第四章「怒発」(4)
キダが消えた。
それこそ魔法では――と思うほど唐突に、そして跡形もなく消えた。
キダの逃走を知ったフェペス家の者たちの顔が蒼ざめたのも無理はない。
たとえローファン伯の側で試合に臨むといっても、試合開始前の時点では、飽くまでキダはフェペス家の人間であり、闘技場の名目上の主催者である光王の顔に泥を塗った責を問われるのは、彼らだ。
対するローファン伯とて余裕があるわけではない。客分であるユマがシェンビィ公の家臣の暗殺に関わっていたことが実証されれば、それだけで自分の首が寒くなる。
(ユマの自白はありえないが……)
と、ローファン伯は太く角ばった顎を撫でた。シェンビィ公爵家は術士の家系であり、ユマがローファン伯爵家に対して忠節を貫く態度に疑問を持てば、口封じの呪いに気づくかもしれない。ただし、呪術の解法は他の魔術と違って、元を断つという手段以外なく、呪術の媒体――つまりは魔方陣として用いたリンが健在である限り、ローファン伯側はぎりぎりのところで不利に立たされずに済む。むしろユマが獄死すれば、非難はシェンビィ公に集まるだろう。
ローファン伯は光王を挟んで対の席にいるフェペス家当主を見やった。キダの逃走を知らされた彼は、目の焦点が合わずに唇を震わせている。彼にもう少し知恵があれば、シェンビィ公がユマを握っていることを有効に生かすはずだ。もとよりこの男はローファン伯の眼中にない。
(ホルオースは何をやっているのだ)
クゥとユマとの試合が決定した翌日、フェペス家の重鎮であるホルオースが、再度ローファン伯爵邸を尋ねた。
前日の彼の不遜な態度が愉快ではないローファン伯は、しぶしぶ彼に会ったが、ホルオースの口から出てきた言葉は意外だった。
――取引をしたい。その代わり、貴方に勝ちを献じましょう。
八百長の誘いだ。ただし、ホルオースが持ってきた話はローファン伯の予想を超えたところにあった。
繰り返すが、旧フェペス家領で、現ローファン伯爵領であるティエレンは、王都リヴォンから北東へ百公里ほど離れたところにある、中規模の街である。
フェペス家発祥の地であり、一部の住民は今でもフェペス家のことをティエレン家と別称することがある。旧主を忘れず、かたくなに新しい領主の支配を拒む彼らに手を焼いたローファン伯は、兵を出して力づくで彼らを従わせた。王都からあまり離れぬ場所で力技を行ったローファン伯は一時期非難にさらされていたが、ガオリ侯という強力な後ろ盾もあり、宮廷で問題視されるには及ばなかった。
だが、最近になってローファン伯に傷を求めようとした人物がいる。
シェンビィ公だ。彼がローファン伯を没落させることでガオリ侯の勢力を殺ごうともくろんでいることを、ホルオースは告げた。ホルオースの抜け目なさは、シェンビィ公が陰密に立てた計画を明かしただけでなく、暗躍する人物の名を挙げたことだった。かつてシェンビィ公がティエレンの住民とローファン伯の間で仲介に入ったことがあり、その時にシェンビィ公の代役をつとめた人物である。
近年になってティエレンやその近辺の領地に不穏な動きが出始めていることを、ローファン伯は憂慮していた。裏で住民たちを唆している者がその男であることまで掴んでいた。
ホルオースが計画の全貌を把握していたということは、彼自身がこの計画の参与者であった証でもある。
(よし、殺そう……)
と即断するのであれば、ローファン伯は軽率と言うしかない。だが、実際の彼は背に冷や汗をかいたまま、身を硬直させていた。というのも、その男の暗殺はガオリ侯との共謀ですでに計画されていたからだ。ローファン伯としては、こちらの動きに気づいたシェンビィ公が罠を仕掛けたのではないかと思った。だが冷静に考えると、わざわざ尻尾を掴んだことを相手に教える馬鹿はいない。もしかするとフェペス家は本気でシェンビィ公を裏切るつもりなのではないか。
