第四章「怒発」(10)
しばらくの間、土煙が辺りに立ち込めていた。
「ああ、先生。先生!」
アカアは客席から身を乗り出さんばかりに叫んだ。
「ふん、馬鹿なことするからよ。クゥの弩発を正面から受けるなんて正気じゃないわ」
ごった返す一般席は視界が悪く、クララヤーナは懸命に背伸びをしながら、それこそ粉々に砕け散ったユマの死体を見てやろうと闘場を眺めた。
だが、彼女は安心もしていたのだ。恐らくこの試合がクゥにとって最後の闘技試合になる。術士のままで引退することが出来れば、闘士にとってそれほど名誉なこともない。これまでの功績から見ても、クゥは必ず王宮名誉闘士に選出されるだろう。クララヤーナはフェペス家に対して何の同情もしていないが、没落同然の一家のために何かをやり遂げたという誇りがクゥの心の中に生き続けるのならば、それほど嬉しい事はない。クゥも喜んで自家を去り、ルルア・シェンビィに嫁いでゆくだろう。
誰もがユマの死を信じて疑わなかった。ローファン伯は複雑な気持ちだった。領地であるティエレンを失うことは、彼の誇りが許さないものの、シェンビィ公の家臣暗殺事件がユマの死によって迷宮入りするのならば、それはそれで良い。今回の件で一方的に損をしたのは彼の方だったが、ユマの言う自動車とやらが手に入るのならば、多少強引だが目をつぶらないこともない。
だが、それぞれの思惑――特にフェペス家とローファン伯爵家、さらにはシェンビィ公とガオリ侯の心中に浮かんでいた様々な想念が結論へと向かっていた矢先、土煙の中から立ち上がる人の影があった。
「全く、悪運だけは強いな」
よく通るシャナアークスの声が、小さくざわめいていた場内によく響いた。
彼女が声をかけた先、土煙が晴れたそこには、竜機を失って裸同然になったユマが静かに立っていた。
「うおぉぉ!」
歓声を上げたのは、ユマに賭けたせいで大損をしたと、先ほどまで嘆いていた観客だった。彼らの声に続いたのはほんの数人だけで、他の観客達は戸惑いにも似た言葉で場内を埋めた。
ユマの生存に誰よりも早く気づいていたクゥは、ユマが何故無傷で生きているのかも十分に知っていた。
視界の悪さからクララヤーナが見逃した一瞬――それはクゥの放った弩発がユマの竜機に直撃した瞬間でもあったのだが、そのコンマ数秒の間に、ユマは防御を行った。
ただ、防いだわけではない。
彼の持つ槍が瞬時に赤く燃え上がり、凄まじい熱量をもったそれが前面に突き出された。クゥの放った弩発はその影響を受けたのか、操縦席を狙ったはずの軌道がわずかにずれた。弩発は竜機の右足に当たり、しかし威力は殺されなかったそれは、ユマの竜機を破壊したが、操縦席だけは無事で残った。彼は衝撃で竜機の外に放り出されたが、無傷だった。もっとも、シェンビィ公からうけた拷問のせいで、試合開始時点で満身創痍だったのだが。
(火尖……)
シャナアークスをユマの師にと推薦したのは他ならぬクゥだった。彼女の使う火術が強力なことはクゥも理解していたが、ものの数日でユマがそれを習得するとは夢にも思わなかった。
クゥは心中でユマを大いに賞賛した。彼女がこれほどの余裕を持っていたのは、竜機を失ったユマが勝利する確率は、もはやゼロに等しいことを理解していたからだ。
ユマは土煙に咳き込んでいたが、シャナアークスの野次にも似た声が聞こえたのだろう。彼女の方を振り向くと、小さく手を振った。
アカアはユマの生存に狂喜したが、ローファン伯は沈鬱な表情を崩さなかった。対してフェペス家当主はもはや勝ったといわんばかりに腰を落ち着けた。竜機を失った以上、試合を続ける理由はもはやない。
「ユマよ。竜機を失った貴方が勝つ見込みは、既に無きに等しい。跪き、その首を光王陛下の前に差し出すがいい。お許しを請えばあるいは助かることもあるだろう」
クゥが相手に向けて降伏を勧告したのは当然だった。誰が戦車相手に身ひとつで闘うものか。
だが、勝ち誇るクゥに対して、ユマは無言で降伏を拒絶した。腰にさしてあった宝剣オルベルを抜いたのだ。
――まだ闘うつもりらしい。正気か?
