分達が射線に入ったと知った観客は、我先にと逃げた。闘技場が慌しく揺れた。
ユマは、ぼろきれのように飛ばされながらも、生きていた。辛うじて立ち上がったが、壊れた観客席の壁に体重を預けなければ、それもままならない。わき腹から、見る人の背に粟が立つくらいに血が流れ出ていた。
(そろそろ、本気で死ぬかもな……)
肉ごとえぐられたわき腹など見たくも無いが、それ以上に脳内にストーブでも持ち込んだように、体が熱い。ファルケオロ家付きの医術士の治療があったとはいえ、今朝方まで気が狂わんばかりの責め苦に苛まれていたのだから、むしろまだ立ち上がれることが不思議なくらいだった。
ユマは右手でわき腹の傷口を健気にも塞いだが、指と指の間から無慈悲に血が流れ出た。
クゥを見た。
目が醒める様な蒼い髪が、風精に彩られて宝石のように輝きだした。それはすぐさま竜機の頭部に伝わり、やがて狂暴な魔力の塊となった。
ユマは、まるでそれに魅せられたかのように、眼前に剣を持った左手をかざし、瞳に映った青い宝石をつまんだ。
「先生、逃げて!」
アカアが観客席から身を乗り出し、叫んだ頃には、既にそれは放たれていた。
弩発――魔力で圧縮した空気の塊を打ち出すという、歴代のオロ王国の術士たちが見れば、ため息をつくに違いない野蛮な魔術。
それが眼前に迫った時、ユマは手にしていた宝剣オルベルで無造作に薙いだ。
世界が、割れた。
クゥの放った弩発は、ユマの直前で威力を失い、霧散した。残滓が器からこぼれるように、ユマの背後で土煙が上がった。
ユマは、確かにそこに立っていた。
彼を応援する立場にあるはずのアカアやシャナアークスが、それに逆の立場にあるクララヤーナが、絶句して立ち尽くすほどに、竜機を媒体として放たれる弩発という強力な魔術を受けてユマが生きていることは信じられぬことだった。
まるで、闘技場という生き物が息を呑んだように、あたりが静かになった。観衆も、風も無い中で頭を並べるだけの稲穂のようになった。
ただ、いち早く危険を察知していたファルケ・ファルケオロだけが、手勢の術士たちを光王のもとに集結させ、異変に備えていた。彼女は光王の退場を主張したが、容れられなかった。光王の立場だけを考えれば、表向きはローファン伯爵家とフェペス家の因縁の対決でも、実情はシェンビィ公とガオリ侯の党争に過ぎないこの試合に深入りするのは危険だった。だが、シェンビィ公と対等に渡り合うためには光王の存在が不可欠であるガオリ侯が、ファルケ・ファルケオロの主張を拒んだ。
ユマは、片足を引きずるようにして、闘場の中心に立つ竜機に向かって歩き始めた。
吹き飛ばされたときに強く打ったのか、右の内膝が、無理に曲げて亀裂の入ったプラモデルの足を想像してしまうほどに、激しく痛んだ。とはいえ、先に重症を負ったわき腹ほどではない。
自分でもよくわからぬ間に、目の前の空気と魔力の塊を両断していた。特に考えがあってのことではなく、感覚として出来る気がした。何かが自分に力を貸してくれている。この戦いは自分の勝利に終わる宿命にある。そういった確信にも似たものが、ユマの中にはあった。
――豎子よ。
と、時々自分の中で語りかけてくる声。その正体を、今自分は垣間見ているのではないか。
アカアは王都に光精の泉がいくつかあると言っていた。オロ人は複数の伝承からひとつを選ぶことはなく、それらを全て光精の泉とし、一年ごとに称号だけを移動させた。彼らが大雑把だったというよりも、古代のオロ王国に多数の民族が割拠していた名残のようなものかも知れない。
闘技場で淀んだ水をたたえる泉――池と呼んだ方が正しいかもしれないが――が、少なくとも今のユマにとっては本物だった。
最初に頭の中に誰かの声が聞こえたのもこの場所だったことから、ユマの予想したことは確信に近い。
仮にそうだとして、光精の泉とは何なのか。その答えを出すには、今のユマは王都に住み始めて日が浅すぎる。ただ、あの怒涛のように頭に流れ込んできた記憶の中にあった、水辺で髪を洗う老婆の姿が、ユマの脳裏から離れない。
――水に宿る精はありません。
といったアカアの言葉は、どうやらこの国での常識らしい。だが、この光精の泉に関してだけは、違うような気がした。泉の水が意思を持ち、自分に話しかけているのであれば、どうだろう。ユマは、シャナアークスやクゥの使う魔術をその身で受けてみて、精霊と呼ばれるものが意思を持たない生物であることは十分に理解していた。だが、精霊の死骸とよばれる魔灰は竜機に用いられ、操縦者の意思のままに形を変えることを思い合わせると、精霊そのものは意思を持たないが、源精のように人の意思を伝達する特性を持っていることがわかる。
光精の泉も、例外ではないだろう。そして、まるで生きているかのようにユマに語りかけるそれは、泉の水に宿った何者かの意思であると言い切ってもよさそうだ。あるいはそれらが蓄積し、人格を形成するようになれば、それこそアカアの言うところの「妖怪」だろう。
オロ人が水精――今勝手にユマが名づけた――のこの特性に気づかないのは、水精が人の意思を溜め込むだけで、火精や風精のように目に見える働きをしないことが原因だろう。
ユマは竜機の上から自分を睨みつけるクゥを見た。
(俺は……何をしている。こんなことをするために、ここに来たのか?)
血が出んばかりに歯噛みするほど、クゥに憎まれる憶えはない。彼女がユマを憎悪する理由は、一にも二にもユマがローファン伯の勢力に属しているからだ。
フェペス家とローファン伯爵家に相当な因縁があることは知っている。だが、その呪縛にとらわれただけで、人はこれほど憐れに変わり果てるものか。
(クゥ。俺は、ローファン伯の娘に命を救われた。だから、アカアを……いや、これは欺瞞だな)
ユマは自分が可笑しくなった。クゥと対峙した時、精霊王に何を誓ったか。自分はこの場の誰もが望まぬことをすると誓った。それは何を意味しているのか。あの時の自分は何も考えずにそんな道化じみた台詞を吐いたのか。
(違うだろう)
ユマは、自分の背後に忍び寄る重苦しい空気に感覚を向けた。
「荊か……」
思えば、最初に源精と出会った時も、同じようなことを言っていた。
水辺で髪を洗う老婆。鉄の荊に抱かれたティエリア・ザリ。そして、頭の中で響く誰かの声。
(何を……すべきか……)
クゥを包み込んでいた淀んだ水が、禍々しい音と共に異形へと変わった。