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貴く翔べ  作者: 風雷
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第四章「怒発」(5)

 三という数字がクゥの頭の中でこだましている。クゥにとっての三という数字は、今の彼女にとって目の前の敵以上に重みを持っていた。


――あと、三回よ。四でもなく、五でもないわ。三よ。この数字は決して増えない。ただ減るだけ。二になって、一になって、零になれば終わり。悪いことは言わないわ。もう、闘士を辞めなさい。


 心臓の奥からあふれ出るような声は、数日前に従姉妹のクララヤーナから言い渡された言葉だ。

 クララヤーナの才能は術士をとりまく魔力の分析に特化している。彼女の特異な目が捉えたクゥは、一昨日に前座試合で魔力を使い果たした魔術闘士とかぶって見えたのだ。

 クゥはその日の最後の試合で、竜機闘士のトーラを弩発(どはつ)で吹き飛ばした。だが、それは竜機の一部を破壊しただけで、トーラを絶命させるには至らなかった。トーラは確かに格下だったが、竜機と相性のよい土術士であったこともあり、手加減の許される相手ではなかった。だというのに、クゥの魔術にきれがなかったのは、彼女が自分の打ち止めが近いことを意識していたからだ。


――いちいち、騒がしい女だ。


 と、クゥを嘲笑ったトーラの死に際の台詞は、魔術闘士としての寿命が尽きることを恐れる心を抉っていたことに、クゥは後になって気づいた。

 クララヤーナから最初に忠告を受けたのは数日前で、大いに落胆したクゥは、不覚にも涙をこぼした。闘士として立てなくなれば、自分はすぐにでもシェンビィ家の三男に嫁がされ、一生自分の意思を殺したまま生きることになるだろう。落ち目の貴族の家に生まれたからには、それは避けられぬ宿命であり、家運という意味では、むしろ僥倖(ぎょうこう)といってもよい。



 クゥは父や兄が好きだ。

 母はフェペス家に嫁いだことを大いに悔やんでいるらしかった。それなりの名家の出であるものの、卑妾の娘であることから、フェペス家のような目立たぬ貴族にやられたのだろう。

 母は美しかったが、クゥを見る目はいつも冷たかった。自分が母の本当の娘ではないからだということに気づいた時には、既に他界していた。クゥは父のフェペス子爵が王都で愛人との間にこさえた娘で、兄と異母兄妹になる。

 たよりの父は、何度か狩りに連れて行ってもらったこともあり、また兄と自分を分け隔てることなく愛したので、幼い頃に他界した父の像は、クゥの中で永遠のものになった。

 現フェペス家当主である兄は、気が弱く、猜疑心の強いところがあるものの、身内に対しては比較的寛大で、何よりも美しい妹を溺愛した。クゥとは十以上も歳が離れているから、あるいは彼は兄以上に父でもあった。

 ローファン伯に本拠であるティエレンの地を掠め取られ、父が謀殺されたことで、兄は不運なことに若くして一家の長となった。それからのフェペス家は忍耐の時が続いた。兄は知略でも、勇気でも妹であるクゥに遥かに劣り、どう甘く見ても英邁とは程遠い。ただ、耐えることだけは知っていた。そして、今のフェペス家当主に必要なのはあらゆる苦難や恥辱を耐え忍ぶ力だった。

 当主が耐えるということは、その下にいる者たちはより多くを耐えるということだ。クゥにとって陰鬱な青春が始まろうとしていた。シェンビィ公爵家の三男との婚約も、その延長でしかない。

 クゥが闘技場に自分の名前を登録したのは、あるいは大人たちの都合で自分の青春が穢されたと感じた子供が、ぐれる(・・・)のにも似ていなくはない。幸か不幸か、クゥは勝った。彼女は術研究に秀でており、優秀ならば家門を問わない精霊台の学生でもあった。自分の研究課題である空術を闘技場で体現したとき、クゥの名は羽を生やしたように王都を駆け巡った。

