表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
貴く翔べ  作者: 風雷
44/115

第四章「怒発」(7)

 会場にいる全ての人間が、その光景に釘付けになった。

 丸腰に近いクゥに襲い掛かったはずのヌルは、何の前触れもなく後方に吹き飛んだ。

 ヌルのつけた甲冑は弾き飛ばされ、彼自身も浅からぬ傷を負ったようだった。剣を杖にして辛うじて立ち上がったヌルの胸元から赤く滴るものがあった。


――弩発どはつだ!


 会場の中の誰かが叫んだ。小波のようなざわつきの後に、会場をひっくり返したような大歓声がクゥに向かって放たれた。

 エイミーの進入以前にシェンビィ公爵邸を抜け出したクララヤーナは、麻色のフードで面貌を隠し、観客席の最前列で試合を観戦していた。


「今の……何?」


 クララヤーナですら、眼前で起こったことを全く理解できないでいた。

 クゥは術士以外の闘士には、決して魔術を使わない。それをわかっているが故に、彼女の混乱は大きかった。それに気のせいだろうか、一瞬だけクゥの背後に誰かの影が重なって見えた。

 クララヤーナは闘場の二人を凝視した。

 ヌルは右肩に深々と突き刺さった短剣を、信じられぬといった風に呆然と見ている。

 クゥの方こそ、これ以上ない好機にも関わらず、しりもちをついた姿勢のまま、立ち上がる素振りすら見せない。会場の歓声ばかりが、何かに呆気に取られている二人を囲んで渦のような熱気を作り始めた。

 クゥは背筋に怖気が走るのを感じた。


(今、何かがわたしに触れた……)


 風――ではない。確かにそれは人の手だった。それに触れられたと感じた時、目の前が真っ白になった。その中で一瞬だけ誰かの姿を見たような気がしたが、気づけば自分の左手にあった宝剣フェペスが、宝剣と呼ぶにはあまりにも無骨な刀身を深々とヌルの肩に食い込ませていた。

 左手が痺れている。それは生半なまなかなものではなく、まるで切り落とされたように肘から先の感覚が全くない。


(わたしは今、術を使ったのか?)


 無意識のうちに剣を飛ばしたのだろうか。だが、いかな術士といえども一秒にも満たない間にそれを行えるはずがない。

 眼前のヌルはというと、剣を杖に立ったまま、小刻みに全身を震わせている。

 それをようやく意識したクゥは、己に立ち返った。ヌルを殺すことで、故地ティエレンと、フェペス家の名誉を取り戻さねばならない。

 ヌルに蹴り飛ばされた際に落とした細身の長剣を拾うと、クゥはおもむろにヌルに近づいた。

 血まみれの闘士は、しかし意識はあるらしかった。苦痛に顔をゆがめるわけでもなく、むしろ目元に涼しい風さえ吹いているように思える。


「言い残すことはある?」


 首元に剣先を突きつけられたヌルは、しかし静かに目で笑っただけで、クゥの問いかけに答えるつもりはないらしかった。


「いいわ。闘場の(つゆ)になりなさい……」


 クゥが剣を振り上げると、闘技場が水を打ったように静かになった。


(ああ、この感覚だ……)


 背中に粟が立つ感覚。先ほどの怖気とは違う、これは闘場の勝者にのみ味わうことを許された感覚でもある。ヌルが、トーラのように負け惜しみを言ったり、いつかの三流闘士のように無様に命乞いをしないおかげで、聖堂に響く鐘の音にも似た重々しく神々しい音が、クゥの中で徐々に強さを増していった。

 闘技場は血の聖地だ。それは強さに対する信仰そのものであり、人々が強く願い、祈るほどにクゥのような存在が神聖ともいえる高みへと押し上げられてゆく。人々に倫理を説く神とは違って虚飾を必要としない分、それは生臭いほどに人々の意に即し、しかし純粋ですらある。今のクゥは、弾け飛ぶ汗粒のように輝きながら、人々の信仰を一身に受け止める巫女のような存在であり、敗者であるヌルは、神々に捧げられた供物である。彼もまたこの儀式をより神聖にするための要素でありえた。

