第四章「怒発」(8)
「あれは、ユマだ……」
観客の一人が呟いた。
「ほぅ。あれがそうか。珍妙な格好をしているな」
それまで一言も発せずにいたガオリ侯が、何かに感心したように言った。
王都に住んでいれば、クゥの対戦相手であるユマが、暗殺の実行犯としてシェンビィ公に捕らえられた話を知らぬ者はいない。そして表向きはフェペス家とローファン伯爵家の因縁からなる決闘が、実はシェンビィ公と新興勢力であるガオリ侯の党争であることも、王都ではまことしやかに噂されていた。
観客達は先日、クゥの試合に闖入した男がユマであったことに驚き、シェンビィ公によって捕らえられたはずの彼がこの場に姿を現している理由を、自ら好んだ想像を付け足してこもごもに口にしだした。
「あの男がユマ……」
観客席で飛び交う会話に耳を傾けながら、クララヤーナはさも不思議そうに眼下の男をみやった。
ざわつく人々の間を縫いながら、凍りついたように闘場に見入っているローファン伯の後の席に慌しく座った少女の姿があった。
「アカア!」
招かれてもいないのにこの場にいる娘にローファン伯は驚いたが、それより大きな驚きがあったせいで、咎める気も起こらなかった。
「お父様、先生は自分に任せろとおっしゃいました。初めておっしゃいましたのよ。『任せておきなさい』と……」
アカアの目がいつになく輝いている。
ローファン伯とて、ユマがすでに闘場に立った以上、どうすることもできない。この場でユマの無実を立証するのも難しい。シェンビィ公がユマを拷問にかけたのは見るからに明らかであり、それをだしに使えば、試合をうやむやにした挙句にシェンビィ公を不利に立たせることが出来るかもしれない。ただし、ローファン伯がシェンビィ公の家臣暗殺の首謀者であることは動かしがたい事実であり、その隠蔽のためにはガオリ侯の助力が不可欠だった。
生き返ったような目をしたローファン伯は、先ほど自家のために瀕死の傷を負ったヌルのことも忘れて、部下にあれこれと――そしてこそこそと指示を出し始めた。だが、それも次の光王とユマのやりとりで無に帰した。
司会の者がユマに問うた。
「貴方がユマ・カケル殿で相違ないな?」
「……相違ない」
「既に試合は終わっている。それでも闘場に立つ理由を聞きたい。貴方は闘うためにここに来たのか? それとも自分の無実を証明するために来たのか?」
観衆の視線が一斉にシェンビィ公に注がれた。闘士は試合期日まで生命の安全を保障されるという、光王によって認められた権利を踏みにじったのは彼だったからだ。
シェンビィ公はかっとなったように席を立つと、
「人殺しめ!」
と、傷だらけの男に向かって叫んだ。
「げっ……げっ……」
ユマは、喉が潰れて声ががらがらになっているせいだろうが、下卑た笑声でそれに答えた。
闖入者にたいして薄気味悪い――と感じたのは、多くの観客に共通するところだったが、ユマはそれを全く意に介さずに、御簾の張られた席に向かって言い放った。
「今日は誰と誰の試合だったか? 終わったのは誰と誰の試合だったのか?」
ユマのこの言葉に、既に勝利を手にしていたフェペス家当主が耳を疑ったが、先の試合に不満を感じていた観客達は、ユマが言外に置いた提案を喜んで受け入れた。
司会者はフェペス家当主の方を見たが、彼は動転しているのか、口をもごもごと動かすだけで、どうにもならない。次いで闘場に立つクゥを見た。
観客は時に、闘技場のルールそのものになる。闘士であるクゥはそれを熟知していた。先の試合は観客を満足させるに及ばなかった。それに、ただの剣士に過ぎないヌルに対して、魔術を使用したという引け目が彼女にはあった。
クゥが小さく頷くと、御簾の中で光王の言葉を承った側近が司会者に走り寄り、何事かを告げた。完全に独断だった。クゥは兄が投げかける視線を避けるようにしてうつむいた。