 当主である兄は、クゥの闘技場デビューの報に肝を冷やし、


「怪我をする前にやめよ!」


 と、声を震わせるのだが、クゥが試合に勝つとそのことを忘れたように、


「ああ、お前はフェペス家の宝だ」


 と、クゥを激賞する。事実、クゥの活躍によってフェペス家にわずかな日が射し始めた。

 闘技場の名目上の主催者は光王だ。名目上というのは、事実上の経営者は王宮から委託された商家で、権益自体も彼らにある。ただ、闘士の中でも優秀な者は光王直々に王宮名誉闘士という、騎士爵にも匹敵する当代限りの称号を与えられる。実際に領地を下賜されるわけではないが、王のおぼえが良くなるという利点がある。

 クゥはまだ王宮名誉闘士に選ばれたわけではないが、王都での彼女の人気は、道を歩く若い娘のほとんどが闘花冠で髪をまとめているように、とどまることを知らない。これによって、フェペス家は民衆から好感をもたれるようになり、それを利とみたいくつかの貴族がフェペス家と交誼を結ぶようになった。

 フェペス家当主はクゥを一家復興の道具にしているつもりはないのだが、実際はそうなりつつあった。だが、クゥもまた喜んでそれを続けた。華奢な腕で剣をふるう娘ひとりに、一家の全てを託してしまうほどに、この家は落魄(おちぶ)れていたともいえる。

 最初こそ、一家への反逆であった闘技への挑戦は、いつしかフェペス家を支える生命線にすらなった――というのはクゥの密かな自惚れに過ぎない。フェペス家当主はクゥの活躍を素直に喜んだが、一家の支柱である彼には、所詮はこれが付け焼刃でしかないことがよくわかっていた。そのことをクゥに悟らせないのは、可愛い妹への一種の愛情であるのかもしれない。ただし、ユマとの試合にクゥの身柄を賭けの対象にしたように、彼は身内ですら理解不可能な冷徹な判断を下すことがある。それを支えるホルオースの苦労は並みではない。当主は妹を愛しているが、一家と比べるほどの重みを持っていない。

 とにかく、クゥにとっては故地ティエレンの奪還が、フェペス家のためにできる最後の仕事だった。あとは、品がよく頭が良いだけのシェンビィ公爵家の三男に嫁いで、己の一生を空費するだけだ。貴族の女としての自覚くらいはクゥにもあり、その覚悟は既にできている。それに、シェンビィ家の三男はクゥを好いており、優しい男に嫁ぐ自分はまだ恵まれた方だと思った。政略結婚の道具にされる女は、繁殖のための機械以下に扱われることが、ままある。



 クゥがキダの逃走を知ったのは試合の直前になってからだ。闘士は試合前になると控え室にこもるのだが、クゥの場合、鎧を着ける途中で思索にふける悪い癖があり、半裸の女闘士を無骨な従者で囲むわけにもいかず、クゥ以外のものは室外にたたき出される決まりになっている。

 相手が強敵であるほど、想像の中での戦いが膨らみ、クゥの精神集中は時間を要するようになる。彼女の習慣を身内が破るわけにもいかず、キダ逃走の報は長らくクゥに伝わらなかった。

 あまりにも彼女の思索が長いので、案じた侍女の一人が、クゥの元に向かった。ノックの後、静かに控え室の扉を開けた時、生白く光る小さな背中が目に飛び込んだ。パチン――と、甲冑の止め具をつける音が鳴った。


「そう、キダも逃げたの……」


 かなり遅れて報告に来た家人を前にして、クゥはわずかに目を落とした。


「我々の不手際です。お許しください」

「いいえ、少し残念だっただけ。ヌルとかいう剣士には負ける気がしないわ」


 クゥはキダに斬りかかられた時のことを思い出した。彼の太刀筋にはクゥの知らない技術が凝縮されているような気がした。強者と剣をあわせたとき、その者の鍛錬の成果が凝縮された何かを感じ取るときがあるのだが、キダの場合、彼個人の技量ではなく、その裏にある大きな秩序を感じた。彼の剣技がかなりの練度で体系化されたものであることを知ったとき、クゥはキダに興味を持った。だが、その謎を紐解きたいと、かすかに望んでいる自分に気づいたとき、クゥは既に闘士としての寿命を終えようとしていた。