 フェペス家の積年の恨みもあってか、今日の勝利はクゥにとって空前の美酒だった。ヌルの首を刎ねればそれは絶頂へと達する。 

 だが、その先はどうなのだろう。

 ヌルを殺し、フェペス家の故地を取り戻した後、自分に何が残るのだろう。

 ふと、シェンビィ公の三男ルルアの穏やかな顔が思い浮かんだ。残された己の長い人生は、彼に尽くすことのみに捧げられる。


(それでもいい……)


 今の、この瞬間をこの先何十年も思い出し続けることができるのならば、それもかまわないと思った。

 クゥは剣を持った右手をきゅっと引き締めた。

 と、その時――クゥの視界に一人の男の姿が飛び込んできた。

 観客席ではない。闘技場の入り口――修羅達の棲家(すみか)から現れたのは、鴉のように黒いマントで身をくるんだ長身の男だった。

 満身が創痍(そうい)に覆われた男は、水をうったような場内に、ひたすら不愉快な静けさを撒き散らしながら一歩、また一歩と進んでいった。



 黒衣の男が闘場の砂を踏んだ時、観客の中から声が上がった。


――あいつ、前の試合の男じゃないか?


 この場の多くの者が、先日のクゥの試合を観戦していたようで、彼らは記憶に新しい闖入者(ちんにゅうしゃ)が懲りもせずに再び自分達の前に姿を現したことに驚いていた。

 クララヤーナもその中のひとりだった。


「ちょっと、あの馬鹿。今度こそは殺されるわよ……」


 クゥとトーラの試合後に男は不吉な予言を残して去った。これに半信半疑だったクララヤーナは、クゥへの忠告もかねて彼女に同行したが、何の危難にも遭わなかったことに不満を感じていた。

 だが、実際はシェンビィ公の重臣が暗殺されるという大事件が起こったことで、クララヤーナは名前も知らぬ男に再び興味を持ち始めたのは確かだ。

 その男が、また目の前にいる。恐れ知らずもよいところに、今度は堂々と闘士達の聖地に足をつけている。


(あの男、そんなにクゥが好きなのかしら?)


 クゥの試合を観ていたときの男の表情を思い出したクララヤーナは、彼が女に異常なまでの期待を抱く男のような気がして、クゥの代わりに気味悪がった。


「やっぱり変人よ。彼、変態だわ」


 ぶつくさとひとりごちるクララヤーナの声をかき消すようにして、観衆が騒然となった。男がまた、クゥを愚弄しに来たのだと思ったのだ。


――帰れ、恥知らずめ!

――それ以上闘場を穢すのなら、俺達が相手になるぞ!

――警備は何をやっている。早くあの勘違い野郎を叩きだせ!

――奴が何か言ったら、五体を引き裂いて、あれを(まぐさ)に突っ込んでやれ!


 中にはクララヤーナが聞いたこともない類の罵詈(ばり)を放つ者もいたが、これも先日と同じように、クゥが口を開こうとしたところで彼らは静まった。


(阿呆がまた来た)


 クゥは、まだ興奮が抜けきらないのか、やや震えた声で、観衆に向かって言った。


「いつかの如く、また闘技場にからすが迷い込んだわ。彼はまた、鳥の言葉でガアガアとわめくだろうけれど、ここはもう一度、彼にチャンスを与えましょう。さあ、光王の御前でこの前と同じことを言ってみなさい!」


 場内に哄笑が巻き起こった。先日のクゥの試合を観ていない貴族達は、臨席の者の肩を叩いては黒マントの男の逸話を知り、男の軽薄さを笑い飛ばした。

 光王の真横の席、シェンビィ公の逆位置に座るファルケ・ファルケオロは、他の貴族と同じように男についての話を聞いたが、笑うことをせずに興味深げに男を見下ろした。

 ファルケのさらに隣に座っていたフェペス家当主は、クゥの勝利に興奮していたこともあって、というより闘技場自体初めて足を踏み入れる彼は、観衆の熱気に当てられたのか、呆然とクゥの発言を聞いていた。観衆達の視線の何分の一かが、自分の席に向けられていることも知らずに。