会場の誰もが、ユマの行動を理解できなかった。竜機相手に単身で挑むなど、そこに待っているのはただの殺戮ではないか。
「どうした。闘花よ。まだ試合は終わっていないぞ」
シャナアークスは、周囲の者が訝るほどに余裕のある声で試合の続行を促した。
クゥは確かめるようにユマの目を見た。このまま続ければ死ぬということが、彼にはわかっていないのか。それとも、試合に生き残ってもシェンビィ公の追及が待っているだけだから、せめてここで華々しく散ることが彼の望みなのだろうか。それにしても、このユマという男は、せっかくの他人の厚意を無に帰すのが好きな男だ――と、クゥは内心呆れたくなった。
「クゥよ。クゥ・フェペス」
あいも変わらずがらがらに枯れた声で、ユマは試合開始前と同じようにクゥに呼びかけた。
「さっき聞きそびれた事なんだが、改めて君に問いたい」
ユマは、とてもこれから竜機でくびり殺される人間とは思えないほど陽気な声で問いかけた。だがそれとは裏腹に、彼の眼光は人を射殺すような冷たい視線を漂わせていた。クゥは微動だにせずにそれを浴びながら、ユマの次の言葉を待った。
「圧倒的な力でもって、弱者を一撃で葬り去るというのは、一体どういう気分なんだ?」
クゥは首を傾げた。
これは挑発なのだろうか。竜機を降りて、自分と剣の勝負をしろと、そんな都合のよいことを彼は言っているのだろうか。
「その問いに答える必要はない。異国の闘士ユマよ。すぐに剣を捨てよ。さもなければ今、貴方が言った様に、わたしは貴方を一撃の下に殺戮するだろう」
クゥは竜機の槍をユマに向けた。槍だけでもユマの身長を越えているから、これで生身の人間を貫くということは、それこそ人形のように五体が千切れ飛ぶことを意味する。
まさか最後の試合で餓鬼のわがままにも似た理屈を突きつけられるとは思わなかったクゥは、しかしこれで自分がフェペス家に対して出来ることも終わるのだと思うと、胸が熱くなった。
眼前に槍を突きつけられたユマは――彼を良く知るものなら驚くに違いないが――全く怯まずに話を続けた。
「答えろよ」
ユマはそれだけ言うと、持っていた剣で突きつけられた巨大な槍を払った。
クゥは小さく目を閉じた。
現実が捻じ曲がった――と、観客の誰もが思った。
クゥは、それこそ慈悲であるかのように、ユマに対して全力で槍撃を放った。だが、槍先がユマの胸元をとらえたところで突然しなり、向きを変えてへし折れたのだ。
誰もが息を呑んだ。彼らの疑問に答えうる者などいようはずもなかった。
だが、異変に気づいていた者はいた。
光王の席の右側に座っていたガオリ侯は、彼自身は術士でないながらも、眼前でただならぬ事態が起こったことを知り、左横に座るファルケ・ファルケオロに話しかけた。
「ファルケ殿……」
「ええ、わかっております。万が一の時にはわたくしが光王をお守りいたしますわ」
余裕のある発言のように聞こえるが、いざとなれば光王に危難が及びかねないという凄まじい言葉に、ガオリ侯は目をむいた。
「ありえますか?」
「わかりません。ユマという異邦人は、大した術士ではないように見えます。それだけに、闘場に夥しい精霊が集まっていることが異常です。できれば試合を中止すべきなのですが……」
「それは、無理でしょう」
ガオリ侯は目で笑った。ファルケ・ファルケオロは無表情のまま闘場に視線を戻したが、やがて思い出したように近臣を呼びつけて術士隊の一部を光王の付近に待機させた。
(オロ王国最高の術士にそこまで言わしめるか。これはエイミーを信じて正解だったな)
ガオリ侯は心中で一人ごちた。
貴賓席で二人が会話を行っている間に、もう一人、場内の異変に気づいた者がいた。シェンビィ公爵家の誇る天才、クララヤーナである。
「何よ、これ……」
彼女の目の前に広がる光景は、他の全ての人が見ているそれとは、まるで別世界だった。
クゥの竜機が一歩踏み込むと、水の弾けるようにして、不愉快な光の粒が地面から湧き出た。周囲を見渡せば、なにやら澱んだ液体が、闘場全体に薄く膜を張るようにして広がっている。大雨が降った直後のように、それは所々で水溜りのようなものをつくっていて、それらがどこから来るのだろう――と、首を回してみると、先日何者かによって破壊されたという光精の泉の水が夥しい勢いであふれ出しているのが見えた。
それがただの水でないのは、周囲がこの怪現象に目もくれないことから、すぐにわかった。
淡く光を放ってはいても、ボウフラでも浮いてそうなほどにねっとりと腐った液体だ。それがまるで意思でも持ったかのように、クゥの乗る竜機の足にまとわりついているのを見たとき、クララヤーナは身も凍るような悪寒を覚えた。
そして、ユマの周りにはクゥよりも遥かにどす黒い液体が塊となって、彼を飲み込もうとしていた。やがてそれらは悪意としか受け取れないほどに強烈に形を成した。それは、まるで巨大な人間の手の中にユマが飲み込まれるようにも見えた。
悪魔に出遭った人のように、クララヤーナは不快感に耐え切れず、嘔吐した。