 クゥは最後にキダと闘いたかった。剣でも、竜機でも負けるはずのない戦いだ。それでも、キダならば今までにない発見を自分に与えてくれそうな気がした。闘技場の意向として、人気のあるクゥに屈強の闘士をぶつけるわけにも行かず、いつの間にやら格下とばかり試合を組まれるようになった。ユマに向かって竜機試合を促したのも、自分に斬りかかった奴隷を慣習に逆らってまで死罪に処さなかったのも、一重にキダと剣を合わせたかったからだ。ただ単に彼を呼びつけて決闘を行うことは、既にフェペス家の財産ですらあるクゥには許されぬ勝手だった。

 侍女がホルオースから言伝られた情報では、ヌルはキダ以上に油断のならぬ相手らしいが、クゥは彼がキダやユマほど必死になって闘うことはないと思っている。ローファン伯がキダとユマで試合を行うことに難色を示さなかったのも、彼にとってティエレンという地がさほど重要ではないことを意味している。ローファン伯爵家は負けても己が身が傷つくことはないが、フェペス家は負ければ一家の娘であるクゥが奴隷の身分に落とされる。必死さという点において、既に勝負が決している。ヌルがクゥより数段上の剣士であればわからないが、クゥは今までヌルの名すら知らなかったことから、それもあるまい。


「さあ、行きましょう。試合が始まるわ」



 闘場に向かう途中、通路で彼女を迎える姿があった。

 輝くような黒い長髪に、穏やかな瞳が印象的な男だ。長身で、意外にも雄大な体躯の持ち主だが、ゆったりと着飾った服がそれを隠している。


「ルルア様……」


 シェンビィ公爵家の三男、ルルア・シェンビィだ。

 クゥが駆け寄ると、ルルアは優しく彼女の肩を抱いて言った。


「何てことだ、クゥ。負ければヤムの奴隷になるなんて! 君の兄は何という冷酷な人なのだろう」

「大丈夫です。必ず勝ちますわ」


 一見穏やかな男だが、ルルアは無能なお坊ちゃんではなく、それなりにシェンビィ公に目をかけられている。彼が今の今までクゥの前に姿を現さなかったのは、ペイル共和国と交誼を結ぶため、シェンビィ公の使者として任地に赴いていたからだが、どうやら婚約者が己の身柄を賭けた危険な試合に臨むと知って、急いで帰還したようだ。ただ、シェンビィ公がこの試合に乗り気である以上、彼個人が試合に関して口を挟むことはできない。


「怪我をしないようにね。クゥ、無事に帰ってきておくれ……」


 クゥの額に薄い唇が触れた。女は少しの間、胸に手を当てていたが、やや迷うような素振りを見せた後、口を開いた。


「あの、ルルア様。もし、わたしが……」


 言い終わらぬ内に、闘場から歓声が響いた。ヌルが入場したようだ。


「えっ……今、何か言ったかい?」


 かぶりを振ったクゥは、静かに男の腕から己を解き放った。

 彼女はもう、闘士に戻っていた。

 クゥが闘場に立つと、鼓膜が破れんばかりの歓声で、皮膚が震えた。対角に黒い鎧をまとう男が静かに立っている。

 二人は闘場の中心で跪き、神に向かって祈った。

 先ほど言い損なった言葉が、何故か鮮明に己の心でこだました。

 ヌルは長剣をすらりと抜くと、盾で身を隠すように構えた。対してクゥは盾を持たない。右手に細身の剣を持ち、左手には太く頑丈な短剣を握り締めた。

 二人が闘技場の中央で互いの剣を交した時、歓声とともに試合が始まった。



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