 黒マントは、剣で体重を支えたまま微動だにしないヌルの肩に手を当てた。


「いい様だな」


 意識が朦朧とする中、ヌルは自分に侮辱の言葉を吐く男を睨みつけた。


「……あっ!」


 ヌルは震えながら男の顔を確かめようとしたが、平衡を崩し、仰向けに倒れた。気づけば、黒マントが屈んで自分の顔を覗き込んでいた。


「死んでいれば、よかったか? だとすれば残念だったな。お前も、ホルオースも、ローファン伯も、シェンビィ公も、実にくだらないことで人を殺す。お前も一度、地獄を見るがいい」


 男のがらがらに枯れた声は、ヌルの耳にだけ届いた。


「貴……様……」


 ヌルが気を失うのを見届けると、黒マントは闘場の入り口に立っているローファン伯の奴隷達を指差し、次いでヌルを指した。手当てをせよ――と暗に言ったつもりだが、試合は終わっていても、見世物である闘技自体はまだ終わっていない。そのため数人が躊躇していたが、やがて一人の奴隷少年がヌルの元に駆け寄った。リュウだった。

 殺される前にヌルを担ぎ出そうというローファン伯側の態度に、観客は一斉に非難の声を上げた。その中で一人、シェンビィ公だけが顔を青くしていた。彼は他の観客とは違う意味で、あの黒マントに見覚えがあった。


「クララヤーナは屋敷にいるか?」


 決して焦りを見せぬように、シェンビィ公は近臣に問うた。近臣はものの数秒の間に額に玉のような汗を浮かべ始めた。それと反比例するようにして、シェンビィ公の表情が涼やかさを失っていった。


「いえ、それが……」


 言い終わらぬ間に、怒声が放たれた。観客の野次に消し飛んだそれは、しかし近くの席にいた他の二公代理や、ガオリ侯が聞きとるには十分だった。ガオリ侯は眉一つ動かさずに、怒り狂うシェンビィ公を見ていた。

 闘場に視線を戻そう。


「鴉殿。まだ試合が終わっていないというのに、何故、ヌルを退場させたの? しかも光王のお許しも請わずに……」


 自分でそれを許したとはいえ、男のあまりに勝手な振る舞いにいらいらしだしたクゥが言った。

 男は小さく嗤ったようだった。

 さすがのクゥもこれには怒りをあらわにした。彼女の意を察するまでもなく、警備の者が男を捕らえるべきなのだが、どういうわけかそれは起こらなかった。

 いつまでも男が闘場からたたき出されないことに、観客が首をかしげる中、光王の席に走り寄る側近の姿があった。誰が最初にその者を見止めたのかわからないが、光王が動くと知った観客達は、今度は固唾を飲んでことの成り行きを見守ることを選んだ。彼らの多くは、闘技を穢したこの男に厳罰が下されることを望んだ。

 幼い側近は光王の席の前で跪いた。彼は御簾の中の主に何かを小声で告げると、光王の後ろに控える従者に混ざって立った。

 光王が闖入者を断罪するだろうとたかをくくっていたクゥは、せっかくの勝利を台無しにされた恨みを晴らそうとしてか、勝ち誇ったように男を見た。

 男はまた嗤った。

 嗤うという行為の、何と邪悪なことか。

 光王の言伝を受け取った司会者は、驚いたように光王の席を振り返ったが、従者が促すように頷いただけだった。

 司会者に割り込むようにして、クゥが口を開いた。


「さあ、鴉殿。その汚らわしい黒マントを脱ぎ捨てなさい。貴方の命を闘技の神に、そして遺言を貴方の家族に届けなければならないのだから!」


 司会者による代行とはいえ、光王の発言を妨げたクゥに、フェペス家当主は嫌な顔をした。


「クゥはいつもあのように光王に無礼な振舞いをするのか?」


 と、近臣に問うてしまうほどに。

 だが、観衆の心はクゥの言葉に傾いた。未だに発言をしない黒マントが何を言うか、興味を持ったのだ。

 男は、右肩についたマントの止め具を、軽快な音を鳴らせて外した。


「クゥよ。貴族というものは皆、君のように物覚えが悪いのか?」


 男はマントを脱ぎ捨てた。

 ユマは、痣と火傷のあとの生々しい顔を白日の下にさらした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