あまり間を置かずに闘場に二機の竜機が運びこまれた。司会者は試合の再開――いや、改めて開始を宣言した。先のヌルとの戦いは、これで完全に無効となった。光王の意思である以上、一度は勝利に浮かれたフェペス家当主もとやかく言う時宜を逸していた。この点、シェンビィ公も同じだった。光王が許可を与えた以上、彼にはどうすることもできない。たとえ光王の背後にガオリ侯がいたとしても。
もう、何度目だろう。闘技場が歓声で満たされた。
クゥは竜機の前に立つと、光王の方に向かって跪き、剣を地に刺し、誓いを立てた。
「精霊よ。偉大なるその王よ。王より選ばれし光の子よ。クゥ・フェペスは闘士ユマに勝利し、その魂をあなたに捧げることをここに誓います」
ユマを殺す――クゥはそれを躊躇わなかった。
額にかかった髪をかきあげると、クゥは颯爽と竜機に乗った。
その姿を眺めていたユマは、小さく目を閉じ、息を吸い込んだ。
――滅びよ……
頭の中で、誰かの声がした。拷問の最中、あれだけ助けを求めても返事の一つもよこさなかった声が、思い出したようにユマの頭の中で蘇った。
ユマは腰に差した剣を抜いた。剣の重みで足元がふらつきそうになったが、辛うじてこらえた。
――おい、おい。ふらふらじゃないか。あんなので闘えるのかよ?
観衆の野次だったが、ユマの耳には届かない。
父の目を盗むようにして、一般席でもみくちゃになりながら、クララヤーナはじっとその光景に見入っていた。
(何故、あなたはここに来るのよ。そんなのでクゥに勝てるはずないでしょう?)
先日といい、クララヤーナはユマの思考を全く理解できない。ユマは殺人を嫌ったが、それは憐憫の情からくるものではないように思えた。ユマの全身からほとばしるような感情は、ただただ烈しく、ただただ危ない。臆病なあまり、じっとこらえきれずに火に飛び込んでゆくような危うさである。
ユマは、右手に持った金細工の美しい宝剣オルベルを地に立てた。そしてゆっくりと片膝をついた。彼が何を誓うのか、興味を持ったのだろう。観衆も、クゥもそれを聞こうと息を殺して見守った。
「救いようのない愚者どもよ。お前達が望むことを、俺は望まない。お前達が望まないことを、俺はするだろう。そして願わくば、闘士の振り上げた剣が、弾け飛んだ竜機の欠片が、会場のやんごとなき誰かに、不運にも当たってしまわぬように……」
失笑を禁じえない――というのはこういうことを言うのだろうが、その余裕があったのは、貴族の席では当事者以外で神への冒涜に眉をひそめないような人物――ガオリ侯だけだった。
「ふっ、面白いことを言う。それこそやんごとなき御方は用心せねばならぬな」
ガオリ侯は自分の隣で青い顔をしているフェペス家当主に聞こえるように言った。だが、少壮の当主はそれに答える余裕があろうはずもない。ましてや光王の隣に席しているやんごとなき誰かの耳にも届きようがなかった。
竜機が動いた。巨大な金属の塊が大地を踏みしめる音は、耳に響くものがあった。
ユマもまた竜機に乗った。彼は闘場の中央でクゥと槍を交差させた。
「クゥよ。クゥ・フェペス!」
がらがらの声が身を乗り出してクゥに語りかけた。クゥは視線をそれに合わせるだけで応えた。
ユマは次の台詞を忘れてしまったように、数秒の間、クゥをじっと見た。
クゥはわずらわしげにユマの次の言葉を待ったが、やがて彼の目の奥に蠢くようににじみ出る鈍い光を見た時、無意識に槍をはじいていた。
そしてユマは、もう嗤ってすらいなかった。
夕日を背にした時の広く濃い影の中にいるような、クゥはそんな感覚にとらわれた。そしてその影のどこかに、ユマがいた。
黒い画板をドス黒い絵の具で塗りつぶしたように、うねる闇。
クゥの頭の中にそんな言葉が浮かんだ時、ユマの竜機が土煙を上げて動き出した。