第四章「怒発」(6)
確かにヌルは、腕力でも剣の技量でもクゥを上回っている。
だが、闘技場という特殊な空間が全てにおいてクゥに有利に働いていることを、彼は知っていた。
どう考えても互角、あるいはこちらが不利というのが、冷徹なヌルがこの試合に対して下した、彼らしい判断だった。
そのクゥを出し抜くためには何が必要なのか。
クゥのファンでもある彼が、これまで何度か見た彼女の試合から分析するに、自分に有利な条件をわずかながらもみつけることができた。
(魔術は使ってこないだろう……)
今まで何度か術士以外の闘士と闘ったことのあるクゥだが、その時には一切魔術を使っていない。というより、竜機戦以外で彼女が弩発を使用しているところを見たことがない。あの化け物じみた破壊力は竜機という媒体を得て初めて生み出されるものであって、生身のクゥがこれを使えばその衝撃に耐え切れず、相手もろとも己の五体が吹き飛ぶだろう。だから、最も恐ろしい弩発を使用される心配はほぼない。
しかしながら、もしもクゥが命の危険を顧みずに弩発を使えば、魔術を扱えぬヌルにそれを防ぐ手段はない。十歩以上離れなければ、クゥに術を使うほどの余裕はないだろうから、ヌルは相手との距離に細心の注意を払うことで、最大の危険を回避することが出来る。
となると、この試合は純粋な剣闘となる。
クゥはこの国では珍しい二刀流だ。これは、海洋国家でもある隣国のペイル共和国でよく見るスタイルで、海上戦闘に慣れた国ならではの剣術だ。クゥの剣の師はペイル人らしいという話をヌルは知っているが、彼女の試合をごまんと観てきた彼にとっては驚くべきことではない。
左手に持った短剣はもっぱら防御のために使い、右手の剣で攻撃を行う。だが、これまで幾人もの闘士を地に沈めてきたように、クゥは時折これを変幻させ、相手の混乱を誘う。
(懐に飛び込まれる前に……)
ヌルの持つ剣はクゥのそれよりも長い。彼女が懐に飛び込んでくるタイミングさえつかめれば、一瞬で勝負が終わる。だが、それは常識に過ぎず、歳若い彼女の裏をかくことで、ヌルはさほど危険を冒さずに試合を終わらせる方法を考えた。
クゥは何の躊躇いもなくヌルに打ちかかってきた。彼女にとってはヌルの長剣が有効な間合いより、さらに距離を詰めなければならないから、当然だろう。
(意外にも馬鹿正直な……)
と、ヌルは余裕のある笑みを心中でこぼした。彼はクゥの突きを盾で容易く受けた。反撃のために剣を突き出そうとしたところ、違和感をおぼえた。
(おや?)
クゥの雪のように白い肌が思ったより近い――と思った瞬間、ヌルは思い切り後ろに飛びのいた。細長い剣先が閃光のような速さで眼前に迫った。
(切り替えたか。小賢しい!)
白く細い蛇のように、剣先が伸びた。盾で受けたのは長剣ではなく本来は防御に使うはずの短剣だった。ヌルが必ず最初に防御を行うことをクゥは読んでいたのだ。
(嫌に勘の冴える女だ。伊達に闘技で名を上げてはいないか……)
やや焦りを覚えたヌルはクゥの突き出した長剣を弾き飛ばそうとした。だが、すんでで堪えた。
クゥの繰り出した長剣の突きは、ヌルのこめかみを掠めた。
ヌルは反撃を行うこともできずに、体勢を崩し、後方に倒れこんだ。剣を持った右手を地につけると、クゥの視界を塞ぐためか、盾をつけた左腕を突き出した。
「無様ぁ――!」
普段は涼やかなクゥの声が高らかに響いた。女闘士は右手の長剣で眼下を突いた。
瞬間、クゥの視界が闇に閉ざされた。それが、飛んできた盾であることに気づくと同時に、腹部に衝撃を受けた。ヌルは、倒れかけた姿勢のまま、華奢な身体をした女闘士を蹴り飛ばした。
「あぅ!」
クゥは衝撃で二歩後ずさった。腹を押さえている右手には剣を持っていない。情けないことだが、蹴られた時の衝撃で落としてしまった。
ヌルのつけていた盾が地に落ちた後、ぱたりと倒れた。腕に固定するためのベルトが異常に緩んでいる。彼の行動に計画性があった証だ。
(いやらしい闘い方をする……)
女であるクゥが言うのもなんだが、女々しいの一言でかたつけられる。
これはフェペス家にとって、一家の命運をかけた大勝負である。ヌルの詐術を見抜けなかった自分にも非があろうが、やられたふりなどで相手を出し抜くのは、誇り高き闘士のすることではない。
会場がどよめいている。闘士らしからぬヌルの闘い方に戸惑っているのもあるだろうが、彼らはあっけなく罠にひっかかったクゥの実力にも疑問を持った。
ここで負ければ王都を覆い尽くしていた不敗のクゥ神話が崩れる。クゥにも名誉を重んじる心があり、それだけは死んでも受け入れるわけには行かない。負けるのなら死ぬ――というのが、この試合に文字通り己が身を賭けたクゥの覚悟だった。
だが、眼前の男はクゥの決死の心さえももてあそぼうとしているらしかった。
ヌルの視線から険しさが消えた。凄まじい殺気を発していた先ほどと比べて、随分と余裕のある目をしている。武器を半分失ったクゥの技量では、自分には遥かに及ばないと、彼の冷徹な頭脳が計算したのだろう。クゥにとっての屈辱は、ヌルの目に自分を殺そうとする意思がないことだった。
――俺が勝つが、お前は生かしておいてやる。
声なき台詞とともに、生臭い息を吹きかけられた気分になったクゥは、逆上のあまり目頭さえも熱くなった。
女闘士は辛うじて左手に持った短剣を構えた。その目は既に、飛び掛ってくるヌルを捉えていた。
(誓っていい。この男は殺す!)
クゥは心中で呪いの言葉を吐いた。
黒い甲冑で身を固めたヌルの影が、ひとまわり小さな女闘士を飲み込んだ。
その時、何かがクゥの背中にそっと触れた。