ホルオースの出した条件とは、今後、フェペス家をガオリ侯の勢力下に加えることだった。似たような話を他家からも頼まれたことのあるローファン伯は、ガオリ侯を見誤らなかった自分の判断の正しさを当然なこととして受け取った。
ローファン伯は臣下のヌルを使わずに、ホルオースを実行役に命じた。
(最後にはこいつに何もかもかぶってもらおう)
ガオリ侯と相談し、その段取りまで済んでいたのだ。フェペス家が没落しようがローファン伯にはどうでもいいことだが、シェンビィ公をけん制するのにも命がけな都合、ホルオースには捨て駒になってもらった方が得策だ。
だが、それもユマが暗殺実行犯として捕えられたことで無茶苦茶になった。
ローファン伯がユマをシェンビィ公の手先ではないかと疑ったのは、彼がアカアの関心を巧みにかったことと、やはりクゥとの試合にこぎつけたのがユマ自身だったからだ。だが、今やユマがシェンビィ公の手先である可能性は限りなく低い。
キダは逃走したが、闘技試合の中止は宣言されていない。こうなればヌルを代役に立てて闘技を行うしかない。ヌルは竜機を操縦できないから、剣闘試合になる。ローファン伯は剣の技量ではヌルの方を上に見ている。彼は闘士でも騎士でもないが、名門のローファン伯爵家随一の剣士だ。格下と戦って黄色い声援を浴びるだけのクゥに負けるとは思わない。クゥは魔術を使うが、一瞬で勝負が決まるような剣闘試合では魔術は使いづらく、役に立たない場合が多い。
「相手が取引を忘れているようでも、クゥは殺すな」
ローファン伯は闘場の間際まで駆け下りると、急いで甲冑を着込むヌルに言い含んだ。この闘技は、いわばシェンビィ公とガオリ侯の代理戦争である。ローファン伯としてはクゥを得たところで何があるわけでもなし、逆にティエレンという産業の乏しい街を失うことも大事ではないだろうに――と、ヌルは一瞬だけ問うような素振りを見せたが、すぐに頷いた。
既にキダの逃走は光王の耳に入っている。臨席のシェンビィ公は不愉快そうな声で、
「失態だな」
と、ローファン伯を罵った。フェペス家当主ではなく、ローファン伯を叱ったのは彼の悪意だろう。すると、王を挟んで対角の席に座っていたガオリ侯が小さく笑った。
「ユマを監禁しておいて、よく言う」
地獄耳なのか、シェンビィ公はこれを聞き逃さなかったらしく、一瞬だけ刺すように彼を睨みつけた後、勝ち誇ったように口の端を曲げて着席した。
「あれは、羽をもがれる直前の蛾よ」
シェンビィ公は光王の左隣の席に着いているが、逆に右隣は、オロ王国で唯一家門の高さで光王と同等の存在であるファルケオロ家の席だ。その席に着いているのは老年のファルケオロ公ではなく、眩しいほどの金髪をなびかせる淑女だった。
陽光を弾く稲穂のように輝く金髪にすらりとした長身の淑女は、見る者が思わずため息をついてしまうほどに均整のとれた顔造りをしている。風が揺らぐたびに金糸の縫われた白衣が光を放つようである。碧色にすんだ瞳は宝石のようでもあり、目じりはやや下がっていて目元に泣き黒子がある。
光王に最も近いところにいる彼女の名はファルケ・ファルケオロ。
病を患う現当主の孫である彼女が、当主の代行として光王に臨席している。
彼女の後方に、三公の最後のひとつであるトグス公爵家の席がある。トグス公は病弱という理由で公式の場には全く姿を現さず、公務のほとんどを家臣が代行している。ファルケオロ公爵家と違って血族を代理によこしたわけではないから、他の二公よりも席順を下に置かれている。
光王だけならまだしも、オロ王国最高の権力者である三公をも集った以上、これはもはや闘技試合とよべるようなものではない。それを知っているからか、いつもより貴族がやや多く入り混じった観衆の興奮は異常なほどだった。
やがて、太鼓の音が大きく鳴り響いた。司会役の男がいつも通りの文句をやや早口で言い終えたのは、観客のほうが試合を熱望していたからだった。彼らはクゥに続いて対面から入場して来たヌルを見て、一様に首を傾げたが、ほとんどはクゥの試合が観れればそれで満足らしく、癇癪を起こした子供のように、闘場に血をねだりはじめた。